第19話
絵本を貰った日からリルは毎日のように音読するようになった。文字の練習や計算の練習も欠かさず行っていた。以前よりも肩の力が抜けているとイアンは安堵する。また音読の効果なのか、話す声に張りが出たことと、リルの感情が以前よりも表に出やすくなってきた。
「イアン……」
「どうした?」
今日も朝食を済ましてから、リルは真っ先に絵本を取り出し声に出して読み始める。リヒャルトは濃い目のコーヒーが入ったマグカップを片手に頭を抱えていた。
「そろそろ違う物語はないのか?りすが大樹を駆け回ってる話ばかりで、僕の頭の中も駆けずり回るようになったよ」
飽きずに一冊の絵本を毎日何回も繰り返すことで、リヒャルトは諳んじられるとぼやいた。イアンが持っていた本もリルは喜んで読んでいたが、読む回数が多いのはイアンが買い与えた絵本だった。
「おまえは平気なのか?」
頭を抱えるリヒャルトとは違いけろっとしているイアンに声を落として尋ねた。
「ん?よく読めていると思うけど」
「親ばかだねえ……」
確かに飽きが来たわけではない。それでも毎日懸命に練習に励んでいることで上達するのが目に見えて分かった。リル自身も自信をつけるきっかけになったことでみるみる年頃らしくなってきたことが素直に嬉しかった。
変わったのは表情だけではなく体形も変わった。病的に細く折れそうな体には肉がつき、まだ頼りなさげではあるが、肌艶がよい健康的な子供に近づいているとイアンは思う。あとは筋肉をつけるため外出をさせてやりたいが、未だリヒャルトは許可を出さなかった。リル自身も外に出たいとは一度も要求をしなかった。
何者かに後をつけられた日から日数が過ぎてから、イアンは何度か同じルートを辿ったり、いつもは行かないような道を通ったりと、おびき出そうとしたが、しっぽを掴むことはできなかった。やはり気のせいだったのかと少しの疑心を残しながらも、その日以降は意識するのをやめた。
リルの力の暴走は恐れていたほど起こることはなく、夜に数回暴発させたくらいで、昼間は一度も溢れ出させることはなかった。此処に来たころは感情も乏しく、心を揺さぶるような出来事もなかったことが一因だろうとリヒャルトは言った。
「本来ならそれが一番いいと思っていたし、今もまだ気持ちが揺れているのが正直なところだ。でも今のリルを見てるとおまえが言っていたことも理解できるよ。子供が子供らしくいられるようにするのは大人の責任……だもんな」
リヒャルトはリルを見ながらも眼差しはどこか遠くて、何か違うもののようにイアンは思えた。
「それはそうと、かかわる人間を増やした方がいいのはお前の言う通りだ。一度ジャニーネの店にでも連れていくか」
リヒャルトがそう言うとリルはぴたりと音読をやめた。二人の視線はリルに移る。
「どうした?」イアンは目を泳がすリルの顔を覗き込んだ。リルは立ち上がって階下へ駆け降りる。
「おい、リル?」
その後ろを追いかけるとリルはガラス部屋へと入りドアとカーテンを閉める。
「リル、どうした」
ガラスの壁をノックしてみるが、なにも応えなかった。ロックを解除しようとしパネルに手を伸ばすが、直前でそれをやめた。無理やりこじ開けて感情のバランスを崩すわけにはいかない。手をこまねいているとリヒャルトはパネルを操作した。ざざっと雑音の後にカーテン越しのリルに話しかける。
「リル」
リヒャルトの呼びかけにリルは何も応えない。わずかに鼻を啜る音が聞こえる。
「自分の言葉で話すつもりがないのか」
淡々と問いかける声は刺刺しさが混じる。イアンはリヒャルトを止めるために立ちふさがろうとするが、逆にリヒャルトから手と視線だけで制止させられた。
「そこから出たくなければそれでもいい。嫌なことやできないことは無理強いするつもりはない。でも自分の言葉で言いなさい。全てを聞き入れてやることはできなくても、他の選択肢を提示することはしてやれる」
しばらく誰も何も言わなかった。リルの悲痛なしゃくり声だけが響いてる。イアンは立ち尽くすことしかできない自分に苛立ちを覚えて髪の毛をかき乱した。何かを言おうとしてもリヒャルトがそれを許さず、ただ待つしかなかった。
「……怖い」かすれ声で応えがきた。
「怖い。何が怖い」リヒャルトは冷静さを保つように意識してゆっくりと問いかける。また沈黙が続くがさっきよりも時間はかからなかった。
「外は、怖い」
「どう……怖いんだ」
「知らない人は何するか、わかんないから」
「ジャニーネは俺たちの知りあいだ。それに知らない人のところには連れて行かないよ」
「そう言って!」急に大きな声を張り上げたことで咽て咳込む。息を整えてからもう一度口を開いた。
「ママもそう言って私を廃工場に連れて行った。怖い顔をした大人がいっぱいいて、私をママから離して狭いガラスケースに入れられた。嫌だったけれど、誰も私が言うことなんて聞いてくれなかった。ママも……」
リルはひっと大きくしゃくり声をあげて、言葉を続けることが出来なかった。
「『ママ』はおまえを助けてくれなかったのか」
リヒャルトがそう尋ねるとリルは泣き声のまま「うん……」と返す。
突如リヒャルトはパネルに手を置いて扉を開けた。つかつかと中へ入るのでイアンは慌てて後を追った。リルは床に座り込んでおり、許可なく入ってきた二人に眉を顰めた。
リヒャルトは両膝をついてリルの目線に近づける。俯いてリルの両手をとった。眉を寄せ顔をぐしゃりと歪ませた。何と声を掛けようか悩むように口を何度か開いては閉じるのを繰り返した。
「悪かった」一滴の雨のように言葉を落とし始めた。
「おまえのことよく知らないままシャワー室に閉じ込めたことも、ここで寝ろって強要したことも……お前の存在を……否定したことも。それでもまだおまえの力が安全だとは言えないし、訓練して押さえる方法を模索し続けるしかないと思っている。それが出来なければガラス部屋にいるべきだ。それだけはこれまでも、これからも変えられない俺の意見だ。でもそうならないように俺はおまえの手助けをしたい」
リヒャルトは顔をあげてリルと目を合わせる。互いの双眸が交差し、どちからともなく手を広げて互いを抱きしめた。




