第17話
ジャニーネの店を出てからもイアンは神経を外に向けるように周囲を警戒しながら家路についた。杞憂か何事もなく、また見張られていた気配はやはり現れなかった。
家の中に入るとリルはダイニングテーブルに向かって真剣に文字の練習は続けていた。「おかえりなさい」イアンの姿を見るとその手を止めて椅子から降りる。
「ただいま。また練習をしていたのか」
弁当の袋をテーブルに置いてからリルの頭を撫でる。歪だった字が今は整える努力の跡が伺えるようになっている。
「土産があるよ」
洋服が入った袋を椅子の上に置いて中から順番に服を取り出す。リルの顔がぱっと華やぎ、広げて自分の体に当ててみる。洗面所にある姿見のところへ連れていくと、鏡の前で体を揺らしながら自分の姿を確認していた。満足気にイアンの方を振り向き、ワンピースのスカートを広げて見せる。
「うん、似合ってるよ」
そういうとリルはまた体を揺らした。其のたびにスカートがひらひらと舞うように揺れる。今日までリルが着ていた服は廃工場で来ていたと白いワンピースと、イアンの大きいシャツばかりであまりにも味気なかったが、一気に華やぐ。こうしてみると本当に普通の子供だとイアンは実感する。
「もう一つあるよ」
ダイニングに戻って、袋から包み紙を取り出して渡した。リルは目を丸くしてそれを受け取りイアンを見上げる。
「これは?」
「開けてごらん」
リルは細かく頷いて包み紙をくるくると回した。何処から開けるのかわからないと訴えるので、イアンはリルの手を持ち、リボンの端を持たせた。そしてゆっくりと引っ張ると、するりと解ける。リボンでとめられていた包み紙はよれて、リルは丁寧にはがし中身を取り出す。
「『こ』『り』『す』……『の』『ぼう』……『け』『ん』」
一文字ずつ表題を読みあげてリルはイアンの方を見た。これまでになかったように目が輝いている。自身の努力が身についていることを喜んでいるのだろうとイアンは目を細める。
「ちゃんと読めるじゃないか。一通り字が書けるようになったから、今度は読む練習をしよう」
イアンはリルの新品の服を畳みながら、視界の中に入るリルの様子を映し出す。リルは絵本を開き、たどたどしくもゆっくりと声に出して読んでいる。集中しているリルに声をかけず、二階へとあがり新たに用意したリルの部屋に入る。二階にはイアンやリヒャルトの個室のほかに部屋がふたつある。どちらも物置部屋として使っていた。一部屋を片付けてリルの個室にしたのが、ベッドを置いた日のすぐ次の日だ。片方の部屋に全ての荷物を押し込んで、引き出しや書き物をするための机を設置した。色のない質素な部屋をリルは朝の着替えのためだけに使用している。
イアンは引き出しにシャツを入れて、クローゼットに残りの服をハンガーにかけた。空っぽのクローゼットに花が咲いたようだった。まだ隙間だらけだが、あのリルの喜びようを見たら、今後どんどん増えて今に入りきらないほどの服が溢れるのかもしれない。イアンが想像する女性像と同じで、リルももう少し大きくなったら多くの服を望むのだろうか。女の子は大変だとイアンは頬が緩む。
リルの部屋を出てドアを閉めた。今度は向かい側の自分の部屋に入る。本屋で見たアルトゥールの名前を思い出す。そしてあの頃の視線で見上げた彼の姿が自然と脳裏に蘇った。
——よく書けてるじゃないか。
イアンがリルに同じ言葉と重なる。そうか。無意識に出た言葉だったが、遠い記憶に言われた言葉だったと思い出す。イアンは黒^ゼットの奥に仕舞い込んだ木箱を取り出した。埃がたまっており咳き込む。釘を打たず板を置いただけの蓋を取り外すと、中には今や不要なもので、捨てられなかったものが入っていた。中を検めると奥底に一冊の本を取り出す。ふうっと息を吹いて掌で軽く埃を払った。本屋で見た題名と同じだった。何度も読んだのにすっかり忘れていたが、本を手にしたら色々なことを思い出す。アルトゥールの無精ひげを生やした顔、豪快な笑い声、おおざっぱな料理の味――そして事あるごとに褒めてくれた言葉。
(あんなに褒められたのはあの人だけだったな)
十五の時に別々に暮らすようになり、その後の行方は知らない。何度か住み慣れたアルトゥールの家に足を運んだがいつも留守だった。――もしかして避けられているのかも。そんな小さな疑心が生まれ、次第にアルトゥールへの憎しみに変わりそうだった。そうなる前に忘れてしまおうと、それ以来イアンはその家に近寄ることをやめて、寂しさと一緒に記憶の奥底へと仕舞い込んだ。
今思えば思春期の反抗でもあったのかもしれない。避けられているならこっちだって、もう会いに行かないぞと幼稚で擦れた気持ちがあったのだろう。結局、放り出された十二年前のイアンは日々の暮らしを守ることに必死で、探しに行くどころではなくなったのが実情だ。
そして今日まで奥底にしまわれた記憶が十二年の時を経て浮かび上がり、寂しさは憎しみに変わるどころか疾うに薄れて郷愁へと昇華されていたことに胸にほんの小さな痛みと穏やかさが入り混じっていた。




