第十一話 密会
シャルロッテはコソコソと辺りを窺いながら、広い王宮の通路を用心深く進んでいた。
しんと静まり返った空間の所々に、バランスよく配置された彫像や立派な絵画などの調度品が目に入ると、すぐに自分の姿を隠すために近づく。そして物陰から恐る恐る首だけを伸ばして、また周囲に目をやるのだ。
しかし、そんな面倒なことをしなくてもそこには誰の姿もなかった。
彼女がいるフロアは宮殿でも外れにあるため、よほど大勢の客人を迎えた時ぐらいしか、使われることはなかったのだ。夜会も終わり、滞在客も少なくなった今、出会うとすれば使用人ぐらいであったがその使用人の影すら見えなかったのである。
シャルロッテはふうっと大きく息を吐いて、潜んでいた甲冑の陰から飛び出た。
今回もどうやら監視役や、グレファムなど諸々の危険人物に気づかれることもなく、ラズヴェルとの面談から抜け出すことに成功したらしい。
彼と協定を結んで以降、回を重ねるごとに脱走にも手慣れてきて、今では心理的負担すら軽くなっていた。
ラズヴェルとの間にも、同士めいた関係まで生まれ始めている。
彼は今や初めの頃のような冷たい雰囲気を出さなくなり、気さくに話しかけてくるようにもなっていた。と言うのも、監視の目を少しでも早く撒くために、仲良くなっている様を装っていることも関係しているかもしれない。
他の候補達とは、こんな協定は勿論結べていなかったが、シャルロッテは彼らとの面談にも嫌がらず取り組んでいた。相手側からは相変わらず、積極的とはとても言えない態度を取られていたけれど、彼女は平気だった。
以前の彼女だったら、くじけてすぐ挫折していただろう。何と言っても対人恐怖症を克服したわけではないのだから。ましてや優しく受け入れてくれるとは、とてもではないが言い難い相手ばかりである。
それでも、懸命に候補達と会うシャルロッテを見て、王や大臣達は驚きながらも喜んだ。彼女の成長に安堵したのだろう。
「はあ……」
シャルロッテはため息を零す。
それは大好きな父を騙していることに、薄々気がついているから。
いくら監視の目を欺くことに躊躇しなくなったといっても、それが大切な人の信頼を裏切ることだと思えば、心に重石がのしかかったように暗い気持ちになる。
自分が酷く身勝手な人間に思えてくるからだ。
だけどーー、
それでもシャルロッテは、彼に会わずにはいられなかった。
この通路の先にある物置とかした目立たない小部屋で、来るかどうかも分からない彼女を、日がな一日待っているミハエルに会いに行くのをーー。
どうしてもやめられなかったのだ。
今やシャルロッテに取って、彼との時間はかけがえのないものとなっていた。
「大丈夫よ。お父様はきっと分かってくれる……」
誠意をもって許しを乞えば、父は彼女の気持ちを理解してくれる筈だ。その時には彼への誤解も一緒に消えるだろう。
彼女は決意を胸に新たに誓うと、今はこの問題を忘れることにした。
そうでもしないと、わがままで自己中心的な考え方だと、益々暗い思考に支配されそうだったから。
「それより、急がなきゃ……」
人気ない通路の先に目を向け、小さく呟く。
今日はラズヴェルとの面談の前に、グレファムの講義や侍女長の礼儀作法のレッスンなどがあり、普段よりこちらにくる時間が遅くなっていた。
確かな時間を決めてミハエルと落ち合うのは無理な話なので、彼は約束している小部屋で彼女が現れるのを辛抱強く待っているだけだ。だがシャルロッテが必ず彼の元へ行けるかといったら、そうではない。
そのためミハエルは彼女が来ないだろうと判断した時は、自分の部屋へと戻っていた。つまりのんびりしていると、せっかく時間を作って赴いても、会えず終いとなってしまう訳だ。
小部屋を目指して足を踏み出したシャルロッテは、ちょうど目当ての部屋あたりをうろつく、見慣れない人影に気がついた。
彼女は慌てて、さっきまで隠れていた甲冑の陰に舞い戻る。
黒い人影はゆっくりと通路を進んでいた。シャルロッテが潜む場所からは距離があるので、顔などはぼやけてはっきりとはしないが背の高い男のようだ。
彼女は一瞬ミハエルかと思い身を乗り出しかけたが、男が黒髪だと気がつき再び首をすくめて縮こまった。
王宮の使用人だろうか。どうしよう。いくら何でも目の前まで来られたら見つかってしまうだろう。
シャルロッテはじっとしてられなくて、勇気を出し通路を窺った。人影は既に消えていて、彼女はホッと胸を撫で下ろすのだった。
小部屋の扉をそっと開けると、そこにはいつも通りミハエルがいた。
彼は部屋へと入って来たシャルロッテを見て、一瞬ギョッと目を見開き、酷くうろたえた顔を見せる。
「……どうしたの?」
怪訝な表情を浮かべ彼女が尋ねると、慌てたように視線を和らげ笑顔になった。
「君がいきなり扉を開けたから、驚いたんだ」
「ご、ごめんなさい。さっきこの辺りで人影を見かけたものだから」
扉を静かに閉めてシャルロッテは囁く。
「人影?」
「ええ、近くの部屋に誰かいるのかもしれないと思って……。見つかりたくなかったから、ノックもせずに急いで扉を開けてしまったの。本当にごめんなさい」
「そう……だったんだ」
ミハエルはフウと安堵の息を吐いた。シャルロッテは首を傾げて彼に近寄って行く。
「ねえ、足音とかしなかった? この部屋には誰も来てないわよね?」
誰かが来ていたら大変だ。彼が平然と部屋の中央にいたということは、そんな事態にはならなかったということだろうが。
「何も聞いてない、物音なんか気づかなかったよ」
だが、そう言い切ってヘラリと笑うミハエルの額には、うっすらと拭えぬ汗が浮いていた。シャルロッテは不思議な気がして、彼の前髪を湿らす生え際から目が離せない。
「何だよ?」
ミハエルが笑顔を消して彼女を睨んでくる。迷惑そうな顔つきは、自分を見るなと言ってるみたいだった。彼はどうして、機嫌を悪くしているのだろう。
「あの……、汗が出てるわ。暑いの?」
「暑くなんかないよ」
レースの手袋をはめた手を何気なく近付けた彼女から、驚くほど素早く青年は逃げて行った。
シャルロッテは茫然と宙に浮いた自分の指を見つめる。今、彼は完璧に彼女を避けていた。
ミハエルがハッとしたように顔を上げて、急いで彼女に話しかけてくる。
「ごめん」
「……いいえ」
今日のミハエルはいつもとなんだか違う。
妙に表情が硬いし、よそよそしい。
もしかしてシャルロッテの煮え切らない態度に、とうとう愛想を尽かしてしまったのか。
「……嫌になった?」
「何が?」
「わたしみたいな、みっともない子に振り回されるの」
「振り回す……君が?」
「そうじゃない? こんなふうにこそこそ隠れて会うなんて悪い事しているみたいだし、しかも相手はたいして可愛くもない女の子で……」
シャルロッテはこちらを見返してくるミハエルに、強い視線を向けた。
「嫌になったんでしょう? こんな冴えない子に、いいように振り回されて付き合わされるのが」
嫌になったのならはっきりそう言って欲しい。そうしたら夢みたいな出来事はさっさと忘れ、グルセンの姫として、周囲の勧める相手と誰でもいいから婚約を結べばいいのだから。
元々そうする気だったのだ。何のことはない。彼と出会う前の状態に戻るだけ。
そうすればここ数日の出来事だって、いい思い出だったと記憶の底に沈んでしまうだろう。
「いい加減にしろよ、その自分を卑下する癖。何故こんなわたしとか言うのさ。僕がそんなふうに君に対して言ったことあった?」
ミハエルが突然きつい調子で詰め寄ってきた。シャルロッテは呆気にとられ返事に詰まる。
「いえ、でも……」
「君は凄く魅力的なレディだよ。穏やかな優しい声で話すし、小さなことに感動したり喜んだりして感情は豊かだけど、決して怒りにかられる激情家ではない。華やかな美人ーーとは確かに言い難いけれど、落ち着いた人を和ませる可愛らしい顔をしていて、その表情はくるくる動いて微笑ましい。そんなとても魅力的な女の子なのに、どうしてそれが分からないの?」
顔を赤くして言葉をなくしたシャルロッテを覗き込んで、ミハエルは笑った。
「そう、そのはにかんだ顔が僕は特に好きなんだ」
「す……き?」
聞き間違いだろうか。彼女を好きだと聞こえた。シャルロッテはびっくりして、濃いガーネットのような彼の眼をしげしげと見つめる。
「あ……」
ミハエルは戸惑ったように、視線を動かして口籠もっていた。
「ああ……」
彼も自分から漏れた言葉に酷く驚いているらしい。手のひらで口元を隠して、呆然としているようだった。
「お、おかしなことを口走ってたらごめん。君を驚かすつもりは……」
「ううん」
シャルロッテはブンブンと首を横に振ってミハエルの困惑に応える。
おかしいどころか、こんなに嬉しかったことがあっただろうか。父や母との安心感で満たされた触れ合いとはまた違う、温かくて幸せな気持ちに包まれていく。
「嬉しくて……、わたしあなたに嫌われたのかと思ったから」
「どうして僕がーー」
言いかけて彼は口を噤み、呻くような小さな声を出した。
「……そんなに簡単に他人を信用したら駄目だ。耳に心地よい言葉を吐くような奴の、言うことなんて……」
「どうして?」
シャルロッテにとってミハエルは、単なる他人とは違う。他にはいない、特別な人。その人の言うことを疑ったりなんか出来ない。誰だってそうだろう。
疑問を素直に顔にのせる彼女に、彼は苦しげな表情を見せた。
「ごめん、また変なこと言ったみたいだ」
ミハエルは軽く息を吐くと平静さを取り戻して続ける。
彼も彼女と同じ、温かい気持ちでいてくれてるのだろうか? だとしたら嬉しい。
「変なことじゃないわ。わたしを心配してくれたからでしょう?」
くすぐったくなる気持ちを抑えて、シャルロッテは弾んだ声で彼に甘えてみた。他人には分からないだろうくらい、ささやかな甘え声だった。
「ーーねぇ、シャルロッテ姫」
ミハエルが目を閉じて低い声を出す。
「ギンダー陛下は亡きアレグラ妃以外、妃を娶っていないね。子供は姫である君だけ。忠臣からは再婚を進言されたと思うが、されてはいない。生涯一人の女性に愛を捧げている。尊敬に値する人だ」
「ええ……」
急に父のことに触れてきたミハエルの真意が分からず、シャルロッテは曖昧に返事をした。だが、ミハエルが父親を尊敬してくれていると思えば純粋に嬉しい。
父が母一筋なのは、つい最近大臣のグレファムから聞いたラブレターの一件からでも伝わってきた。そのエピソードはシャルロッテの心をほんのりと優しく温め、そしてまた、世界でひとりぼっちになったような、途方もない孤独を感じさせもした。
両親の仲むつまじい逸話に、孤独感を募らせる自分が厭わしい。
ひたひたと忍び寄る暗い内心を追い出して、シャルロッテは彼に礼を言った。
「ーーありがとう」
ミハエルは薄く目を開けて彼女を見ていた。先ほど見せていた混乱はすっかり消えてしまって、静かな光を湛えている。彼が何を言いたいのか、彼女にはまださっぱり分からない。
「でもそれは世界でも稀な君主と言える。ねえ君は、妻以外の女性を娶る男をどう思う?」
「えっ?」
何故そんなことを聞いてくるのだろう。
彼女は彼の真意を推し量り瞳を凝らすが、視線を逸らされてしまった。
「想像出来ないか……。そうだな、例えばだけど。もし君に、母上以外の女が産んだ兄弟がいたとしたら、君はどうする?」
突然、ミハエルの声が呪いの言葉となって彼女を襲ってきた。
シャルロッテは気が動転して冷静な判断が出来なくなる。深い沼に沈んでいくような恐怖に見舞われ、思わず叫び声を上げてしまった。
「そんなの……、そんなの許されないわ。そんな汚れた子供、絶対許されない!」
「……シャルロッテ姫」
「許されない、許されないわ……」
あらぬ方向を見つめ体を震わせて否定の言葉を吐き出すシャルロッテを、ミハエルは体を固くして見守っていたが、やがて眉を落とし片頬を緩めると寄り添うように彼女の肩に手を置いた。
彼は彼女の耳元に唇を寄せ、小さい声で語りかける。
「安心した」
独り言のような囁きは、心を酷く乱していた彼女には届かなかった。
シャルロッテの無反応にも彼は全く頓着しない。
「君も普通の子だったんだね」
皮肉めいた一言を放ち口を閉じたあと、ミハエルは力が抜けたようにその場に立ち尽くし、彼女が落ち着くまでしばらくの間じっとしていた。




