第20話
「リル自身が外に出たがらない以上、無理して連れ出すことは避けるべきだろうな」
寝かしつけが終わってから、その日の夜もイアンはリヒャルトとモニターの前でコーヒーを啜っていた。しかしいつもと違って、リヒャルトの顔には疲労が滲んでいる。何度も左目の瞼を押さえたり目をこすったりして気を紛らわしているように見えた。
昼間のリヒャルトのあまりにも弱弱しい様子が瞼に焼き付いている。普段飄々とした態度をとっている姿しか知らないイアンは動揺を覚えた。心配ではあったが、それに触れるとすぐに壊れてしまいそうな恐怖が先立ち、見て見ぬふりをすることを選んだ。
「そうだな……」
「なんだ?」
しかしそれ以上にイアンはリルから発せられた新たな情報に狼狽えていた。ぼんやりと返事をしたイアンにリヒャルトは眉を顰める。
「どうしてリルの母親は廃工場に連れてきたんだろうか」
昼間にリルが話した『ママ』のことがずっと頭に引っかかっていたのだ。リルが廃工場に囚われていたと考えていただけに、母親も被害者側だと思いこんでいた。しかしリルが母親に助けを求めても助けてもらえなかったと訴えたところをみると、母親はリルの味方ではなかったのかもしれないと疑問を抱かずにはいられなかった。
「おまえさん、あの日リルの力を目の当たりにしたとき、力の存在を事前に知っていたようだったな。そろそろ教えてくれないか。あの力はなんなのか」
リヒャルトはイアンから目を逸らし、首を縦に振ろうとしなかった。以前も知ろうとするなと言っていたことを思い出す。なぜそこまで頑なに口を閉じるのかイアンは想像もつかない。
「答えられるところだけでも教えてくれよ」
「……例えば何が気になる」
疲労のせいか、それとも秘密を抱えていることへの罪悪感か、リヒャルトは額を支えながら言った。どちらにしてもこんな機会は逃せないと口を開く。
「あの力は先天的なものなのか」
どんな仕組みか想像もつかないが、もし生まれつきのものならば、母親がリルの力を持て余していたとも考えられる。助けを求めるために廃工場に身を寄せたのだとすれば、リルは愛されていたはずだ。そんな救いにすがるように尋ねた。
「違う。間違いなく後天的だ。あの力は人の手で生み出されている」
すぐにひっくり返されてしまい、希望は灰となって消えてしまう。
「どうやって」
「それは言えない、言ったところで理解できないだろう」
もし専門的な説明が始まればリヒャルトの言う通り理解する自信は微塵もない。しかしやはりリヒャルトはリルの力について詳しく知っているのは間違いないのだと確信した。
「じゃあ、廃工場でどんなことが行われていたことは、おまえさんは想像できているのか、もしくは確信しているんだな」
「ああ。ただ設備が整っていても、人間に力を与えるには『絶対に必要なもの』がある。それをどうやって手に入れたかはわからない。本来なら不可能に近いことをやってのけてる」
『絶対に必要なもの』は念のために尋ねたがそれには頑として口を開こうとはしなかった。
「母親の目的は娘に力を与えることだったと言えるか?」
「間違いないだろう。碌な理由じゃないだろうけどな。母親はリルに力を与えるために廃工場に連れていった。彼女自身、実験に加担していたかもな」
リヒャルトの手に握られたマグカップが震えていた。これまでに見たことがない憤然とした面持ちにイアンは背筋がひやりとする。
しかしそれはイアンも同じで底知れぬ憤りと恐怖が体の奥から湧き上がっていた。初めて会った日のリルは、同い年の子供よりも体が小さく、肉がついていなくて軽かった。劣悪な環境に置かれていたと想像していたが、そんな場所に母親はなぜ連れていき、わけのわからない力を与えて、助けを求めている娘を守ってやれなかったのか。ぐるぐると思考は巡るばかりで考えがまとまらない。
「なあ、イアン」
「ん?」
「前も訊いたが、おまえの友達は知っていたと思うか」
イアンは記憶を遡り振り返る。知っていたかわからない。そう答えたと記憶していた。それは廃工場に囚われている妻子に会いたがっていたという前提で話していたが、今は考えが変わっている。妻の所業をヴィンセントは知っていた可能性はある。もし母親がリルに力を与えるために動いていたとなると、ヴィンセントも加担していたのかもしれないと疑心が大きくなっていた。しかしイアンの記憶の友は、妻子の写真を見ていて愛おしそうに笑っている。それは決して偽りなんかじゃなかったはずだと自分に言い聞かせたかった。
「あいつはリルを取り戻そうとしていた。死に際、俺に頼んだのはリルのことだ。それは間違いないはずだ。ただ、母親が意図的にリルに力を与えていたとするなら、それを知っていた……可能性はあるよな」
「もしくは、脅されていたか。水死体になったあの連中から」
「母親がリルを連れて行った先にいる、力を与えた奴等か。一体何者なんだろう」
「さて……ね。碌な連中でないことは確かだろうよ」
リヒャルトは湯気が出なくなったマグカップに視線を落とし、それをのまずにテーブルに置いた。




