第15話
イアンは昨夜リヒャルトから貰ったお金で本の仕入るために出かけた。出かけるときが唯一の一人の時間だ。ふと気が抜けて大きなあくびをする。
変わらずリルは夜中に悪夢で目を覚ましイアンを呼ぶ。奇襲のような夜が続いてイアンは寝不足に悩まされていた。戦地から帰ってから気が高ぶって眠れないときとは違う、常に頭に薄い靄がかかっているような今ひとつ集中できないストレスに苛まれている。
弱音を吐きたくなるが、これも自分で決めた道だと言い聞かせる。それに、リルのことを思えば寝不足など取るに足らない。まだ子供のリルが父親でもなく母親でもなく、自分を必要としていること。どれほどかは計り知れないが信頼している自負と責任がある。その声を振り払うことをしてはいけないんだと自分を奮い立たせた。
ゲフィングニスにある本屋は数軒しかなく、一番近くの本屋は広場から上にある中層部に存在する。本自体が非常に貴重で、無論その分高価な代物だ。大陸まで行けば比較的安価にたくさん手に入るが、そこまでの手段が月に二度の定期便の船に乗るしか方法はない。イアンは本屋を利用することも少なくはなかったが、大抵傭兵の仕事で大陸に渡ることが多々あるので、そのときにできるだけ多くの本を買って持ち帰っていた。
当然のことながら子供向けの本はリヒャルトの家にはない。イアン自身もどんな本を買えばいいのか悩んでいた。
行きつけの本屋は初老の男性が営む小さな店だ。本棚が店の壁に一面、敷き詰められるだけ設置してある。真ん中には四つの本棚が背中合わせに置いてあり、ふたつの通路が出来ていた。奥のカウンターに本屋の主である眼鏡をかけた男性が自身の店の本を読んで座っていた。本棚には入るだけの本がぎゅうぎゅうに詰められており、また、本棚の上にも積み重ねて、すべての隙間を埋めている。これでも他の店に比べて数こそ多くはないらしいが、イアンにとって好みの本が多いのでここの本屋で買うようにしていた。
店内には数人の客が立ち読みをしている。邪魔をしないように端から本の背表紙を確認して、リルでも読めそうな絵本を探すが、みつからない。何度も往復して確認していると目が回りそうだった。これは直接店主に訊いた方が早いとカウンターに近づいて小声で声をかけた。
「すみません」
店主は本から目を話して目線をあげた。「おや、これはイアン様。お久しゅうございます。今日はどうかなさいましたか」鼻眼鏡をかけた鷲鼻の初老の紳士は柔らかな声で物腰低く応えた。
「子供が読めそうな本を探しているのですが」
「子供さん。おいくつくらいでしょうか」
「十歳くらいの女の子です。ただ読み書きがあまり得意じゃなくて」
「ふむ……」
左手で眼鏡の枠を指で支えて位置を調節し、カウンターの上に置いてある分厚いファイルを目の前に置いて親指の腹をぺろりとなめてからめくる。イアンは視線を落とした。ファイルにはここに置いてある本の題名と内容を短文にして書き出してある。どうやら店主はここにある本の全ての内容を把握しているようだ。
所々赤色の線で斜線がひいてある。同じ色で人の名前と住所が書かれていた。ぼんやりと眺めていたイアンの目に見覚えのある名前が飛び込んできた。
——よく書けてるじゃないか。
遠い記憶の声が蘇る。嗄れ声の豪快な声だ。
「ああ、いいものがありますよ。絵本なんですが……イアン様?どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。馴染みの名前があったので」
イアンその名前を指さした。
「アルトゥール・ヴェルナー様……ええ……ええ。覚えていますとも。もう十年以上前のことですね。お客様と同じで子供に読ませる本を探していると仰っていましたよ。ご自身は本が苦手だから選んでくれと哄笑なさって……」
容易に想像が出来た。細かいことを気にしない、そんな男だったと思い出す。
店主は本を席を立ち、一直線にある本棚へと向かう。腰を抑えながらしゃがみ指先で背表紙をたどりながら一冊の本を取り出した。
「はて。そういえば、ヴェルナー様もイアン様と同じようなことを仰っていましたよ。子供に読み書きを教えるんだとか。それでこちらの本をお勧めしました」
その本はアルトゥールがまだ幼かったイアンに渡した一冊の童話だった。細やかな鉛筆画の挿絵があった。その本を見ながら、文字の練習をしていた幼少期の記憶が断片的に思い出される。
「こちらの本ですが、いかがなさいましょうか?」
店主の声で我に返った。差し出された本は少し古ぼけた一冊の絵本だ。
「購入します」
「ありがとうございます」
店主はカウンター下から綺麗な紙のロールを取り出す。ハサミで適度な大きさに切り、慣れた手つきで本を丁寧に包んだ。「贈り物でございますね」と確認すると、イアンは少し考えた後に頷いた。店主はリボンをかけてイアンに手渡す。
店主はペン立てから赤色のペンを取り出し、イアンが買った本の題名の上に斜線を引く。
「この人……ヴェルナー氏の行方ってご存知じゃないですか?」
「申し訳ございません。何度か本の仕入れに関して、お知らせのご連絡をさせていただいたことはございますが、あれ以来一度もお見えなっておられませんので」
「そうですか」
無理はないかと心中で呟く。イアンも別れてから十年以上近く経つ。あの家にはイアン自身一度も戻っていない。同じ傭兵だったアルトゥール・ヴェルナー。イアンに生きるすべを教えた育ての親に思いを馳せる。
——今もどこかの戦場で戦っているのだろうか。




