第27話
昼を過ぎたころ、今か今かと待ち構えていた店内の空気はピーク目前にまで高揚感に包まれていた。ついにドアが開かれた。
「おかえりなさあい」カトリンの掛け声に合わせて各々が「おかえり」と呼応した。
「ただいま」ジャニーネは血色良く笑顔で自分の店のドアをくぐった。
一同は立ち上がってジャニーネを出迎えた。ジャニーネの腕にはおくるみに包まれた小さな赤子がふすふすと鼻を鳴らして眠っている。
「疲れたでしょう。とにかく座ってちょうだい」
カトリンはジャニーネの背中を支えながら、カウンターの真ん中の席に案内した。ダスティンが両手に抱えた荷物はイアンが受け取り、二階へと持っていく。ジャニーネを挟んでダスティンとリルが隣に座った。
「うちの店がこんなに明るいなんて吃驚したよ」
「リルちゃんが飾り付けてくれたのよねえ」
「そうかい。ありがとうね」
リルはくすぐったそうに、そして誇らしげに笑った。
「それにこんなにたくさんの料理も。準備大変だっただろう」
カウンターに立っているカトリンは胸を張って口を開く。
「ジャニーネの料理には叶わないけれどね。いっぱい食べて精をつけて頂戴。ささ、みんなも食べてね」
それぞれが大皿からよそって食べ始めた。注目されていた赤子をジャニーネからカトリンが預かって、ダスティンの隣に座りあやしていた。
「本当に可愛いわねえ。イアンも抱っこしてみる?」
「いや、でも……」
「普段は暴れん坊だけれど、ミルク腹いっぱいのんだばかりだから大人しい今こそ抱っこしてみなよ」
「私も見たい!」リルが椅子から降りた。
ジャニーネからもせっつかれて、イアンはカウンターを出てカトリンから恐る恐る受け取った。ぎこちなく固まった腕にすっぽり収まる小さな体は柔らかくて暖かい。リルにも見えるようにしゃがんで見せると、興味深そう生まれて日が浅い赤子にくぎ付けになる。
「可愛い……」
「名前は決まったのか?」
「うん、エーリッヒ・キルシュ。この人の案でね」
「エーリッヒ」リルが指でつんとほっぺを軽く突っついて呼びかけると。エーリッヒは小さな口で精いっぱいのあくびをして見せた。小さな手でリルの指を掴むと、リルは小さな歓声をあげる。
「おやまあ。お姉ちゃんのこと気に入ったみたいだねえ。リル、このを弟みたいに思って仲良くしてやってね」
「お姉ちゃん……うん……!」
リルの頬はみるみるうちに紅潮し、笑顔はすべてエーリッヒに向けられていた。「エーリッヒ」と何度も呼んでいた。
「体調はどうなんだ」
食事があらかた終えた頃になっても、リルやカトリンたちはエーリッヒに夢中になっていた。そんな様子を眺めていたジャニーネにリヒャルトが問いかけた。
「おかげさまで。随分迷惑をかけたみたいだね」
赤子が生まれてくるまでは意識があったが、そのあとは気づけば病院のベッドの上だったとジャニーネは言った。
「命を落としかけたって医者からきいたよ。今生きているのは奇跡だって熱くね。私は奇跡とかそんなもん信じちゃいない。神様だって、存在するかしないかわからないものに縋ったこともないからね」
地に足つけて懸命に働くジャニーネを知るからこそ納得した。自分の力でつかみ取ってきたジャニーネだ。神の思し召しなんていったら鉄拳でも飛んできそうだと苦笑する。
「でも先生の話を聞いて驚いた。小さい子供が私の手を掴んでから状態が変わったんだって言うからさ。信じられるかい?あの時意識は失っていたけれど変な夢を見ていたんだ」
「ふうん。どんな夢だったんだ?」イアンが尋ねると、ジャニーネはイアンが淹れた食後のお茶を飲んで息をつき記憶をたどっていく。
気づいたら真っ暗な場所に立っていて、足元には浅い水が溜まっていた。自分が向いているのが前なのか後ろなのかわからない、そんな場所だった。どこかに行かなくちゃとなにかにせっつかれた様に必死に歩くが、進んでも景色が変わらなくて怖くなった。急に足元が抜ける感覚がしたと思ったら、何かに水の中へと引きずり込まれてしまう。必死にもがくが体を絡み取られて身動きが取れなくなっていく。
「もう駄目だと思ったら右手が光に包まれたんだ。その光はだんだんと私の体の中に広がっていくんだよ。今度はなんだか安心して、もう大丈夫なんだって根拠のない自信がついた。気づいたら目が覚めたってところ」
だんだんと興奮ぎみに話していくジャニーネは、心を落ち着かせるためにゆっくり大きく息を吸って吐く。
「先生の話を聞いて初めて人智を超えた力ってものを感じた。あれは夢じゃなくて間違いなく誰かからの干渉があったんだって。それが神様じゃなくてもし本当に……」
ジャニーネはリルに畏敬にも似た視線で見つめた。イアンは少し眉をひそめてリヒャルトに視線を投げると小さく頭を振っている。何も言うな、リヒャルトの目はそう語っているようだった。
突如かたりと音がした。イアンをはじめ誰もが音がしたドアを見るとすりガラスに人影が見える。
「お客さんかしら」エーリッヒを抱いていたカトリンがそう尋ねる。
「まだ張り紙していたけど明かりがついてたから営業してるって思われたかな」
ジャニーネは一言謝ろうかと立ち上がろうとしたのでイアンは制止した。
「俺が見てくる」
外に出ると行きかう人々の中に影が大きく動く気配を察した。反射的にイアンはその影を追った。
(もしかして)
その影を逃さないようにイアンは睨み付けて走った。後ろからリヒャルトがイアンを呼ぶ声を振り切るようにして追いかけた。人にぶつかることもお構いなしだった。前に逃がした人影とは違う相手かもしれないが、逃げるからには捕まえないと気が済まない。距離をどんどん縮めていく。
路地へと逃れる人影を路地へと追い込んでついにその肩に手が届いた。相手逃げられないと察したのか、今度はイアンに向かって手を突き伸ばす。イアンはするりと脇に入ってその手を取り組み倒した。地面に倒された人物は低く唸り声をあげる。
「何者だ!」
イアンは腕に力を入れて怒鳴る。路地の薄暗さにも目が慣れて、倒した人物が髪を短く綺麗に整えられた男だと知る。ジャケットにネクタイを締めている。下層部の人間ではないことは明らかだった。全身を良い生地を使った仕立ての良い服で身を包んでいる。組み敷かれた男は痛みに呻き、息が出来ないと手で地面をたたいて訴えた。イアンは体を押さえていた左の腕の力を少しだけ抜くと、男はげほげほと咳をして息を整えた。
「イアンだな」
不意に自分の名前を呼ばれて心臓がはねた。
「何者だと聞いている」
「あの娘を引き渡せ」
組み敷いた男の呼吸が落ち着くのと反対にイアンの呼吸が荒くなる。胸がひきつるような恐怖心と男の勝手な言い分に対する怒りがごちゃ混ぜになって腹の中で煮えかえる。
「あの娘?誰のことだ」
「ふざけているのか!ヴィンセント!ヴィンセント・ツィックラーの娘だよ!」




