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クライス  作者: 桝克人
第一章
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第30話

 カトリンの背中を見送ることしかできなかったイアンは、やり切れない気持ちを胸の奥にしまった。階段を下りてリヒャルトのところへ戻ると、モニターの前でリヒャルトが忙しなくキーボードを叩いている姿を視界に入れた。


「おまえ、あれでよかったのかよ」


 カトリンはリヒャルトを優しいと称していたが、イアンには理解し難く強く問い詰めることもできない今口を歪ませて不満を漏らした。確かにリルのことを思えばイアン自身も腹の虫がおさまらないところはある。それでもあのように冷たく突き放すのは見ていて気の毒に思えた。


「呑気な事を言ってる場合か。人に構っている時間はないぞ」リヒャルトはモニターから目を離さず話し続ける。「今すぐリルを迎えに行け。あの男はもう上層部に戻って一連のことを報告しているはずだ。なぜかは解らないが、ツィックラーはおまえにリルを連れてこさせたいらしい。逃げるなら今しかない」

「逃げるって、どこに逃げるっていうんだ」

「大陸だ。カトリンの話では、長いこと父親が所属するKLEの局員と繋がっていた。話しぶりではおそらく治安維持を目的にした諜報部の可能性が高い」

「諜報部……工作員か」

「この家だってすでに割れているだろうよ」


 キーボードを叩くのをやめるとモニターの画面が順番に消えていく。リヒャルトは机の下にもぐって、手のひらサイズの四角いディスクを取り出し、イアンに差し出した。


「なんだこれは」

「データのバックアップだ。リルの情報と、クライスの重要な機密情報の一部が入っている。これが必要にならないことを願うが、念のために持って行け」

「ちょっと待て。おまえさんはどうする気なんだ」

「おまえらが逃げている間、囮にでもなるさ」

「なんだと?」

「もうそれしかない。ツィックラーはおまえがリルを連れてくるのを待っていたとしてもおまえの行動範囲を調べられているならば、ゲフィングニスのあちらこちらに見張りはいるはずだ。連中は上の指示があるまでは動けないからこそ、今逃げるしかないんだ」


 語気を強めて訴えるリヒャルトの気迫にたじろいだ。しかしイアンは踏ん張って、本当にそれでいいのかと考えを巡らした。最善が何か必死に考えて、手元にあるディスクに目を落とす。それをリヒャルトの胸に向かって突き返した。


「おまえさんにはまだいろいろ聞きたいことがあるんだ」

「そんな悠長なこと言っていられないだろう」


 突き返されたディスクに手を触れて、イアンの方へと押し戻そうとしたが、それを許さないとイアンはリヒャルトの目を凝視した。


「そうだ。それらを訊く時間はもうそんなに残されていないんだろう。だから代わりに今すぐ俺の案を飲んでくれないか」

「……なんだよ」


 渋々ディスクを受け取り、怪訝そうに尋ねるリヒャルトに向けてイアンはわずかに口角をあげた。


「囮は俺がやる」

「何を言っているんだ。あの子をおまえが守らないで誰が守る」


 リヒャルトは声を荒げた。しかしイアンのまっすぐに見据える目を見て言葉が詰まる。「それはおまえさんがやれ」と目で語っていた。


「ヴィンセントは俺を待っているなら、囮は俺の方が間違いなく向いているんだ」

「だがなあ……リルが一番なついているのはイアン、おまえだろう?あの子の手を離すつもりか?」


 イアンはわずかに顔を歪ませて唇を噛んだ。一呼吸置いてから、冷静さを保つように意識して落ち着いた声で言葉を紡いだ。


「お前さんが言うように、短い間だったけれど親代わりをしていたことで、リルが俺に心を開いてくれている自負がある。でも俺はあの子の力は結局何も知らないままだ。おまえさんは違うだろう」


 リヒャルトははっとして視線を漂わせながら息をのんだ。イアンがこれから何を言うか想像がついたようで青ざめる。


「これからリルがあの力を持ったまま生きていくには何も知らない俺よりも、リヒャルトの方がずっと役に立てるはずだ」

「し、しかしだな……」

「リルの将来を思えば、それが最良のはずだ。本当はおまえさん自身がわかっているんじゃないのか」

「イアン……」


 ――頼む。リヒャルト。これ以上はやめてくれ。俺だってあの子の傍に居たいんだ。


 弱音を口にしてしまいたかった。決心をにぶらせないように、言いよどむリヒャルトの肩を強く握った。

 リヒャルトは何かを言い返そうと何度か口を動かした。しかしどんなに考えようが、反論を窮したリヒャルトにはもう何も言葉がない。口を閉じてから悔し気に自業自得かと舌打ちをした。


「こんなことになるなら、さっさと話しちまえばよかったな」

「存分に後悔してくれ。これからリルを迎えに行ってくる。準備は任せたぞ」


 イアンは眉を開き、強く握っていた手を緩めてリヒャルトの肩から離した。


「……馬鹿野郎」


 リヒャルトは顔を背けた。震える体を必死に抑えるように何度も大きく深呼吸をしている。わずかながらに見えた赤くなった目にイアンは気づかないふりをして、リヒャルトから離れ階段を上った。

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