第十話 諍い
「マイセン侯爵家のラズヴェル?」
手元に影を作るよう前に立ちふさがる声の主に、顔を上げることもなく不機嫌口調のまま国王は尋ね返した。
「はい、一応お耳に入れておいた方がよろしいかと思いまして……」
気分を害した様子を見せるギンダーに、ビクビクと返答しているのは、数名いる大臣の中では一番若いネィルソンという男だ。
若いと言ってもゆうに五十は過ぎているので、無論ギンダーよりは年上になる。筆頭大臣を務めるグレファムが一番目をかけている男で、彼の後継者と目されていた。
午後の執務室でのことである。
幸か不幸か部屋には他に誰もおらず、ネィルソンは勇んで話しかけてきて王の不興を買ったらしい。
ギンダーはなかなか本題を切り出さないネィルソンに苛立ち、急かせるように話を促した。
「で、そのマイセン家の息子がどうした?」
「は、はい。ちょっと妙な光景を見かけたものですから……。確か今の時間帯、姫は彼と面談中だったかと思うのですが……」
汗をかきかきネィルソンは話し始めた。平素なら助け舟を出してくれるグレファムが今はいない。とぼけた表情で人を煙に巻くことが多い老大臣は、実は意外と面倒見がよいのだ。
ネィルソンは目にした情報を、グレファムの指示も仰がずいきなり王に進言したことを、このとき内心後悔していた。
「妙な光景?」
ようやくギンダーは机の上の書類の束から目を離し、目の前に立つ男へと顔を向ける。
ラズヴェルはシャルロッテの花婿候補の中でも、最有力候補と言える若者だ。ネィルソンの話とは、当然シャルロッテに関するものであろう。
やっと花婿候補達との面談に前向きになってきたシャルロッテに、また何か候補の一人がやらかしたと言うのだろうか。
例の公子の一件で、当初こそ取り乱していたシャルロッテだったが、今回周りも驚く精神面の強さを見せ、健気にも王達の期待に応えようと、最近では随分積極的に縁談に取り組むようになっていた。
危惧された婚約不成立という最悪の結果も、なんとか回避されるのではないかと、王は先行きに良い見通しを立てていたのだが。
それはやはり甘かったと言うことか……。
「いったい何を見た? さっさと言え!」
ギンダーは立ち上がると慌てふためくネィルソンの首根っこを掴まえ、噛みつくように問いつめた。
***
「おや、公子サマ。お出かけ……で、すか?」
部屋を出ようとするミハエルの背に、ろれつの回らない舌で男が話しかけてくる。
振り向くミハエルを眠そうな顔で見返していた男は、ソファーからフラフラと立ち上がりおぼつかない足取りで近づいてきた。
プンときついアルコールが鼻をつく。
「酔ってるのか?」
酒臭い息を吐く男からさりげなく顔を背け、その手に持つグラスを取り上げながらミハエルはたしなめた。
「飲み過ぎだと思うけど。いい加減にしたら、どう?」
「……お、おい。何をする!」
手からグラスが消えたことに一拍遅れて気がついた相手が、憤然と怒りを発散させグラスを取り戻しにかかってきた。
「酔って何が悪い? これが飲まずにいられるか!」
男は引ったくるようにグラスを奪い取り、残っていた朱色の液体を荒々しく飲み干す。
「お前はいいよな。こっそりとは言え息抜きが出来るんだから」
恨みがましく睨みつけてくる男の身勝手な言い種に、ミハエルも思わずカッとなって言い返した。
「何がいいもんかよ。見つかりはしないかといつも気を張って、神経を参らせているのに」
胸の中に溜まっていたもやもやが、少しだけ晴れていく気がした。男の強弁な態度に、負けてやる気にはなれそうもない。
誰のためにミハエルが動いているのか、どうやら男はまるで理解していないようだ。自分では何一つ行動せず部屋でくすぶっている上に、昼間から酒浸りで彼に当たり散らしてくるだけのくせに。それが本当に癪に障った。
「僕よりましだろ」
だが、ミハエルの抗議をものともせず、男は鬱憤をぶつけてくるのみだった。
シャルロッテとの茶会を断って以降、男は宮殿内をうろつくことさえ自重していた。それと言うのも自分を見る王宮側の人間が、あまりに冷たい反応を返してくるからだ。
他人の感情に疎い鈍感なこの男が、気後れして部屋に引きこもってしまうほどに、グルセン側の態度は露骨だった。
もっとも普通の神経の持ち主であれば、とっくに帰国していてもおかしくない状況とも言える。にも関わらずいまだ宮殿に留まっているこの男に、グルセンの対応をどうこう言う資格などないだろう。男がそれ相応の図太い心臓を持ち合わせていることは、まず間違いないからだ。
しかし、そんな鋼のような心臓を備えた男ですら、参って遠慮をしたくなるほどに、この国の人間の態度はあからさまだったのである。お陰でミハエルへの風当たりは強くなる一方だった。
「僕がこんな状態なのも、元はと言えばお前のせいじゃないか。いつまでたっても小娘一人手懐けられないで何やってんだ、全く。早くしないと王や大臣に出し抜かれて、姫の婚約が発表されてしまうってのが分からないのか? そうなったら何もかもが水の泡になるんだぞ。お前はいったい、どう落とし前をつける気なんだよ?」
男はまた、いつもの台詞を吐いて彼を責め始めた。相も変わらず彼一人に責任を押し付ける自分勝手な言い分だ。しばらくするとミハエルの顔に浮かんでいた怒りの感情が、少しづつ姿を消していく。
赤い顔をして怒鳴りつけてくる目の前の男に、彼は静かに話しかけた。
「……なあ、もうやめないか? 僕にはこの件がうまくいくとは、とても思えないんだが……」
「何だと? お前今更裏切る気か」
「裏切るとかそんなんじゃない。僕はただ……」
ミハエルはため息を落として黙り込む。
彼には男の望みが叶うとは、どうしても思えなかった。
何より男の希望に沿うためには、彼に笑顔を見せてくれる一人の少女から自由を奪うことになる。
自分に何一つ自信を持てなくて、周りの視線ばかり気にしては深く傷ついてばかりのあの不器用で臆病な少女から、信頼という大切なものを彼はなくしてしまうのだ。
「そんな寝言が通ると思ってるのかよ。急に弱気になって怖じ気づきやがって」
男は髪を振り乱しながら怒鳴り散らしてくる。酔いの方もすっかり醒めたらしく考え込むミハエルを見て何かに気づいたのか、目の下を痙攣させて詰め寄ってきた。
「今更そんな訳の分からんことを言い出すとは、まさかとは思うが……お前あの小娘に情でも湧いて……」
「えっ?」
「本気になったとか言わないだろうな?」
「ーーま、まさか」
訝しんで覗き込んでくる男の視線を避け、ミハエルは慌てて切り返した。
「はっ! 何故僕が、あんな子に……」
そんなことある筈ない。男は何を勘違いしているのか。シャルロッテは彼にとって、あくまでも攻略対象でしかない。彼女の存在は、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
「冗談はやめてくれ。僕はただ、この計画には無理があると言いたかったんだ」
そう、ミハエルが気にしているのはシャルロッテのことではない。彼の頭にあるのはグルセンという国そのものであり、それはつまり、王や大臣達のことを指している。
「それこそ何を言ってるだろ? 無理なんか、僕達は百も承知で来ている筈だ」
男は酔っていたことなど夢か何かだったように、冷えた目をしてすごんできた。
「お前が今更手を引くのは勝手だがな、そうなると当然話は変わってくるんだが、それには勿論異存はないだろうな?」
「な……にをーー」
男が口にした脅しめいた問いかけに、虚を突かれてミハエルは絶句した。グルセンに来てから色々なことがあり、気の休まることがなかったとは言え思い出すこともなかった大切な人の顔が、今頃になってはっきりと浮かんでくる。
薄情な彼を責めるように瞳を曇らす儚げな顔。
彼はグルセンに来た目的を思い出した。自分が何故この場所にいるのか。全てはその人のためだったのだ。
「なんだ忘れてたのかよ。随分酷い男だなお前。それで、どうする気だ? このまま尻尾を巻いて国に帰るって言うのか? お前には僕しか味方がいなかった筈だが、いいのかよそれで?」
青い顔をして俯くミハエルを見て、男はフンと鼻を鳴らし口の端を上げていやらしく笑う。目の前でうなだれる青年が、抵抗など出来る訳がないことをこの男は知っていた。
「……いや、悪かったよ。今の話は忘れてくれ……」
彼は満足そうに笑顔を見せる男に、力なく頷き返して呟いた。
男の要求を拒絶する選択肢など最初から、ミハエルにはなかったのである。




