第1話
黒い海に白いしぶきをあげて漁船が進む。冷たい夜風が無数の小さな針となり刺すように頬を撫ぜる。イアンは大きく息を吸いゆっくりと吐くと白い息が一瞬で後方へと流れて消える。
クライスからずっと離れてしまえば、空と海の境界線が曖昧で闇一色だ。見上げれば星が瞬く空、視線を落とせば揺らめく海と知る。
落ち着かせるための深呼吸に身を震わせた。柄にもなく緊張していることを自覚させられそうだ。身の震えは失敗が許されない緊張からではない、冷たい空気を吸い込んだせいだと言い聞かせた。
徐々にスピードを落としエンジン音が止まった。
「ここでよろしいので?」
ダスティンはゴム靴が濡れた床に擦れぎゅっぎゅっと音を鳴らして、船首にいるイアンに近づき声をかけた。顔以外を濃紺のウェットスーツで身を包み、漁師へ顔を向けると暗闇のなかに肌の色が浮かびあがる。
「ああ。大丈夫だ」
酸素ボンベを背負いゴーグルで目元を覆う。
「予定通り、合図を送るから迎えに来てくれ」
「わかりやした……それで……」
ダスティンは肩から伸びる太くたくましい腕の先で指をこすり合わせていた。がたいに似つかわしくない仕草は何を言わんとしているかすぐに察した。
「操舵室……扉の右壁に貼り付けておいた」
ダスティンは足早に操舵室に引き返した。そしてこちらに戻ってきた時には機嫌よく白い歯をみせた。
「さて……」
もう一度大きな深呼吸の後にレギュレーターを咥え、背中から海面へと身体を滑らせた。どぽんと波の間に音をたてる瞬間目を閉じて次に目を開けると波の向こうで夜空が揺らめいた。
ゴーグルの淵にある突起物を押すと白い明かりがつく。手元を照らす小さな明かりは闇が濃い海中では心強い。頭を海底へ向けて水を蹴りゆっくりと沈ませた。底に辿り着くと砂がふわりと舞い上がり散る。両手で砂をかきわけるとこつんと堅いなだらかで小さな人工の山が手に当たる———これがケーブルか。汚れを取り除くように、小刻みに砂を払いのけてライトをかざすと製造番号らしき数字が印字されていた。経年劣化のためか少し掠れている。
記憶している番号と一致する。ケーブルを辿ってフィンを一定の速さを保ちつつ上下に動かし続けた。ボンベの酸素は有限だ。慎重に、冷静にと自分に言い聞かせてゆっくりと息をし続けながら、どれくらい続くか分からないケーブルを頼りに目的地へと進む。心許ないわずかな明かりは不安を芽吹かせる。小さな芽は勢いをましてまして心を蔓延った。
———俺は工作員じゃねぇんだよ。
それどころか国を背負う軍人でなく雇われ傭兵だ。頭が良いわけでもなく体力以外には何も自信がない。上官の指示に従うだけの小隊の駒の一人に過ぎない。銃を担ぎ、手りゅう弾を投げ前線で命をかける。たとえ命を落としても代わりがいる。大きな壁の煉瓦のひとつのようなもので、穴が空いて崩れても新たな煉瓦、もしくは急ごしらえの土嚢で埋めればいいだけの話なのだ。それでも何度もイアンは生き延びた。運がいいのだろう。戦友の屍を踏み越えてきた。
先日も大陸での戦場から、しばらく生きていくには困らない報酬を受け取りクライスに戻って来た。少しの休暇を自分に与えたが心は休まらなかった。音が、臭いが、脳裏に焼き付いた光景が夜の眠りも妨げる。しかしそれらはイアンにとってとるにたらない悩みだ。悲しいかな戦地に赴いて武器を持つことは苦にならない。一人でも多く敵兵を殺し生き延びる。死ねば終わりの単純明快なルールは戦場で生まれ玩具より先に銃を持った人生を送って来たイアンには天職とも思えた。
心が休まらない原因ははっきりしている。このウェットスーツの下にしのばせた一冊の手帖のせいだ。年季が入り柔らかくなった触り心地のよい黒い牛革の手帖。一度きりの戦地で命を落としたヴィンセントの忘れ形見だ。散り際に託された手帖の中には一枚の写真が挟んであった。
普段から柔らかな物腰で微笑んでいたヴィンセント・アンワース。戦場なぞ誰よりも似合わないであろう優しい人間だった。少なくともイアンからみるヴィンセントは戦場に向いているタイプだと思わなかった。
そんな彼が写真を見るときは一際瞳に慈愛を讃えていた。幾年前だったか、飲みに誘われて酒場へと赴いた時にその写真をみせてくれた。イアンはにやりと「いい女か?」とからかえば、はにかんで「そうだな」と小さな写真を差し出した。
写真の白い枠の中に彼の唯一無二の宝ものが映っている。緩やかなウェーブがかかったブロンドの美女。透き通る陶器のような滑らかで白い肌、切れ長の灰色の瞳、真っ赤なルージュを上品にひいている口元はきゅっと結ばれ控えめに微笑んでいた。彼女の腕に抱かれた二、三歳くらいの幼子が母親の胸に体を預けながらはにかんでこちらを向けている。色素の薄い髪は母親に似ており、翠色の瞳や口元は生き写しのようにヴィンセントにそっくりだ。
「確かにいい女たちだな」
「そうだろう」写真を丁寧に手帖に挟み直しジャケットの内ポケットにゆっくりとした手付きでしまった。ショットグラスに薄く残ったウイスキーを飲み干し満足げに微笑んだ。
「しかし知らなかったぞ。結婚していたなんて」
ヴィンセントとは時間の都合があえば場末のバーで二、三杯ひっかける。出逢ったのはもう七年も前だが、一年に数回そうやって互いの近況を話す。大抵は他愛ない話。美味い酒を飲んだとか、好みの女の話――取るに足らないものばかりだ。傭兵のイアンにとって心地よい時間だった。ヴィンセントは聞き上手だったおかげもあるのだろう。男同士特有の下品な話にも笑ってのってきた。
軽い仕事の話をすることはあってもヴィンセントは決してプライベートの話はしなかったので、あの日は珍しいことだった。酒の強い彼でも多少酔って気が大きくなっていたのかもしれない。確か仕事がうまくいっていないと愚痴から始まり、ショットグラスをすぐに煽っていた。気の毒に思ったイアンは自分ならではの解決法のひとつとして女に慰めて貰えばいいと小突いた。清廉を人の形にしたような男だ。馬鹿言えと返されるかと思えば、ヴィンセントは目を細めて内ポケットから手帖を取り出し写真を見せたのである。まさかいい女性がいるどころか妻で子供までいるとは思ってもいなかった。
「自慢できる家族がいるなら、もっと早く言ってくれりゃ良いのに」
それまで女捕まえろとか慰めて貰えなんて言っていた自分が馬鹿みたいじゃないかと悪態をついた。
「話す機会がなかっただけさ。言っておくけれど君にだから話さないわけじゃない。誰にも家族のことを話すことはない」
「誰にも?どうして」
「話す機会が増えると寂しくなるからさ。ずっと離れて暮らしているからね」
「どれくらい?」
「そうだな……」指を折って思案した。「今年十歳になるから……七年か。もうすぐ八年になるかな」
「なんでそんなに長く離れて暮らしているんだ」
「仕事でね。でももうすぐ会えるんだ。次の仕事が終われば」
ヴィンセントは何杯目かのグラスを握った。力が入ったのかグラスが小さく震え、琥珀色の液体が波打った。横目で彼の顔をみると薄っすらと目に涙の幕が張っていた。イアンはそれをみないふりをする。きっとすう年ぶりの再会に気持ちが高ぶっていたことで自分に話したのだと思った。
「いつか会わせてくれよ」
イアンは左手でヴィンセントの背中を思いっきり叩いた。
今もあの感触は覚えている。細い見た目よりがっしりした筋肉質の背中だった。そして右手には別の感触が残っている。家族に再会する前の最後の仕事———それは戦場だった。傭兵部隊の一人として参加していた。戦地に向かう船でヴィンセントを見た時驚いて素っ頓狂な声が耳に響く。何故此処にいる?最後の仕事ってなんだ?頭に浮かんだ質問を口にする前にヴィンセントは「驚いたか」といたずらが成功したような少年の顔をしてハグを求めた。イアンの背中に腕を回しポンポンと叩く。
「いや、何してんの」イアンの問いかけにヴィンセントはふふっと笑って体をはがす。
「何って仕事だよ。言っただろう?次の仕事が終わったら家族に会いに行くんだ。それがこれ」
「いやいやいや。この船がどういうところに行くのかわかってるのか?お前の仕事って俺とは違って……」
違ってなんだという。これまでヴィンセントがどのように仕事をしているのか聞いたことがなかった。時折上司の小言が煩いことや仕事が詰まっていてしんどいだとか、うわべの愚痴を吐く位で具体的な仕事の話はしなかった。それがイアンにとって有難かった。ヴィンセントの仕事に興味がなかったわけではない。ただ傭兵として生活を営んでいる自分にも話せることがなかったからである。聴く側とすれば気持ちのいいものではないだろう。自分が話せないのに他人の仕事のことを聞き出すのは憚られた。ヴィンセントが話さない以上は何も訊かないと決めていた。
「実はちょっと仕事でやらかしてな。収入がとぎれたんだよ。久しぶりに家族に会うのに恰好つかないだろう。少し稼いでから向かおうかと思ってな」
「だからといってこんな仕事をわざわざ選ばなくてもいいだろう。仕事は他にもあるし、」
おまえなら選べる仕事は多いんじゃないか?と続く前に号令がかかる。
「おっと、行こうぜ。とにかくよろしくな、先輩」
ヴィンセントはイアンの背中をとんと軽く叩き、先に行ってしまった。ヴィンセントは一瞬ほっとした目を宿したのをイアンは見逃さなかったが、引き返せない船の上でどうこう言ってもしかたがなかった。
ヴィンセントは自ら志願して傭兵部隊に参加しただけあって銃の扱いに慣れていた。しかし金の為に戦う傭兵というより軍人といった風情だった。兵士の士気を高めるように振舞い、彼の正義感は次第に部隊の空気を変えた。彼に励まされた兵士はいつもよりも勇敢だった。そうなったのは彼が誰よりも前線で戦ったからだ。そして誰もがヴィンセントの背中を追って血気盛んに戦った。心を失いやすい戦場での振舞は冷静さだと常に自分に問いただすイアンでさえも、血が沸くような感覚を覚えていた。生きて帰るよりも戦場で生きることに意識が傾いていたと、今では思う。ヴィンセントの死に際を見届けるまでは。




