第14話
次の日からイアンの生活は一変する。リヒャルトと二人暮らしとはいえ、お互いの生活に干渉することなく過ごすことが暗黙のルールだった。生活リズムも異なり、イアンが自分で決めたルーティンを崩さないようにする一方、リヒャルトはその日の予定や気分によってルーティンを変えていった。共に過ごす時間も多くなく、それがイアンには心地よく一緒に生活が出来ていたといっても過言ではない。
それが今日から変わったのだと、部屋の通信装置が鳴ることで実感する。こんなことは同居して初めてのことだった。
前日リルが眠ってから、イアンの疲れを察したリヒャルトが早めに寝ることを勧めた。リルにとってはこの家で眠る最初の夜だ。不安から目が覚めたりしないかと心配だったが、イアン自身も前日の夜中から碌に休めておらず、ひと眠りしたいとは思っていた。リヒャルトから何かあったら起こすから休めと言われて自室へと戻る。ベッドに寝転ぶやすぐに容易に眠ることが出来た。深く沈むように眠っていたが、内線でイアンを呼ぶリヒャルトの弱った声で目が覚める。
「どうした」
地下へと駆け降りるとリヒャルトはガラス部屋の前で頭を掻いていた。
「おまえを呼んでいる」
イアンはカーテンが閉まっているガラス部屋に視線をやった。微かに泣き声が聞こえる。最初こそリヒャルトが慰めようとしたが、イアンじゃないと嫌だと駄々をこねて困っていたという。
「リル、入るぞ」
リルはベッドの上に座り込んで嗚咽を漏らし、背中を丸くして泣いている。イアンはベッドに腰を掛けて背中をさすりながら落ち着くのを待った。どうやら怖い夢を見たらしい。どんな夢か具体的に語ろうとはしなかったが、廃工場でのことを思い出しているのだろうとイアンは容易く想像できた。
赤子の夜泣きのようにリルは目を覚ましてはイアンを恋しがって呼ぶ日々が何日も続いた。そのたびにイアンは悪夢を振り払うように宥めて根気強くつきあった。
昼間は意外にも大人しく過ごしており、困らせるようなことはしなかった。リルを引き取ることの条件にあった、教育を施すことをイアンは実践した。リルは幼少期に覚えるような基礎的な教育の土台が出来ていなかった。書ける文字もあれば、間違って覚えていることも多く、一からの教育を施すべきだとリヒャルトは進言した。イアンはまずは文字を正しく書くことと計算を教えることにした。ダイニングテーブルで、リルは懸命に文字の練習とイアンが用意した簡単な計算を解いた。苦心することもあったが音をあげることは一切なく、その姿勢にイアンも感心した。
しかしどこか必死で、それこそ死ぬ気でやっているような気概は恐ろしさすら感じた。ゆっくりでいいとイアンは何度か言ったが、リルは自分に鞭打つように勉強を続けた。そのおかげか、リルはすぐに文字を覚え、足し算引き算のような簡単な計算はできるようになった。
どうしてそんなに急ぐのかと考えたが答えはみつからない。本人に訊いても答えたくないようではぐらかした。最初はリヒャルトから外出の許可をもらうためかと考察したが、そんな素振りは見せなかった。外に出たいと全く請わなかった。
変わったことと言えば、リヒャルトである。お互いに干渉しない生活ではテーブルを囲んだのは数えるほどしかなかった。大抵はイアンが食事を作るか、ジャニーネのところで買ったものを用意したりしている。リヒャルトは用意されたものを、自分の好きな時間に食べた。これは同居を始めたころにリヒャルトが作ったルールであった。イアン自身料理は嫌いではなかったし、自分の好きなものを用意できることがありがたくもあったので特段苦に思ったことはない。
それが昨日、いつもなら地下のモニターの前で食事を済ますリヒャルトがダイニングテーブルで待っていたのだから、イアンは大層驚いた。そして次の日も、また次の日も、リヒャルトは共にテーブルに着いた。朝と晩、同じ時間に起きて席に着き共に食事をする。イアンは当然のことだが、誰よりも驚いているのはリヒャルト自身だろう。
そして夜が来る。リルは必ず二人におやすみと挨拶をしてからガラス部屋に行った。自らパネルを操作して中へ入り、カーテンを閉めて、真っ暗にならないように明るさの調整して、ベッドへ潜り込む。
「入眠は早いんだよ」
胸の前でそれぞれの指先をあわせて、リヒャルトはモニターに映し出されたリルのデータを見ていた。ベッドには横になることで『被験者』のデータがとれるようにリヒャルトは設計しており、毎晩のリルの脳波の変動を記録していた。グラフや数値のようなものが書かれていることはわかっても、イアンはそれが何かまったく理解できない。
「心拍数も呼吸も正常だ。脳波に異常もない」
「あんなに毎日泣き叫んで起きるものか?」
「原因ははっきりしないが、珍しいことでもない。特にリルのような特殊な環境にいる子供は、特にな」
テーブルに置かれたコーヒーに口をつけてため息をついた。
「焦っても仕方がない。子育てっていうのは根気よく続けるしかないぞ。世の親は子供の夜泣きに悩まされるなんて、ありふれた悩みじゃないか。それともなにか、すでに音を上げたのか?」
「そんなつもりじゃない。泣くばかりでどんな悪夢を見てるかも話そうとしないし、自分の中に恐怖を押し込めているんじゃないかと思うとあまりにも可哀想で」
「そいつは……いっぱしの親みたいじゃねえか」リヒャルトはくくくと笑った。
「からかうなよ。ただ見ていることしかできないものかと、自分の無力さが情けない」
「からかっているつもりはないさ。おまえは十分立派な心がけを持って努力しているよ。そういった気持ちはリルに伝わってるだろうよ」
イアンは眉根を寄せて俯いた。リヒャルトの言葉が建前でないことは分かっていても心で納得することが出来ない。感じたことのない歯痒さが波のように何度も何度も押し寄せる。
「心配するな。今にリルから話してくれるようになるさ。そのためには、本でも買って読み聞かせでもしてやれ」
リヒャルトは財布から数枚のお札をだしてイアンに渡した。




