第33話 邂逅
次に目覚めたときには、視界には冷たい床が映った。手首は拘束され壁にもたれ掛かり座っているイアンはここがどこか把握するのに時間がかかる。ゲフィングニスのような薄暗さから、もしかしたらこれまでは夢だったのかもしれないと、ぼんやりとした頭に都合のいい考えが風のように通り過ぎる。
徐々にはっきりするのはまず痛覚だった。頭から首にかけたズキズキとした痛みと、何かに押さえつけた手首の痛み、そして全身に与えられた殴打からくる全身が脱力する痛みと虚しさが押し寄せる。
(二度目の目覚めか)
リルの行方を吐かせられるために、牢に入れられて天井から吊るされて尋問を受けたことを思い出した。痛みに囚われないように意識をここではないどこかへと飛ばしていた。それがいつまで続いていたかは覚えていない。
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。リルとリヒャルトは逃げられたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、ガラスの壁で仕切られた扉が開かれ、一筋の風が舞い込んだ。誰か来たなと思うだけで顔をあげるのも億劫だった。こつこつと足音をたてて近づき、自身の上に影を落とされる。ゆっくりと顔をあげると、記憶が走馬灯のように流れる。並んで飲んだ酒の味、取るに足らないことで笑った声、背中と叩かれたあたたかで強い手、死に際の顔――確かに看取ったかつての友のだ。
「ヴィン……セント……」
あの笑顔はなく、真顔のままイアンを見降ろしている目は、何を考えているのか全く読めない。
なぜ生きている。死んでいなかったのか。俺をだましたのか。ヴィンセントが生きていると知ってから、ずっと訊きたかったことが頭の中で反芻するが声にならない。
「ひどくやられたね。私がこちらに向かうのが遅くなったばかりに。部下の無礼をお詫びする」
「思ってもないことを」
ヴィンセントは少し腰を曲げて、イアンの手首をつないでいた手錠を開錠する。解放されたイアンの腕はだらりと落ちた。
「しかしやってくれたね」
「なに、がだ」
「部下からの報告を聞いてこちらはてんやわんやだったよ。火をかけるとはね。しかもあのガラス部屋の中で」
イアンはリヒャルトから聞いた作戦を思い返した。
――外圧に強いガラス部屋の中に俺とリルが入って、見張っている奴らを引き付ける。それからカーテンを閉めて火をかける。
――火?一体何を考えているんだ?
――この部屋にはもともと俺がクライスから逃げるための隠し部屋だった。壁の後ろ側にまた別の扉がある。さらに地下に進むと外へ出られるようになっている。
――はあ……それで大陸へ逃げられるのか。
――それこそ命をかけてでもリルを守るさ。それだけは必ず。
「扉を開けるのにも手間取ってね。火が消えた頃にはもぬけの殻さ」
イアンは手錠で締め付けられた手首をさすりながら痛みを和らげていると、ヴィンセントは手を差し伸べた。イアンは無視をするが、ヴィンセントは腕に手をかけて引っ張り上げた。無理やり立たせられて体が痛みイアンは唸った。
「ついてきてくれ」
新しいシャツを差し出した。イアンは素直に受け取って袖を通した。肩を動かすだけでも体が軋むように痛む。
牢から出て、ヴィンセントの後ろを歩く。見張りの兵士たちとすれ違うたびに、相手はヴィンセントに敬礼をしていた。薄暗い廊下を何の会話もなくただ足音が響いた。廊下の突き当りの階段を上ると、鉄の扉の前にいる兵士は敬礼をしてから、ヴィンセントのために道を開ける。
イアンは眩しさから目を細める。目を凝らすと、上層部に続いていた場所だと理解する。一面眩しいまでの白色の壁と床、高い天井が視界に飛び込む。違うところと言えば人が多くざわめきが耳を突くくらいだ。
ヴィンセントはまた歩き出した。イアンは視線をあちらこちらに泳がせながらヴィンセントに付いていく。初めて来る上層部は何もかもゲフィングニスと違っていた。小奇麗に整えられた人々は、せかせかせずどこか優雅さを漂わせている。イアンは歩いているだけで居心地の悪さを感じる。
「どこまで行くんだ」
いつまでも何も言わず歩き続けるヴィンセントに痺れを切らして尋ねる。それでも振り向きもせず、何も答えなかった。イアンは眉間に皺を寄せながらやり場のないもどかしさをため息に変えた。
しばらくするとガラス張りの高い天井に届くような大きな扉が見えてくる。イアンはそれにくぎ付けになった。正確にいえば、その先の景色だ。扉を見張っている数人の警備兵が、ヴィンセントが視界に入るや否や敬礼した。ヴィンセントは扉の前に設置されたパネルに手をかざすと、ゆっくりと大きなガラスの扉は水平に開く。外からの清しい風が良い気に流れ込んで髪を乱す。警備兵たちは帽子を手で押さえていた。
扉を潜り抜けると、そこは海の上にそびえたつ人工建物には似つかわしくない草原が広がり草の香りが風と共ににおい立っている。足元には小花や虫が草の合間に息づいていた。澄み渡った空とくっきり分かれた緑色の地平線によって此処が大地の上だと言われれば信じるだろう。むしろ本当に人工物の上に立っているのだろうかと疑念を抱きそうになる。イアンは後ろを振り返って、ガラスの扉を囲う白い建物と、此処からは見えないが、さらに後ろには大きな壁となり聳え立っているゲフィングニスを見上げ、クライスの上なのだと自覚させた。
ヴィンセントは建物の傍にある楕円形円盤の方へと向かっていた。イアンにはそれが何か見ても理解が出来ず、首を傾げて着いていく。それが乗り物だと理解するのはヴィンセントに隣に乗るようにと促された時だった。二人分の席があり、左側はヴィンセントが座ったので空いている右側の席に乗り込んだ。ヴィンセントが運転席でパネルに両手をかざし何かしらを操作していると、車体は浮き上がり滑るように走り出す。
風を切るように草原の上を走り、顔で風を受けると殴られた箇所はひりついたが、それが気にならないほどにイアンは興奮を隠せなかった。暫くは緑色の草原ばかりだった景色に、ぽつんぽつんと建つ家が目に入る。そして広がる草原は金色へと変わり、それが小麦畑だとわかった。
どこまでも長閑な景色にすっかり魅入られたイアンは、ヴィンセントに問い詰めたい気持ちは頭の片隅へと追いやっていた。




