第18話
「イアン、どうしたの」
部屋のドアを開けっ放しにしていた。リルは一向に降りてこないイアンを探しにきた。
「探し物をしていたんだよ」
イアンは木箱から取り出した本以外のものを適当に詰め込んで板を据え置く。それをまたクローゼットの奥へと閉まった。
「何探していたの?」
「ん?これをね」
手に持っていた本を渡すとリルは首を傾げた。
「これはなあに」
大きな樹木が描かれた細やかな鉛筆画の表紙を指さして尋ねる。
「樹木だよ。見たことないのか?」
「じゅもく?知らない」
ゲフィングニスには樹木は存在しない。此処に住んでいると本物を見ることなく人生を終える人も珍しくはない。ゲフィングニスを抜けて上層部の円に出れば草木はあるらしいが、少なくとも上層部へ行く権利をもたないイアンはそれを見たことがない。
「樹木っていうのは大地から天に向かって伸びる植物の一種……ってところかな。これが葉っぱで、これが幹、長い年月をかけてこの幹が太く大きく育つ。世界には何千年も前の樹木も存在するんだ」
「なんぜんねん……」
数字は数えられるリルだが、想像もつかない桁の年数を理解するには頭が追い付かないといった様子だ。
「この本に書かれた樹木は、この世に存在しない幻の樹木を題材にした童話だ。いわゆるフィクションだな」
リルは首を傾げた。
「子供に聞かせる作り話ってこと」
「ふうん……これはイアンの本なの?」
「そう。昔世話になった人がくれた本だ。これで今のリルみたいに文字を覚えたんだ」
ここで初めてリルは目を大きく開いて関心を寄せるようにイアンの顔を見た。
「イアンも練習していたの?」
「そうだよ。誰だって初めは練習して覚えるんだ。俺も何度も間違えながら覚えた。俺に比べりゃ、おまえさんは覚えるのが早い。焦らなくても大丈夫だよ」
そういってまた頭を撫でると、リルは眉根をよせて唇を噛むように結ぶ。
「間違えても、すぐに覚えなくても、怒らないの?」
「怒らないよ。子供は間違えながら成長するもんだ。大人も、か」
「大人も間違える?」
「そうだな」
間違えたばかりの出先のことを思い出す。誰かにつけられているかもしれないことを、リヒャルトに話した方がいいかと頭の中で今日中にやるべきことのリストへ入れる。
イアン天井に向かって背伸びをしこわばった体の力を抜いた。
「間違えても正す時間はたっぷりあるんだ。それこそ俺らのような大人より子供の方がな」
リルはまたも小首を傾げた。
「ゆっくり大きくなればいいんだよ」
そう言って頭をぽんぽんと叩くと、リルはまだわからないと言いたげに口を尖らせた。
「さて、ごはんにしよう。リヒャルトを呼んできてくれ」
リルは頷いて先に降りて行った。
夕食を終えて入浴もすました後、リルは買い与えた本を気に入ったのか、ずっと本を開いていた。一文字ずつ指でたどり口に出し読み上げる。ゆっくりと読むので聞いている側のイアンやリヒャルトは内容が頭に入ってこない。おそらくリルもただ文字を読むことに必死で内容をあまり理解していないようだ。随分熱心だと隣でコーヒーを啜りながら感心する。文字の練習をしていたときと違って楽しそうだった。
「もうそろそろ寝る時間だな」
「まだ寝たくない」
「駄目だ。そんなこと言ってもう眠いだろう」
瞼が半分落ちかけているリルの目を見て笑うと、リルは首を横に振り、口を尖らせてテーブルに突っ伏した。
「これ読んでくれる?」
リルはさっきまで読んできた本を閉じて差し出した。
「読んでくれるなら」
「いいよ。そんなにうまくないけれど」
リルは嬉しそうに椅子から飛び降りて颯爽と階段を下りて行った。リヒャルトにおやすみと早口で声をかけてガラス部屋に入っていった。
「なんだあ?偉く楽しそうじゃないか」
「寝たくないって駄々こねてたけど、読み聞かせしたら寝るってはしゃいでるんだよ」
「おまえが?そりゃあ見ものだな」
「おい、見物しようなんて考えるなよ」
「へいへい」座ったまま椅子を右左と揺らして適当な返事をする。
「モニターもやめてくれ」ガラス部屋に入る前に指さして指摘してから、スツールを持って入った。
「おお……良い勘してるじゃねえか」
リヒャルトはイアンの姿が見えなくなってから、ヘッドホンを耳に装着し録音ボタンを押した。
それを知らずにイアンはリルがベッドにもぐりこむのを確認してスツールに座る。
「目を閉じて」
「はあい……」
イアンは本を開き、ゆっくりと読み始める。リルほどではなくとも、音読なんて子供の時以来やったことがない。緊張した面持ちは声にも伝わり、いつもの話声と違って声が固いことが自分でもわかった。抑揚のない、途中で躓く決して褒められたものではない読み聞かせは、怪我の功名と言わんばかりに三ページ目に入る前にリルを夢へと誘った。リルの寝息を確認してイアンは明かりを絞り音を立てないように部屋を出て扉を閉めた。
モニターに向かってキーボードを叩くリヒャルトに近づいた。
「お疲れさん」
リヒャルトはこっちを向かずにそのまま続ける。イアンはガラス部屋から外に持ち出したスツールを置いて腰をかけた。
「一応報告しておこうと思ってさ。大した話じゃないかもしれないけれど」
「うん?」
「今日出先で誰かにつけられてたようなんだ」
リヒャルトの手が停まった。みるみるうちに険しい表情に変わりイアンを見据えた。
「どこで」
「そうかもと思ったのは、カトリンさんの店を出てから、大通りを歩いていたときだ。誘い出そうとしたけれど、誘いに乗ってこなかった。俺の勘違いだった可能性も十分あり得るけどな」
「廃工場の生き残りか、少なくとも関係者がゲフィングニスに潜んでいるのかもしれないな」
「じゃあ、やっぱりリルを探している奴がいるってことか」
「おまえに心当たりがないならそうだろう」
イアンは眉間にしわを寄せて両手で持っている絵本の表紙を親指でこする。
「それが敵なのかどうかもはっきりしない今、考えても仕方がない。そろそろと思っていたが、外出はもう少し先にするか」
リヒャルトはリクライニングに思いっきり背中を預けて宙へ溜息のように吐き出した。
「おまえも気をつけろよ。ターゲットがリルとは限らないんだからな」
「ああ」
イアンは苦々しい表情のまま立ち上がり上階へと行った。リヒャルトはその背中を見送ってモニターへと視線を戻す。キーボードを叩いて映像を映し出した。イアンが廃工場へ行った日の映像記録だ。ゴーグルに小さな小型カメラを仕込み撮ったものだった。リルが発生させた水に多くの死体が揺蕩って、奥の方に白く光るリルの体へ近づいていく。リルが大きく目を見開いたところでリヒャルトは左目が疼きうめき声をあげた。




