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クライス  作者: 桝克人
第一章

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第36話 君が手を伸ばしたから

 ヴィンセントとイアンは扉を潜る。ゲフィングニスと違っており、目の前はガラスの壁があった。こおこおと風が泣いている。イアンが右手にある階段の先を見降ろす。外側の壁とガラスの壁に挟まれてらせん階段が続いているようだ。扉が閉まるのを確認してからヴィンセントは階段をゆっくりと降りた。ゲフィングニスよりも更に暗い長い階段は一歩でも足を踏み外すと奈落へと落ちそうで、イアンは慎重に確実に階段を踏む。


「どこまで話したかな」


 ヴィンセントは呟く。イアンは「食糧問題」と助け船を出すと「そうだったね」と返した。


「食糧問題の解決の道は理屈だけだとそれほど難しい話ではなかった。当初の研究員はまず地の精霊の復活を考えた。人間を精霊に変える実験のために数多の人間を揃える必要があったが、それは難しくなかった。わかるだろう」


 イアンはゲフィングニスにまで溢れるほどの人間が押し寄せた話を思い出す。流れを止めなかった理由に研究員の傲慢さが潜んでいたと知るとイアンは吐き気を覚える。


「これはあくまでも私の憶測だけれど、工作はあったと思われる。甘い言葉でクライスに呼び寄せたのだろう。記録によると、その数は百にも二百にも及んだ。一人一人に結晶石を体内に取り込ませて実験は行われた。すぐに異変が起こったもの、何日か何か月かかかってから異変が見られたもの、多くの犠牲を出しても結果は出せなかった。しかし解ったこともあった。記録には大柄な人間よりも小柄な人間の方が異変が現れるまでに時間がかかったこと。そして年若い人がそうであったこと。それらを鑑みて、当時中心となっていたクライスを発見した人物——リヒャルト(あの人)の先祖が次の実験体に選んだのが自身の子供だった。当時四歳くらいだったと記録されている」


「そんなに幼い子を」イアンがそう呟くと、ヴィンセントは少し歩みが遅くなる。ひとつ咳払いをしてからまた話し出した。


「結果からいえば実験は成功した。その子供は力の制御を早いうちに覚えて、六年で髪と瞳の色は輝く白銀色に変色し、力は体に馴染んだ。左をご覧」


 ヴィンセントは足を止めた。イアンは足元ばかり見ていた視線をガラスの壁へとうつす。言われるまで気づかなかったが、どうやらガラスの向こう側は液体に満ちているようだ。薄ぼんやりと明るさが滲んでいる。ガラスに近づいて覗き込むように下の方を見ると見覚えのある光が見えた。まさかと思ってイアンはひゅっと喉を鳴らす。ヴィンセントはまた歩き出した。


「初めての人工精霊はこの柱へと連れてこられた。十歳になった子供は自分に課せられた使命を受け入れて、自ら柱の底へと座り、自身の父親と話したと記されている」


 ——僕は身を投じて今の人々と未来へと繋ぐために此処にいます。だからお父さんも身を入れて研究なさってください。


「そんな……本当なのか」

「さあ。記録したのは当時の人々によるものだから私には解らないよ。ただしそれが事実かどうかはどうでもいい。事実なのは、一人の犠牲によってクライスには作物を育てるための豊かな大地が蘇った。それが君が見た景色だ。おかげで今も作物は悠々と育ち、ゲフィングニスの人々が飢えることなく還元されている」


 カーストはあれど、食うに困ることはなかった。広場に行けば値段が手ごろな食材は豊富にあった。


「父親はその子供の言葉に感銘を受けたのか、それまで以上に身を粉にして働いたそうだ。そして死に際、家族にとある規則を課して命じた」


 ——今後我が一族は長子と次子に継がせる。そしてその他の子供たちは残りの人工精霊のためにその身を捧げなさい。


「それは、死の宣告と同等の意味じゃないのか」

「全く、その通りだ。今も続く一族の祖は、子孫を犠牲にしてでも人工精霊を揃えて豊かな未来を渇望したのさ。それに賛同した研究員たちの子孫と共に今まだこうして研究を続けている」

「おまえさんも同調しているんだろう」


 イアンは震える拳を握りしめて言った。その言葉にヴィンセントは足を止めて振り返る。右半身がゆらゆらと照らされ揺れている。


「その通りだ。一人の人間で今の人類、さしては未来の人類の希望となるなら喜んで差し出せる」


 ヴィンセントのまっすぐイアンに向けられた眼差しはあまりにも純粋で子供のような残酷さが秘めており、今にも拳を振り上げて目を覚まさせてやりたかった。


「リルのことは道具のようにしか思えないのか。あの子が今後此処に閉じ込められて幸せになれるわけないだろう」

「もし一人の幸福を願えるのならば、私はここにはいないだろうな」

「親としての愛情がひとかけらもないっていうのか」


 ヴィンセントはイアンをじっと見据えて瞬きを一度、やけにゆっくりとしているように見えた。イアンの神経が過敏に反応しているせいか、それとも此処だけ時間がゆっくりと進んでいるのか。そんなわけないだろうと自分に言い聞かせるが、イアンはこの空間の異様さに寒気や嫌悪感が肌を這いずり回るような感覚を覚えていた。ヴィンセントは眉を下げて口角をあげてから口を開いた。


「愛情、か。もし君のような人間だったら()もそうできたのかもしれないな」


 ヴィンセントの表情に色が戻ったような気がした。まるでつまらない話が楽しかったあの日のようだった。それは幻のように消えてしまうのはヴィンセントが踵を返そうとしたところで足を踏み外し態勢が崩れた。まだ先がある階段下へと転がり落ちそうになる。イアンはヴィンセントの名前を呼ぶよりも早く手を伸ばし、宙に舞ったヴィンセントの腕を掴んだ。それぞれの息が大きく、小さく繰り返される。次第に整った息が重なり合った。


「そういう君だからこそ、私は君を選んだんだよ」

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