煌きの雨 2
白銀の柔らかな髪をふんわりと揺らしながら、雑草の少女がパンや飲み物を乗せた角盆を持って出て行く後姿を見送ったクドラは、すぐさまにこにこと相好を崩して笑う小柄な少女へ胡乱気な眼差しを送って見せた。
「護衛の騎士ねえ…リーゼ様が?」
「うっわあ、ボクって信用ないなあ…」
クドラの発した言葉は、聞く者が聞けば冒涜的とも取られかねないものであったが、それを投げかけられた当の本人は可愛らしい唇を尖らせ、頬を膨らませて見せた。それも本当に怒っている訳ではない為か、すぐに食指をそそる芳香を漂わせているパン達へ輝く紫水晶色の大きな瞳が楽しそうに向けられる。
「ボクだって、たまにはちゃーんと護衛くらい付けるよ?」
「たまにはって…リーゼ様は王花…この国の皇女様なんだから、たまにも何もちゃんとしないと。 そろそろ、護衛泣かせの異名が付くんじゃないです?」
およそ自分の地位というものを理解していないような発言に、黒髪黒瞳の少女は呆れたと言わんばかりな溜息を空気に溶かした。飽きもせず、毎回同じようなことを繰り返す二人を、フリーアはカウンターに行儀悪くも両手を着いて、身を乗り出しながら至極楽しそうに眺めている。
少し眺めただけでは、クドラはやや辛辣に第三皇女を諫めているが、心配の裏返しだと分かっているからこそフリーアもリーゼロッテも、焼き場の前から様子を見ているジェライトとクリスも、その口元から笑みが消える事は無い。そんな笑顔を四方から向けられたクドラは口調を更に鋭くして小言を吐き出したが、微かに朱の広がる白磁の頬を見れば照れ隠しである事は容易に察せられた。
「ねえねえ、マスター。 お客さんも少ないし、ちょっと私達もお茶してきていーい?」
どうやら、クドラのお小言は欠片ほどもリーゼロッテの心に響かなかったらしい。いつの間にか、角盆にはカリカリに焼かれたベーコンとレタス、チーズ、トマトを薄く切ったライ麦パンで挟んだサンドと、バターを幾層にも織り込んで焼き上げたクロワッサンを乗せたリーゼロッテは、満腔の笑みを湛えて“黄金の林檎亭”店主へと声を掛けた。
採光の為に設けられた窓からは、大通りの様子を見て取ることが出来る。昼食には遅く、仕事終わりに寄るには早過ぎる時間帯の為か先程から“黄金の林檎亭”店内へ入店してくる客は一人も居ない。リーゼロッテが来店したばかりの時に溢れていた客達も、それぞれ目的のものを購入してとうに退店している。焼き場から店内の様子を一瞥した店主は、快活な笑みと共に大きく頷いて見せた。
「おう、構わねぇぜ。 クドラとフリーアはこのお姫さんの相手をしてやってくれや」
「はーい!」
「……いいのかしら、これで…」
上品に煎れた紅茶色の髪を揺らし、跳ねるような足取りでカウンターから出て来たフリーアとは逆に、クドラは苦い薬草を噛んだように表情を顰めた。だが――そう、まだ今日は二人とも休憩を取っていない。行動に少々難があるとはいえ、闊達に笑う皇族の少女は大切な“友人”だ。せっかく訪問してくれた友人を余り無碍に扱うな、というジェライトなりの優しさなのかもしれない。
その小柄な身体の一体どこに入るのか、と、毎度感心したくなる程のパンをさっさと角盆に乗せたフリーアは、既に従業員達の利用する休憩スペースへ向かったリーゼロッテを追い掛けている。
「まったくもう…」
仕方ないわね。
そう言いた気な表情とは裏腹に、手早く陶磁器のポットへ飲み物を用意する黒曜石のような瞳は、柔らかな光を湛えていた。
◇
大通りに面した店舗の前面に設けられている休憩場所とは違い、裏庭に設けられた従業員の休憩スペースは、この時期風を感じて食事をするにはいささか肌寒すぎる。
店内と裏庭を繋ぐ通路の先、材料などを保管しておく部屋の隣は普段予備の部屋として空いているが、天気の悪い日やこの時期は、クドラ達従業員の憩いの部屋として利用されていた。床板やカウンターと同じ板材を利用して作られたテーブルと椅子が四脚、円筒型のストーブから柔らかな熱が広がっている。
「で、今日はアップルパイを買いに来ただけじゃないんでしょう?」
「そうそう、にっぶいマスターとクリスはともかく、私達はだませないぞー」
淹れたての紅茶を白いカップに注ぎ、リーゼロッテへ差し出したクドラは伺うような眼差しで少女を見下ろした。それに対して神妙な面持ちで頷いたのは、リーゼロッテではなくフリーアだ。鳶色の瞳に真剣至極といった感情を溢れさせてはいるが、飲み物を待つ事も無く口いっぱいにほお張ったパンで頬は膨れており、片腕の長さ程もありそうなバゲットを両手にしっかりと握る姿は生真面目とは程遠い。むしろ、その細い身体の一体どこにと感心したくなってくる。
最初こそ、大食漢っぷりにぎょっとしていたリーゼロッテも、今では慣れきってしまった為か嘆かわしそうに首を振るその目は優しく笑っている。そのあどけなさすら感じる表情からは、フリーアの頬に付いたパン屑を指先でつまんでやる黒髪の少女こそが、《花》の階級で最も高位な王花であり、ここユルドゥーズ帝国の第三皇女その人だと知らない者が想像するのは少々難しいかもしれない。
「あはっ、騙すなんてそんな気はないけどさ…"二人とも"シャイだからこのリーゼ様が一肌脱いであげようかなって思った訳!」
「てことは、護衛の騎士って…“青騎士”?」
「やーん! 《薔薇の騎士団》団長アイヴァーン様ねー!ルナの王子様っ!」
屈託無く笑う紫水晶色の瞳には、何処か得意気な感情が覗いていた。
半ば確信を込めて呟いたクドラの言葉へフリーアは、大袈裟な程に弾んだ声を張り上げて手に持っていたパンを指揮棒の如く振り回した。年齢的にも“そういった”話というのは皆好きなものだが、フリーアは夢見がちな部分も相俟ってか、殊更に恋愛話へ反応する。それが、より身近な人であればあるほど反応が大きくなるのも些か致し方のない事なのやもしれぬ。
忽ち室内は明るい空気と、少女達だけが共有する秘密の花園めいた雰囲気が漂い始める。まるでそれを察したかのようにストーブの炎がぱちり、と小さな音を立てた。
「ふふ、そうそう。 …実はね、今日彼は非番なんだけど、できれば早くルナに伝えたい事があるから、もしも今日ボクが“黄金の林檎亭”に行くのなら同行させてくれって…頼んだの、彼なんだよ」
「ええーっ!なにそれ!もしかして愛の告白っ!?」
如何にもわざとらしく片手を口の横に添え、軽く身を乗り出しながらひそひそと声を潜ませるリーゼロッテに、フリーアは益々鳶色の瞳を輝かせる。
「…流石にパン屋の前で告白なんてないでしょ。 色も素っ気も無さ過ぎるわよ?」
クロワッサン生地を円形に焼き上げ、カスタードとブルーベリー、そして話中の人物であるルーナリーアの《花》たる野苺を乗せたパンを口に運びながら、冷静に分析してみせるクドラの言葉は説得力があった。不承不承ながら頷くフリーアだが、軽く尖らせた唇にはありありと未練が透けて見える。可憐な乙女に跪き、永遠の愛を誓う騎士の男性……。
無意識のうちに緩み始めていた顔を、フリーアは手に持っていたパンを口にすることで隠した。こちらを見ている二対の視線に気付いたのだ。言い訳のように殊更能天気な笑顔を形作ると、綺麗に焼けたパンの表面にかぶりついてみせる。
「うーん、おいし。 マスターのパンは何でもおいしい。クドラも半分食べる?」
「あのねえ…いくら美味しくても、バゲット丸々一本なんて普通食べないわよ…私は自分のがあるからいいわ」
「たった一個なんて絶対足りないよぉ…クドラって本当、胃が小さいんだねえ」
「…いつも不思議なのは私なんだけどね」
ほっそりした指が、フリーアの手にしっかりと持たれているバゲットをさす。小柄な少女が一度に食べる量としてはいささか多すぎるそれに対し、クドラの持つパンを見て不満気に唇を尖らせるフリーア…毎度の遣り取りは、彼女達と関係を持つようになって一月余りのリーゼロッテにも既に馴染みの光景だ。
少し椅子へ深く腰掛けなおすと、帝国の第三皇女はテーブルに肘をついた。やや作法には欠けるが、組み合わせた指の上に載せた頭を軽く傾け、緩んだ笑みを湛えながら対面する二人を眺める姿は、豊穣祭に“花皇宮”の“瑠璃の間”行われたパーティで小柄ながらも無視出来ない高貴な雰囲気を身に纏っていた少女とは対照的だ。きっと、今の姿こそが本来のものなのだろう。
薄紅の差す可憐な唇が紡ぐ言葉も、貴族という柵に捕らわれない友人間の恋愛事への関心だ。
「ボクはね、やっぱりケインスを応援したいんだよねえ。 それにほら、ルナだって気になってるみたいだし…“他にルナを狙ってる人がいても”身内の可愛さっていうの?二人を応援したいんだ」
「…あー、リーゼも気付いてるの?」
「もっちろん。 分かりやすいしねー…」
「まあそうよね。 気付かぬは本人ばかりなり、よ」
フリーアの食事っぷりにどうやら小腹が空いてきたのか、手付かずだったパンのうち、ライ麦のサンドを両手に持つと食事を楽しみ始めた。だが、その合間の会話に顔を見合わせたのは残りの二人だ。
フリーアは、悪戯の見つかった子供のような顔で少しばかり口を濁す。それに対して嘆息とも、呆れともつかぬ独白めいた言葉を零したのはクドラであった。
「…肝心なところで、エストって臆病になっちゃうよねえ」
「そうそう、結構モテるのに全員振ってると思えば、一番好きな人には何も言えないっていうねえ…幼馴染が長すぎたのかしら」
「へー!二人は幼馴染だったんだ!」
「そうそう、リーゼは知らないだろうけど、何年か前もね……」
「ええーうっそー…は……で……」
何時の世も、年頃の少女達が最も色めき、頬を染めて語らうは時に砂糖菓子よりも繊細で、チョコレイトよりも甘く――時に、珈琲のようにほろ苦い恋の御伽噺。
時間を忘れて弾む会話に業を煮やし、話中の一人であったクリスが呼びに来るまで少女達の尽きる事無き会話が繰り返された。




