第九話 傷
「ど、どうして? あ、あの……いつから?」
突然、魔法か何かで出現したような公子の姿に、シャルロッテは慌てて口籠もった。
「ちょっと前からかな。僕の部屋から君達が庭へと歩いて行くのが見えて……、それで思わず後をついて来た」
「え、ついて来たのですか?」
彼女はびっくりして絶句してしまう。自分達の後を誰かがついて来ているとは、想像すらしていなかったからだ。
「まあね」
風に踊る前髪をうるさそうに手で撫でつけながら、目前の青年は形のよい眉をひそめ拗ねたように返事をした。
ミハエルのような派手な外見の人間が近寄れば、嫌でも目立ってしまうものだ。
それなのに彼女もラズヴェルも、彼らを監視するため見守っていた王宮の侍従達でさえ、誰一人として近くにいる筈の彼に気づかなかった。
確かに自分たちを窺う人間がいるとは思ってもなかったので、周囲に気を配ってなかったせいもあるかもしれない。
ーーが、それにしたって不思議な気がした。
「あ、あなたがいるとは思わなかったわ。誰かに見られたらどうするつもりだったの? 使用人だっていたでしょう?」
彼を非難して小言を口にするシャルロッテの本心は、しかし別のところにあった。勿論彼の無謀な行動にも言いたいことは山ほどあるが、それよりもラズヴェルとのやり取りを聞かれていたとしたら、そちらの方が数倍恥ずかしい。
ミハエルは聞いてしまったのだろか?
シャルロッテとラズヴェルとの、あの、何とも言えない情けない会話を。
「心配しなくても大丈夫だよ。目立たないようにしてきたから」
「あなたが……、目立たない?」
言われてみれば今日の彼の服装は、以前会った時よりも若干地味に見える。シャルロッテの怪訝な視線を受け止めて、ミハエルは不満そうに切り返した。
「そんなことより君、君はいつもああなの?」
「ああって?」
「あの男の随分失礼な言い分に、反論一つ返さなかった」
「聞いてたの?」
やっぱり聞かれていたのだ。彼女は羞恥で真っ赤な顔になる。
「酷い! 立ち聞きするなんて」
「盗み聞きしたことは悪かったよ。でも……」
ミハエルは不機嫌な顔を崩さない。柔らかい笑みを湛える彼は、いったいどこへ行ったのだろう。
「君はグルセンの姫だろう? それなのに何故怒らないの」
「それは……」
「それにあの男は何なんだ。とてもじゃないが、姫との結婚を望んでいるとは思えない態度だった」
「わたし……」
シャルロッテはカッと熱くなっていた頭が、急速に冷えていくのを感じる。
何故ミハエルはそんなことを言うのだろう。あの夜会の日の彼女を覚えていないのだろうか。
彼女が候補達にどんな陰口をきかれていたか、彼は知らないとでも言うのだろうか。
「君がそんなだから奴らは舐めてかかるんだ。もっと毅然としてればいいのに、何を遠慮する必要があるんだよ」
微笑みを浮かべていないミハエルは、何だか怒っているみたいである。だけどどうして彼が、シャルロッテに腹を立てねばならないのだろう。
何も知らないくせに。こちらのことなど何一つ知らないくせに。知ったような口をきいて、えらそうに指図してくるなんて。
「そんなだから何? 毅然て、どうすればいいって言うの?」
シャルロッテの発した低い声でミハエルは黙り込んだ。彼から息を飲む気配がしてきて、腹立ちが余計に収まらなくなる。
「わたしがどんなふうに見られてたっていいでしょう。あなたには全然関係ないじゃないの」
「ご、ごめん……だけど……」
「あなただって分かってた筈だわ。あの夜会の夜見てた筈なんだから。わたしがあの人達にどんな目で見られていて、どんなふうに思われていたか」
彼は何も言ってこない。それが肯定を示しているのかと思うと、彼女はますますやり切れなくなった。
「知らないだろうから教えてあげる。わたしは昔からこうなの。姫とは名ばかりの恥ずかしい存在なの。だからこんなこと慣れっこなのよ。わたしにとっては普通のことなんだもの。お父様だって本気で期待なんかしてないわ。そうよ、分かりすぎるくらい分かってるのよ」
「シャルロッテ姫……」
「大国の王として名を馳せるお父様に似ているのは、このくすんだ茶色い髪の毛ぐらい。美姫として有名だったお母様には、似たところなどありはしない。何をしてもグズで飲み込みが悪くて不器用で。器量が悪い上に中身まで悪いんだから酷いものよね。もう分かったでしょう? わたしは姫だなんて柄じゃない、みっともない『みそっかす』なの」
ミハエルの視線を避けてシャルロッテは歩き出した。だが後ろから足音が彼女のあとをついてくる。
彼はどうして去っていかないのだろう。ラズヴェルと同じように、他の候補達と同じように。
「こんなわたしがどうして毅然と振る舞えると言うの? どうしたら自分に自信を持てると言うの? あなたみたいな人には、きっと一生分からないわね」
「ーー僕みたいな何?」
すぐ後ろから冷え冷えとした低い声が聞こえてきた。そのあまりの温度の低さに、身震いしながらシャルロッテは振り向く。
透明なガラス玉のような、まるで感情の籠もらない目で見返してくるミハエルがいた。
シャルロッテは息を飲んで彼を見上げた。
何故だか分からないが、彼はまだ怒っているように見える。どうしてこの青年が怒りを覚えるのだろうか。腹を立てているのは彼女の方なのに。
「僕が何だと言うの?」
ミハエルはじりじりと彼女に詰め寄ってきた。シャルロッテの声にも思わず力が入る。
「あ、あなたは何だって持ってるじゃない。美しく上品な容姿も、少しのことで慌てたりしない堂々とした雰囲気も。それに公子という立場も持ってるわ。そんな人に惨めなわたしの気持ちなんて、分かる筈ないじゃないの」
「僕が何でも持ってるだって?」
ミハエルはブラウンの瞳の中に僅かに輝きを取り戻し、それを大きく見開いた。
「そうよ、あなたはその……」
シャルロッテは視線をうろつかせ言い淀む。
まるで物語の王子様みたいーーなんてこと、本人に対して言える訳がない。
「それは違う。君こそ何も分かっていない。僕は何も持っていない。取るに足りない存在なんだ」
ミハエルは頬を歪ませると唇を噛み締めた。切なくなるような声音に、シャルロッテの胸が音を立てて騒がしくなっていく。
「君は僕の母国、サフラン公国を知ってる?」
「ごめんなさい。あまり詳しくは知らないわ。今のサフラン公は、あなたのお父様のアルバーン様よね。サフランはグルセンから東の山あいにあって、絹糸と織物が国の主要産業だと聞いているわ」
「それだけ知ってたら充分だよ」
ミハエルは冷ややかな気配を消し去り、和らいだ表情を向けてきた。
シャルロッテはホッと息をつく。サフラン公国については、つい最近グレファムが講義で説明をしてくれたばかりだった。ミハエルの身につける輝くような色彩の美しい装束は、特産の絹で出来ていたのかと彼女は気づいて胸を踊らせたものだ。
何をしていても彼へと思考が直結していく。そんな自分に呆れながらも、考えることをやめられなかった。
「僕の国は大陸でも飛び抜けて小さいからね。グルセンのような大国から見れば、まさに吹けば飛ぶような小国だ。だから君から言えば、それだけ知っていれば充分だと思うよ」
ミハエルは瞳を曇らせて続ける。
「だけど中へ一歩入ればそれだけじゃない。小さい国でも人がいれば、いざこざもあるし摩擦もある」
「だ、だけど……何故あなたが取るに足りないって……」
「君は一人娘だよね?」
おずおずと尋ねるシャルロッテに、ミハエルは顔を上げると強い眼差しを向けてきた。彼のしてきた質問に、彼女は酷く狼狽して体を硬くしてしまう。
「え、ええ……」
「たった一人の子供として、大事に育てられてきた君には分からないだろう。今のサフラン公アルバーンには、大勢の子供達がいる。彼は多分その誰をも、満足に把握してはいないだろう。僕のことなど当然のように顔も知らない筈だ」
「そんな……」
「事実なんだ。アルバーンは国の未来などに興味がない。簡単に言ってしまえば、自分の後を継ぐ後継者にもまるで興味がない。だからそれぞれの子供達は互いの動向に気を配る。その背後には、力を手に入れようと暗躍する者達も当然いる。彼らは互いに足を引っ張りあって貶め合うばかりだ。お陰でまともな後継者は育たない。公自ら治世を放り出して他人に任せきりだからね、当たり前と言えば当たり前なんだけど」
ミハエルはフウと軽く息を漏らすと、皮肉げな笑みを口元に浮かべた。
「それでもせめて公が、自分の跡を託す人間をきちんと決めていればまだ良かった。そうすれば今ほど乱れることはなかったんだよ。だがあいつはそんなこと見向きもしなかった。自分のことしか考えていない身勝手な奴だったんだ。自分の欲望にのみ正直で、その陰で泣いている人間のことなどまるでーー」
「ミハエル様……」
瞳に憎しみのような光を浮かべる青年の腕に、シャルロッテはそっと触れた。そうしないと彼が遠くへ行ってしまいそうだったからだ。
だけど一方でおかしいとも思っていた。
彼の言いがかりに腹を立てていたのは、間違いなく彼女自身なのに。どうして今は、ミハエルを宥めようとしているのだろうか。いくら彼の様子が少しおかしいからって、どうして少し前の怒りを忘れてしまえるのだろう。
「そんな国で僕は何者にも属さない、まるで異端者のようなものさ。何も持ち得ず捨て置かれた、実に弱々しい存在なんだよ」
「そんな、何も持ち得てないなんて嘘だわ! だ、だってあなたは公子様でしょう?」
自分を否定するかのように鋭利な言葉を吐くミハエルを、シャルロッテは思わず問い詰めた。
彼は彼女の必死な様子にぼんやりと定まらない視線を向けていたが、やがて「ああ」と言うと焦点を戻して微笑んだ。
「……確かに僕は公子だよ。だが肉親の愛情には疎い。そう、どちらかと言えば恵まれない育ちをしているんだ。いや、母からは愛情を受けたかな? これでも人並みにはね」
ミハエルは戸惑うシャルロッテの髪に舞い降りてきた花びらを、長い指で掬い上げ取り払った。
彼の指から離れた小さな花びらが、柔らかい風に乗って遠くへと飛ばされていく。
「何て顔してるの、シャルロッテ姫。そんなに僕の話は憐れみを誘うものだった?」
「い、いえ……」
花びらを見送っていたミハエルが、振り向いて彼女に軽口をきく。その表情はいつもの彼と一緒である。多分最初に彼が見せてくれた顔と、何ら変わらなかっただろう。
だけど今確かに、彼の傷に彼女は触れた気がした。
彼女から見れば完璧に見えた彼にも、深い傷が心の中に隠されているのだろうか。そしてその一端を今、シャルロッテだけに見せてくれたのだろうか。
「やめてくれよ。そんな顔で僕を見るのは」
迷惑そうにミハエルは眉をしかめる。
つい同情を寄せるような眼差しを向けた彼女に、機嫌を悪くしたらしい。シャルロッテは急いで頭を下げた。
「ごめんなさい」
「ーー何故謝るの?」
「ごめ……。え、えっとわたし……」
わがままを言う小さな子供みたいな目で、気取りを捨ててミハエルは睨んでいた。優雅な王子の仮面を外し甘えた視線を向けてくる。
確かに彼は、全てを話した訳ではないだろう。彼女だって言えない秘密を抱えているのだから当然だ。
だけどーー。
露骨に嫌な顔を向ける彼に、気がつけばシャルロッテは笑いかけていた。
青年が見せてくれた不満げなその表情が、他でもない素の彼自身に思えて、何よりも無性に嬉しかったのだ。




