第23話
ジャニーネが家にやってきてから数日後のことだった。リルは朝からそわそわとしており何かを言いたげにしている。イアンは自分から切り出そうとしたが、なんでも先回りする癖があるとリヒャルトから注意されていた。
「イアン」
二階の各部屋を掃除していると、ついに昼頃にリルから意を決したように声がかかり、ついにきたと期待と不安から居住まいを正した。
「今日ね、ジャニーネのごはんが食べたい」
数時間かけて出た言葉は意外にもあっさりしたものだったので拍子抜けした。
「じゃあ夕方に買ってくるよ」
「そ、そうじゃなくて……ジャニーネのお店で食べたい」
イアンはぽかりと口を開ける。何と返事をすれば正解なのか考えている間にも、胸の奥から湧き上がるような高揚感で顔が熱くなる感覚を覚えた。小さく何度も頷き、「わかった」とだけ答える。リルはほっとした様子で階段を下りていく。
(これは……外に出たいってこと、でいいんだよな)
想像よりも早い申し出につい面食らったが、イアンが望んできたこと、それも本人からの申し出があったことにイアンは思わず破願した。
夕方ごろ、少し早めにでかけようと提案するとリルは読んでいた本を閉じて椅子から飛び降りる。地下にいるリヒャルトにも声をかけたが、リクライニング椅子に寝転んで読みかけの本を顔の上に置き、手を振って行かないと示された。それは買ってきてくれと決まった動作だった。朝は行くと言っても出かける直前になってやめるといったことは珍しいことではなかった。
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってきまあす」
地下に向かって叫ぶとリルも真似した。普段は返事をしないリヒャルトから僅かながら「いってらっしゃい」と声が聞こえた。
イアンはドアを開けて先に外に出る。さっきまでの興奮気味だったリルは少し緊張した面持ちでいた。ゲフィングニスに来て初めての外出だ。
「行こう」
イアンが手を差し伸べるとリルはその手をとって一歩を踏み出した。
小さな一歩は重くても、その足はだんだん軽くなり、リルはリズムをとるように進んだ。道順もわからないのにイアンより先へ進み、分かれ道に突き当たる度に振り返っては「どっちに進むの?」と聞いて先へ先へと行く。
「足元に気を付けて。転ぶなよ」
言ってからまるで親みたいだと思いながらも、親になり切れていない未熟さに窃笑する。
リルは人がすれ違う人が増え始めると、速度を緩めてイアンの手を握って離れないように歩く。きょろきょろと自分より背の高い大人たちを眺めながら、ぴったりとイアンにくっついていた。
店に近くなっていくとリルはスンスンと鼻を鳴らして「いい匂いがする」と目を輝かせてイアンに行った。そしてすぐに店にたどり着きドアを開けると、そのスパイシーな匂いが一気に鼻の奥へと流れ込んだ。
「まだ開店前……おやまあ、リルじゃないか!」
調理中のジャニーネの声がよく響く。奥で魚を捌いていたダスティンが軽く会釈をした。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。よく来たねえ。ささ、座りな。座りな」
ジャニーネはカウンターを乗り出すようにして二人を歓迎した。リルはジャニーネの正面に座り、その隣にイアンが席に着いた。
「リヒャルトはどうしたんだい」
「今日は来ないって。帰りに持って帰るから包んでくれ」
「あいよ。二人は何食べる?特に希望がなかったら今日のおすすめ出すけれど」
「おさかなある?」
「あるよ。このおじちゃんが釣ってきた魚のフライと、スパイスが効いたフライドライス。好きかい?」
「うん。大好き」
「それじゃあ、おすすめを二つで」
「あいよ!」
ジャニーネは調理をしている間、リルにどんな食べ物が好きかとか、普段の生活とか、そんな他愛ない話を振ってリルを飽きさせないようにしてくれる。リルは一生懸命考えながら返事をし会話を楽しんでいるようだった。イアンも久しぶりにダスティンと特段大きな出来事もなく変わり映えのない互いの近況を報告し合った。
「そういえば、あれから店に変な客とか来ていないか?」
イアンはリルを横目で見てから、声のトーンを落として尋ねる。
「特に。最近も常連客ばっかりっすよ。そういえば前もそんなこと訊いてたっすよね。何かあったんすか」
「何もないならいいんだ」
イアン自身、あれから出かけても何かしらにつけられている気配を感じていないし、やはり気のせいだったと結論を出さざるを得なかった。しかしあの気味の悪さをなかったことにはできなくて、ずっと胸の中で何か悪いことが起こりそうな予感めいたざわつきがあった。
「大丈夫っすか?トラブルとかっすか?」
「何とも言えなくて……もしいつもと違うようなこととか、なんか気づいたら教えてくれ」
「はあ……なんだか要領得ない話で、俺全然わからないんすけど」
「悪い悪い」
「らしくないっすね。あんたがふわっとしたこと言うの。いつもはわからないことは口にしないのに」
「そう、かもしれないな」
イアンは鼻を啜り浅く呼吸をして大振りに肩を上げ下げする。ダスティンの言葉に少し動揺していた。戦場にいるときの命のやり取りの中ですらもう少し冷静でいられるのに、存在するかもわからないような見えない敵に怯えているのだと自覚する。
「ジャニーネ?どうしたの」
リルの不安げな声にイアンはいち早く反応して顔をあげると、ジャニーネは腹を押さえながらもだえ苦しみだした。
「ジャニーネ!」
ダスティンが普段出さない大きな声を出してジャニーネの体を支える。ジャニーネは苦し気に短く息をしている。
「う、まれそう」
そう言った途端に破水をして短くうめき声をあげた。




