第28話
「ツィックラーだと?」
男の言葉にイアンは眉間に深い溝を作った。ヴィンセントのファミリーネームはアンワースのはずだ。この男は人違いでリルを追いかけているのか。せめてそうであればいいのにと露に消えそうな希望を口にした。
「ツィックラーとは何者だ。あの子のファミリーネームと違う」
言葉と色を失った男の反応で、それが彼のミスだと瞬時に理解した。イアンの動揺が体に現れて腕が振るえた。
「つ、捕まえたのか……」
なんとかついてきたリヒャルトが息をあげながら路地へとやってくる。喉をひくつかせて、ひいひいと苦し気に肩で息をしていた。
「それで、誰なんだ」
浅い息を何度も繰り返しながら、わずかに震える人差し指を男に向けて尋ねた。
「さあ。人を探しているんだと」
イアンは他人事のようにふるまって見せる。リルとは全く関係のない話だと思いたかったからだ。
「誰だっけ?探している相手は」
再び腕に力を入れると男は苦悶の表情で呻き声をあげて痛みから逃れるように叫んだ。
「ヴィンセント・ツィックラーだ!」
今度はリヒャルトの顔色が変わった。つかつかと歩み寄って膝を折ったかと思えば男の首を絞めるように胸倉をつかみあげた。
「ツィックラー。間違いないのか」
「くそ!なんなんだよ!」
自分の意志意外の力で呼吸を乱され続けたことで、男の目には苦しさからの涙が滲んでいた。
「おまえツィックラーから娘を連れてくるよう頼まれていたはずだろう?なぜ上に連れてこない」
「何を言っているんだ」
「戦場でツィックラーから手帖を受け取ったはずだ。そのときに上へと連れて行くように伝えただろう」
イアンは無意識に力をこめてしまったのか男はまたもや呻くしかなかった。
(どういうことだ?ヴィンセントはそのようなことは言っていなかった)
目の前で死んでいった友人の言葉を忘れるわけがなかった。イアンは今でも夢に見ることがあるくらいに記憶は鮮明だった。
——廃工場に娘が捕えられている。助け出してくれ。イアン、頼む。どうかあの子を、あの子だけは、僕の——
(それに何故この男は手帖のことを知っている。死に際に渡された手帖のことを知れるはずがないのに)
言い知れぬ恐怖がウジ虫のように沸き上りイアンの心を這っている。
「馬鹿な!間違いなくあいつは言っていた。おまえに託していると」
リヒャルトに胸倉を掴まれながら横目でイアンを睨み付けた。
「いつのことだ」
「は?」
「それはいつのことだと聞いている。ヴィンセントはいつおまえにそれを伝えたんだ」
男ははっとして、喉をつまらせたように息を引きつらせて浅い息を繰り返しながら、ぎょろっとした目があからさまに泳いでいる。男は口元を歪ませて乾いた笑いを零した。イアンが警戒するよりも早く、男は袖から滑り落した小さな丸い球を地面に叩きつけた
(煙玉か!)
まともに食らわないように腕で顔を防いだ。リヒャルトも掴んでいた手がゆるみ、そのすきを狙って男は走り出した。咳き込んでいるリヒャルトを担いで路地を飛び出したときにはすでに遅く、男は人込みに混じってどこかへと去って行った。
「くそっ!」
もう追いつけないと悟り、やり場のない怒りを吐き捨てた。リヒャルトは息を整えて目を拭っ手から口を開いた。
「今すぐ戻るぞ」
「どうしたんだ」
「あの野郎去り際に最低なことを残しやがった」
服についたゴミを叩いて掃うやいなや、リヒャルトは足早に店へと引き返す。イアンは慌てて追いかけた。
「最低なことってなんだ」
リヒャルトが言うには煙玉が目に染みて開けられない状態だった中、耳元で「女にきけ」と残していったという。
「女?」
「連中と繋がっている奴がいるんだよ」
「待て待て、どういうことだ。連中ってなんだ。繋がってる女って誰のことだ」
リヒャルトの腕をとって引き留めるが「後で話す」とぴしゃりと言い放ちリヒャルトは腕を振り払って先へと進んだ。イアンは混乱する頭を抱えながら追いかけた。
店に戻ると、中からはまだ楽し気な声が漏れ出ている。
「いいか。俺が良いというまでは何も訊くな。絶対に」
リヒャルトは自分を落ち着かせるように大きく息を吸ってゆっくりはいてからドアノブに手を掛けて開けた。
「ああ、戻ったかい。飛び出していくからどうしたのかと思ったよ」
ジャニーネはカウンターに座ったまま言った。
「ジャニーネ」
「なんだい?」
「夕方までリルを預かってもらえないか。急用だ」
「あんたに急用なんて珍しいね。まあ、いいよ。ごはんも食べていくといいさ」
「悪いな。カトリン来てくれ」
カトリンの腕にいたエーリッヒがくしゃりと顔を歪ませて、ひええんと泣き出した。
「あらあら。ミルク?おむつかしら」
エーリッヒをなだめるように体ごと腕を揺らし慰める。「ママのところに戻ろうね」そう言ってそのままジャニーネの腕へと返した。
「どこに行くの?」
リルはイアンの元に駆け寄って尋ねる。しかしイアンにはその答えを持ち合わせてはおらず、返事のしようがなくて困ってしまう。無理やり笑顔を作ってリルの頭を撫でた。
「夕方には迎えに来るからいい子にして待ってるんだ」
「うん……わかった」
リルの傍らをカトリンは通り過ぎるとき、ちらりと横目でリルをみた。悲哀宿した眼差しのようにイアンには見えた。
「さあ、行きましょうか」
カトリンは微笑んで店を出た。




