第六話 訪問
「ミハエル様……」
声に出したものの、どうすればいいか分からない。
窓ガラスの向こうで、のん気にもニコニコと笑い続けるミハエルを見ながら、シャルロッテは呆然と立ち尽くしていた。
何故、彼がここにいるのか?
確か自分との茶会をこの人は断ってきたはずーー。
その彼が目の前で笑っている。シャルロッテは不思議で仕方がなかった。
彼女は茶会に誘われたことはない。王宮に訪れる客人と、個人的に交流したことなどなかった。
だからこういった時の作法にも詳しくはない。だけどーー。
詳しくはないけど、こんなことってあるのだろうか。
つまり、誘いを断った相手の元へ何食わぬ顔をして訪ねていくとか。悪びれもせず平気で笑顔を見せてくるとか。
それはごく普通のことなのだろうか。ーー彼女には分からない。
しかし、シャルロッテの感覚としては、それらはあり得ないことだった。だからこそ彼女は、ミハエルに会うことはもうないだろうと覚悟して泣いていたのだ。なのに……。
何の反応も返さないシャルロッテにミハエルは気づいたらしく、唇を大きく開けてくる。
「えっ? 何?」
彼女は思わず窓に噛じりついて、食い入るように彼を見つめた。その彼女に向かって、彼は殊更大げさに口元を動かしていく。ゆっくりと形を変えていく唇は、何かを伝えようとしているみたいだった。
疑問も何もかも忘れ、知らず知らず、彼の口を読み解こうと目を凝らしてシャルロッテは見つめた。
ーーあ・け・て・く・れ・な・い・の
ミハエルが窓を指差して再び笑った。
「えっ、開けるって?」
慌てて窓から飛び抜くシャルロッテに、彼は微笑みながら頷く。
ーーうん
「ど、どうして?」
ーー話すのに不便だろ?
「で、でも……」
どうしたらいいのか分からない。どうしてミハエルは、何でもないことのように要求してくるのだろう。
ーーお願いだよ。開けてくれない?
青年が小首を傾げて、上目遣いにシャルロッテを見上げた。スラリとした大きな体に不似合いの、小動物のような愛嬌のある仕草だった。
「ありがとう。開けてくれて」
気がつけば、ミハエルが窓枠に手をかけて微笑んでいる。そのまま長い体を伸ばして、彼は器用に木から部屋へと移ってきた。
どういうことなのか。無意識の内に自分は、窓を開けてしまったのだろうか。
「ミ、ミハエル様?」
びっくりしたシャルロッテが大声を出すと、ミハエルはシッと口の前で人差し指を立てる。
「静かにして、誰かに聞かれたら困るだろう」
「だ、だって、部屋、部屋に入って来るなんて……」
「あのまま話なんて出来ないじゃないか。人目について、それこそ君のお父上に追い払われる」
「で、でも……」
舞い上がってしまったシャルロッテは、どう振る舞えばよいか分からない。ミハエルはそんな彼女の脇をすり抜け、難なく部屋の中へと滑り込んでいた。
「こ、ここは寝室です!」
「……そのようだね」
シャルロッテの抗議に、彼は罰が悪そうに答えた。彼女の寝台からさりげなく視線を逸らして、苦笑を浮かべている。
「し……信じられません。レ、レディの寝室に問答無用で入る殿方なんて」
「ごめん、気づかなかったんだよ。レディ・シャルロッテ」
ミハエルは目を瞑って、降参とばかりに両手を上げた。どこか芝居がかった口振りで、「レディ」と口にしたシャルロッテをからかっているようだ。
「この通り、目は閉じておくから安心してよ。約束する、何も見ないから」
「な、何よ……」
問題はそんなところではない。彼は分からないのだろうか? それとも敢えて無視しているのか。
「姫様、シャルロッテ様」
その時、寝室の扉を叩く音がした。こちらの声に気がついた侍女長が、不審に思いやって来たようだった。
ハッとして目を開けたミハエルと、シャルロッテはまじまじと見つめ合う。彼はどこか自信を覗かせていた表情に、初めて狼狽えた色をのせていた。
「いかがなさいました? お目覚めになったのですか?」
扉の向こう側で、侍女長が息を潜めているのが分かる。
どうしようか。シャルロッテの喉が、ゴクリと嫌な音を立てた。
シャルロッテの寝室は宮殿の三階にある。
こんな高い位置まで木を登り、ミハエルは何をしにやって来たのだろう。彼はもう子供ではない。危険だということくらい分かっていた筈だ。誰かに見咎められたらどう説明する気だったのか、シャルロッテには想像も出来ない。
でも少なくとも、彼女の醜聞を広めに来た訳ではないらしい。
何故なら今の彼は見つかりたくないと、とても焦っているからだ。本人は何とか誤魔化せているつもりらしいが、余裕をなくして上っ面だけの笑顔となっている。
つまりは二人きりでいることを、誰にも悟られたくないのだろう。今ここでシャルロッテが大声を出したら、まず間違いなく、彼は困った事態に陥ってしまう筈だった。
そこまで考えて、シャルロッテはクスリと小さく笑った。ミハエルの不思議そうな表情が心細そげに見えてくる。
初めてかもしれない。何だか彼より優位に立てている気がした。
「バーバラ、心配しないで。ちょっと怖い夢を見たの」
彼女は侍女長の名前を親しげに呼んだ。長い付き合いだが、緊張もせず呼びかけることが出来たのは初めてかもしれない。
「姫様」
侍女長も驚いたらしく、拍子抜けするほど声のトーンが落ちていた。
「少し寝たから大分落ち着いたわ。ごめんなさい、心配かけたわね」
「いいえ姫様……、あの、お顔を見せて頂いてもよろしいですか?」
「駄目、それは駄目!」
シャルロッテは慌ててバーバラの入室を拒否する。
彼女の剣幕に、ミハエルが目を見開いて見下ろしていた。
「姫様?」
「え、ええと、ごめんなさい。まだ誰にも会いたくないの。……もう少し、一人で考えたいのよ」
「……さようでございますか」
意外と簡単に侍女長は引き下がった。寝室に入る前の彼女の取り乱し様を見て、時間がかかるのも仕方ないと判断したためであろう。
「かしこまりました。何か他にご用はありますか?」
侍女長の問いかけに、シャルロッテは遠慮がちに答える。
「出来たらお茶をお願い。それから何か食べるものも一緒にあったら嬉しいわ。それを居間に用意してくれたら、あとは呼ぶまで下がっていてくれる?」
「かしこまりました。他になければ失礼致します」
「ーーお願いね」
扉の側から人の気配が完全になくなり、シャルロッテはホッと息を吐き出した。誰かを騙したのなんて初めての試みで、自分にこんな大それたことが出来るとは、今の今まで考えたことすらなかった。
ミハエルが何か言いたげな眼差しで、彼女に視線を寄越してくる。その彼を無視して、シャルロッテは扉に近寄り耳を当てた。
ーー何してるの?
目の前を塞ぐように彼も側へと寄って来て、射抜くような強い視線を向け唇を動かす。
だがシャルロッテは答えない。扉の向こうでお茶の用意をしている筈の侍女達の動向を、こっそりと窺っているので彼の言葉になど意識を向けられないのだ。
ーーあのさ、君。何をしてるわけ?
片眉を上げたミハエルが、しつこく質問を重ねてくる。彼女の顔に自分の顔を近づけると、今にも声を出そうかというほど口を大きく開けていた。
ブラウンの瞳が意地悪く煌めき、そばかす一つない上品な鼻は触れそうに近い。
どう見ても、そう誰が見ても明らかに、彼女の行動を面白がっている。
ーーもう、邪魔しないで!
思わず目を剥いて反撃したシャルロッテを見て、ミハエルは肩を震わせながら苦し気に笑い始めた。彼女が慌てふためく様を見て、押し殺したような笑い声はますます止まらなくなる。
ーーあ、あの……、
ミハエルの口から漏れてくる声に、シャルロッテはヒヤヒヤして必死で言い聞かせていた。
ーーお願い、静かにして! 見つかってしまうじゃない。
どうしてこの人を庇っているのだろうーーと、自分の行動に半ば本気で呆れながら。




