第四話 進展
窓から入ってくる小鳥のさえずりと、庭園に植えられた花々の甘い香り。
ふと釣られるように外へと意識を飛ばせば、蘇るのは夢か幻のようなふわふわとした記憶。
シャルロッテはうっとりしたように頬杖をついて、あらぬ方向へ視線を飛ばす。
甘いバラの香りは、あの夜も漂っていた気がする。少し掠れたような、ハスキーな声だった……と思う。だってあの時は、色々なことが一気に起こったからよく覚えてないのだ。
でも、彼が口にした言葉はしっかり覚えている。
僕は、君にまた会いたいなーー
頼りになるようで、それでいて甘えてくるような不安定な口振り。彼が残した、そんな言葉の数々が胸を振るわせるのだ。
気がつけば、余韻に浸るように思い返している。もう、ずっと!
今だってほら、目の前に、ブロンドの髪を風で遊ばせて涼しげな目元に微笑を浮かべる青年が、はっきりと浮かんでくるようではないか。
「シャルロッテ様」
「……」
「シャルロッテ様?」
「……」
「シャルロッテ姫!」
「は、はいっ!」
大声で返事を返した瞬間、顎をのせた手がガクリと下がり、彼女の体は大げさなほど揺れ動いた。
昼寝から覚めた小さな子供のように、キョロキョロと慌てて周囲に注意を向ける。すると、目前に立ってこちらを見下ろしてくる人物と視線が絡み合い、全てを思い出してシャルロッテは青ざめた。
「心ここにあらずですな」
大臣グレファムが大きな眉毛を上げ、可愛らしいほどに小さな目を剥いて、ため息をつく姿が視界に入る。
「確かにわたくしの話はつまらないでしょうが……」
「ごめんなさい」
シャルロッテはシュンとなって、いつものように縮こまりながら謝った。
「……つまらないなんてことはないわ。あなたの話は、とても分かりやすいもの……」
グレファムはとても忙しい。王宮一と言っても過言ではないだろう。
彼が国王の片腕であることは周知の事実であるし、時に国王さえもしのぐ力を発揮して王の政を助けている。
グルセンにとっては必要不可欠な老人だ。
ましてや今は、シャルロッテの結婚問題という大事な事案を抱えている。
国王ギンダーよりも、はたまた当のシャルロッテ本人よりも、最もその問題に深く入り込み、対処に追われていた。
そんな彼は忙しい時間の合間に彼女の部屋を訪れ、グルセンの歴史について講義を開くという仕事もこなしていた。と言うのも、彼よりこの国に詳しい人物はいないためで、これは王からの直々の命であった。
直に夫を迎える立場にある者が、自国の歴史に疎いなど問題外であろう。
そんな対外的な理由から、シャルロッテは歴史の授業の他、行儀作法から帝王学といったものに至るまで、王の後継者としての学習のスケジュールが、今更ながらみっちりと組み込まれていたのだった。
彼女だとて重々承知している。今まで周りから、かなり大目に見てもらっていたことぐらい。
だが、一気に始められても身に付く筈がないではないか。ましてや彼女はみそっかすで……。
出来の悪い生徒は、教師達の怒涛のスパルタ教育にも、なかなか成果を出せずにいた。
そんな学習の時間において、グレファムの講義は他のものとは違い、穏やかな語り口で淡々と進めていくことが常であった。怒りを露にして質問責めで畳み掛け、シャルロッテをまごつかせるようなことはしない。彼の声はまるで子守唄か何かのように、耳に心地よく入ってくる。
お陰でついつい、彼女の思考は遠くへ飛んで行ってしまう。今は出会ったばかりの一人の男性で、頭の中があっという間に一杯になってしまうのだ。
勿論、誉められた態度ではないだろう。誰であっても、彼女の授業に臨む姿勢を咎めるのは当然と言える筈だ。
「姫、今日のご予定はご存知ですかな?」
グレファムはグルセンの歴史について語る口を一旦閉じると、全く違う話を彼女に振ってきた。
「今日? え、えっと……」
何故そんなことを聞いてくるのだろう。戸惑いながらもシャルロッテは考える。
今日は確か、花婿候補達と一緒に昼食を取り、その中の誰だかとそのあと会談とか、先ほど侍女長が告げていた気がする。上の空で聞いていたので自信はあまりないけれど。
「本日の姫のご予定は、最終候補である方々とご一緒に昼食を取られたのち、マイセン侯爵家のラズヴェル様とご会談。そののち、行儀作法のご学習をこなされて、夜はまだお決まりではありません」
まごまごとなかなか言い出さないシャルロッテに痺れを切らしたのか、代わりにグレファムがスラスラと答えを切り出した。
「そ、そうだったわね。ありがとう」
記憶に間違いはなかったようだ。相手の名前と学習時間は失念していたが粗方合っていたと言えよう。シャルロッテはホッと息を吐いた。
「つまり姫、わたくしが申し上げたいことをお分かり頂けますか?」
相も変わらず、老大臣は落ち着いた声を出す。だが、声の響きからは予想だに出来ないほどの、強い願いがその言葉には込められていた。
「な、何かしら……?」
グレファムの思いを敏感に感じ取って、シャルロッテは緊張した。
「つまり、姫にはあまり時間がないと言うことです」
「どういう意味?」
「グルセンに相応しい婿候補は、この度の夜会で粗方お招き致しました。他を当たるのは容易ではありません。姫は直に、答えを出さなければならなくなるでしょう。そして近い内に、婚姻を結ぶことになる筈です。それが陛下の、ひいてはこの国の民の願いなのです」
「わたしは……」
「ギンダー様は、あなたの御年にはご婚約を交わされておりました。王妃様はあなたの御年には、グルセンに嫁いでこられました」
「お母様が?」
「はい」
グレファムは目を閉じて感慨深げに息を吐く。
「今でも覚えておりますよ。お二人はとても似合いの、花婿と花嫁であらせられました。それはもう、ご立派なお姿でいらっしゃいましたよ」
シャルロッテは身を乗り出して、グレファムの次の一言を待った。父と母の、彼女の知らない結婚式が見えた気がした。もっと聞きたいと思う、二人の話を。
「ですから、姫ーー」
グレファムが表情を変えてシャルロッテに向き直る。どうやら再び説教に戻る気らしい。彼女はがっかりして肩を落とした。
「いかがされました?」
勘のよい老人は、シャルロッテの変化に敏感に反応した。
「ええ、あの……」
だが彼女は何も言えない。王以外の人間には、なかなか素直に甘えることが出来ない。たとえこの老大臣を好ましく感じていても、過去のある出来事が彼女にストップをかけるのだ。
「分かりました」
急にグレファムは大きな声を上げると、驚いて目を見開くシャルロッテに微笑みかけた。
「今日は時間まで、予定を変えて、王と王妃の馴れ初めでもお聞かせすることに致しましょう」
「えっ? ……いいの?」
「構いませんよ。ーーですが、覚悟をして下さいまし。かなり気色の悪い話ですからね、これは。一目惚れした他国の姫に、長文の恋文を何度も送りつけた青臭い子供の話など、聞きたくなかったと後で仰られても苦情は一切受付ませんから」
「……お父様が恋文を?」
シャルロッテの口元に、小さな笑みが広がっていく。父が母に恋文を送ったなど、勿論初耳だ。グレファムは彼女の笑顔に、真面目腐った顔で答えた。
「ええ、そうですとも。背筋も凍るような、それはそれは甘ったるい恋文でした」
「何の話をしている?」
その時いきなり大きな音と共に扉が開き、誰かがグレファムの話を遮って声をかけてきた。
「お父様!」
「陛下?」
何の前触れもなく、突然部屋へと押し入るように入って来たのは、赤い顔でムスッと剥れる国王ギンダーだった。
***
「まずいことになったぞ」
部屋へと戻って来た男は落ち着きもなく歩き回り、イライラとした手つきで首に巻いたシルクのリボンをほどいて投げ捨てる。
床に落ちたまま見捨てられたリボンを屈んで拾いながら、ミハエルは彼に問いかけた。
「まずいことって?」
男はミハエルを無視して、今度は金モールで装飾された派手な上着を脱ぎ捨て、自分はソファーへと崩れるように倒れ込んだ。
傍若無人なそんな態度に慣れているのか、ミハエルは問い返したりはしない。彼は投げ捨てられた上着を拾うと埃を払って、リボンと一緒に片付けるためクローゼットの扉を開けた。
「王に姫との茶会へ招待された」
ミハエルの背中に、男が吐き捨てるように言葉を投げつける。彼は振り向いて笑った。
「よかったじゃないか。あんたの夢へ、一歩近づいた」
「何がいいもんか。王も同席するつもりだろう。いや、王だけじゃない。あのグレファムとかいう、食えない大臣もきっと来る」
男は落ち着きもなくソファーを殴り付けて暴れ回っている。癇癪を起こして騒ぐ男を、ミハエルは静かに見守っていた。
「お前のせいだぞ」
突然男が動くのをやめ、彼に憤りをぶつけてきた。
「だいたいお前が、やり過ぎたせいなんだ。もっとさりげなく、目立たないよう姫に近づけばいいのに、グイグイと押し付けがましく取り入りやがって。ーーどうする気だ? いきなり王や大臣連れた茶会に引っ張り込まれるなど、全くもって予定外だ」
「僕のせいか……」
ポツリと漏らした呟きを聞き咎めて、男は彼を睨み付ける。
「ああ、お前のせいだ。王や大臣と一緒の茶会など、今はまだ無理だろう? なんたって姫と王では、出会った人間が別人なんだからな」
心を掴めと言ったり、やり過ぎだと言ったり、注文の多い男だ。
荒い息を吐いて怒鳴り回す男に、ミハエルは小さくため息をこぼした。
「……だったら初めから、あんたが姫に会えばよかったんだ」
「何だと?」
「僕ではなくあんた自身が、姫に話しかけたらよかったんじゃないのか?」
男はいきり立つよう立ち上がると、目を剥いて捲し立ててきた。
「何だとお前、僕を馬鹿にしてるのか? 自分が少しばかり女共にチヤホヤされてるからと言って、僕を陰で笑っているんだろう」
「違う、……そうじゃない」
ミハエルは反論するが、火を吹くようにがなり声を上げる男には届かない。
「そうじゃない、そうじゃなくてーー」
彼は夜会の時のシャルロッテを思い出す。冷ややかな目をした男達に囲まれ、怯えながらも必死で彼らの相手をしていた少女を。冷たい暴言に一人泣いて、逃げるように走り去って行く姿を。
「僕でなくてもよかったんだ。あの日、彼女に優しい声をかける奴がいたら、誰でも、そうさきっとあんたでも、あの娘は簡単に落ちていた……」
だが誰もそうしなかった。だからシャルロッテは、ミハエルを唯一の存在だと勘違いしてしまっただけ。それだけなのである。
「う、うるさい、うるさい! 御託はいいんだ」
言葉を切ったミハエルを、男は憎々しげに見据えて叫んだ。
「お前のいい加減な持論など必要ない! それよりこの落とし前をどうつける気だ? 分かっていないようだが、お前が何とかするしかないんだぞ。いいか覚えておけ、失敗は許さない」
男の抑えつけるような命令調の話し方は、今に始まったことではない。ミハエルは彼に気取らせぬよう息を吐くと、笑顔を作る。
「分かってるよ」
彼はにこやかに、焦る男に微笑みかけた。
「任せてよ。僕にいい考えがある。大丈夫だから」




