第十三話 企み
「あなたは誰?」
舐めまわすような視線を向けてくる男に、シャルロッテは消え入りそうな声ではあったが、精一杯に立ち向かった。
しかし、足は重石でも乗せたように床に沈み込み、男の側を離れることすら出来ない。急速に爪の先からは血の気が失せていき、体中が恐ろしく冷えていく。まるで氷のように冷たくなった手足は、今にも震え出しそうであった。
知らない他人と二人きりでいる。そのような事態に巻き込まれた経験など当然ない。
不安に怯えるシャルロッテの弱々しい問いかけに、横に立つ男は鼻で笑って馬鹿にする。
「どうやら姫は、噂に違わぬ間抜けのようだ」
男の嘲るような囁きを聞いた途端、口元を隠すように添えた指が恐怖に耐えきれず、小刻みに震え始めた。
「あ、あの……」
「僕は先ほどミハエルだと名乗った筈ですが、あなたはもしかしたら、言葉も理解出来ないのかな」
「あ、あなたはミハエル様じゃない。わたしの知っているミハエル様はもっと……」
混乱したシャルロッテが怯みながらも食い下がると、男はさもおかしそうに笑い出した。
「確かに僕は、君の知るミハエルではない。やれやれやはり、一から説明しなくちゃいけないのか」
盛大なため息を吐いて男がぼやく。
しかし言葉とは裏腹に、男の瞳は生き生きと輝いていた。
「いいかい、シャルロッテ姫。この度の夜会は君の夫を探すためのものだった。それはいかに君だとて、さすがに理解しているだろう」
男は大げさに大きな声を出すと、彼女の背中を横切り反対側に回って、再び顔を突き出してきた。
からかうようなその態度に、更にビクつくシャルロッテを見てヒヒヒと下品に顔を崩して笑う。
「だが君は魅力のない、外れ姫だ。夜会だけでは相手など見つかりはしない。事実招待客は誰もが、君という花嫁に落胆していた。そうだったよね、覚えてる?」
鋭利な言葉が柔らかな心臓を切り裂いていく。少しは強くなれたと思っていたのに、剥き出しの悪意の前では為すすべもないらしい。
「このままでは婿取りも失敗するだろう。それは目も当てられない結果だ。そこでだーー」
男はシャルロッテの青い顔を見下ろして片目を瞑った。
「僕が君の婿になってやろうと思ったんだよ」
「ええっ?」
彼女は驚愕して目を見開く。
この男は本気で言ってるのだろうか。散々馬鹿にした彼女の花婿になるなど、到底信じられない内容である。
彼女の眼前に男は鼻先を近づけ、不遜な表情で続けた。
「おっと、誤解しないでくれよ。僕だって君のようなチンケな小娘には興味ない。喜んで婿になる訳じゃないんだからな」
「……意味が、分かりません……」
シャルロッテを侮辱する言葉を平気で投げつけてくる男に、彼女は頬を強張らせる。
男の言い分は全く理解出来なかった。
心底シャルロッテを蔑んでいるくせに、夫になると宣言しているなんて。
「分からないだと? こんな簡単なことが?」
男は額に手を当てると頭を大きく横に振って、仰々しく嘆いてみせた。出来の悪い生徒を前に苦悩する、教師のように勿体ぶった仕草だった。
「花婿を探している君のために、僕がその役目を担ってやろうと言ってるんだよ。分かったかね、愚鈍なシャルロッテ姫」
「分かりません。どうしてわたしとあなたが、夫婦にならなくてはいけないんですか? ーー愛情の欠片もないのに」
シャルロッテが反射的に返した疑問に、男は驚嘆して噴き出す。
「愛情? 愛情だって? なんてこった。全くとんだお姫様だよ。愛情がないから結婚出来ないとでも、君は言うのかい?」
男は高笑いをした挙げ句、侮蔑混じりの視線をぶつけて歯を見せた。
「グルセンの姫としての結婚の意義さえ、まるで理解していないお子様だ。あのね、教えてあげる。君の結婚には愛情なんて必要ない」
「そんな……」
「僕達はうまくやっていけるさ」
シャルロッテの髪を一房すくい上げ、口づけをするかのごとく男は口元に押し当てる。ニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしてくる濁った瞳に、背筋を虫が這うような不快感に襲われ彼女は戦慄した。
「君は君で好きなようにすればいい。僕は僕で好きにするから。お互いの利害が一致してる、最高の関係だ」
「離して……下さいっ」
「持ちつ持たれつだよ。素敵だろう、シャルロッテ姫」
「いや、いやっ! 離して」
いつしか窓際へと追いつめられて、シャルロッテは夢中で叫んだ。男の重みで背中に当たるガラス窓が、みしみしと鈍い音を立てる。何をされるか分からない、初めて感じる恐怖に体が竦み上がっていた。
「嫌、離して! 助けて誰かーーミハエル様!」
「いい加減にやめろよ、公子様。嫌がる女性にみっともない」
突然、シャルロッテの悲鳴を受けるように、扉が開いて誰かが入って来た。
驚くシャルロッテと男の視線の先に、一人の青年が立っている。
彼は焦ったように扉を閉めると急ぎ足で近づいて来た。
長い黒髪を無造作に後ろで束ね、紺の地味なお仕着せを着ている。整った鼻筋に優しげな褐色の瞳。まるで初めて会ったとは思えないが、どこかで見たような気がするのは何故だろう。
「あんたやりすぎだよ。姫を不用意に怖がらせることないだろう」
男は不機嫌そうに顔を上げ青年を睨みつけると逆上した。
「お前こそ、誰の許しを得て入って来た? 僕は外で番をしとけと言ってた筈だが。それに何だ、怖がらせるなって? このお姫様のナイトにでもなったつもりなのか?」
「落ち着けよ。そういう訳じゃない。だけど、このままじゃ……」
青年が瞳を曇らせて彼女に一瞬視線を投げる。その眼差しは、彼女のよく知る人物に違いなかった。
まさかーー?
「ミハエル様?」
シャルロッテの呼びかけに青年は振り向いた。それから慌てて顔を背ける。
「やっぱり、ミハエル様なの……?」
酷く顔色が悪い。光り輝くようないつもの彼とは違いすぎる。それに頭髪がどういう訳か黒色だ。彼の不思議な容貌に疑問が沢山浮かんでくる。
だがシャルロッテが彼を見間違う筈がない。
「どうして、そんなお姿で……」
彼女の質問に青年は自分の髪に手をやった。力が抜けたような渇いた笑いを口元に浮かべている。
「これは……」
「簡単なことだよ。こっちがこいつの本当の姿ってことさ」
その時いきなり背後から伸びてきた手が、ミハエルの肩を掴んで髪の毛を引っ張った。そろそろ見慣れてきた薄汚い笑みを貼り付け、男は彼の肩口から面白そうに顔を覗かせている。
「君がサフランの公子ミハエルだと信じていた男は真っ赤な偽物で、君を誘惑するよう僕に命令されて、渋々動いていたこの男だったんだ」
「嘘……!」
取り乱したシャルロッテは、虚ろな表情のミハエルと見つめ合った。彼は唇を噛み締めたまま何も話してくれない。彼女の望む言葉は返してくれそうもなかった。
「嘘じゃないよ。君が今この場にいるのが何よりの証拠だろ。こいつは君を騙してたんだよ。君はこいつにまんまと誑かされたのさ」
「よせよ、もういいだろ」
ミハエルが男に食ってかかる。彼は肩にかかる男の腕を振り落として、シャルロッテの前に立ちはだかった。
彼女の目からは彼の背中しか見えなくなった。男の姿はその背にすっぽりと隠れてしまっている。
不意をつかれてバランスを崩した男は、みっともなく尻餅をついてしまった。反撃してきたミハエルに面食らったらしく、しばし茫然としたのち目を剥いてきた。
「何をしてる、そこをどけ」
「少し冷静になれよ、公子様」
「うるさい!」
男はミハエルの着ている地味な紺の上着の襟に手をかけ、彼の喉元を力任せに絞め上げた。
「お前のような半端者が僕に手を出して、ただで済むと思うなよ」
怒りに震える男は、目を血走らせてミハエルの喉を絞めている。苦しげな声を出すミハエルだが、それでもたいして抵抗もせず男の暴力に耐えていた。
「やめて、何をしているんですか」
シャルロッテが思わず駆け寄って止めに入ると、男は狂気に満ちた目で見返してきた。
「おやおや、驚いたね。シャルロッテ姫はこの男がよっぽどお好きと見える。裏切られていたと言うのにお優しい方だ」
毒のある言葉にシャルロッテの顔から一気に熱が引いた。
「あなたが悪いんじゃない。彼はあなたに言われて仕方なく……」
見たところミハエルは、この男の従者と思われる。きっとミハエルは主の言うことに逆らえなかっただけだろう。全ては、彼に命令を下したこの男にこそ、非があるのだ。
つい先ほどだってミハエルは、男の前に立ちふさがり、歪な視線の持ち主から彼女をさりげなく匿ってくれていた。
間違えてはいけない。本当に忌むべき人間はこの男で、彼ではないのだ。
「かわいそうなシャルロッテ姫。何にも知らないで純粋にこいつを信じて」
男はシャルロッテの決意を嘲笑うように唇を歪めた。
「君に本当のことを教えてあげる。あのね、この男は僕に言われたから、こんなことをしでかした訳じゃない。勿論それも理由の一つだけど、もっと根深いものが他にあるんだ」
「やめ……ろ」
ミハエルが男の手を振りほどき、必死の形相で叫んだ。無理やり声を出して激しく咳き込む彼を、男は薄く笑って眺めている。
男はシャルロッテに近寄ると、彼女の耳元で嬉しそうに囁いた。
「こいつは君のことなんか何とも思ってないから、いたいけな君を騙すなんて酷い仕打ちが出来たのさ」
男の言うことが理解出来ず、彼女はポカンと聞き入った。
「えっ?」
そんな彼女の反応に男は満足そうに目を細める。
いや違うなーー、男は首を傾げて笑った。
「むしろ君のようなお姫様を憎んでいたからこそ、こんな無慈悲なことが出来たんだ」
うなだれて床に倒れ込むシャルロッテの目に、同じように崩れ落ちるミハエルが映った。
男はいつしか笑いが収まらなくなっており、狂ったように騒々しい不協和音を奏でていた。
押し黙る二人の上を、甲高い声が重くのしかかって充満していく。
突然、大きな音がして、開け放たれた扉から、宮殿の兵が飛び込んで来た。
異様な雰囲気の漂う室内に兵は一瞬躊躇するものの、しゃがみ込むシャルロッテに気がつくと足早に近寄り助け起こす。兵に気分を聞かれても、彼女には答える力が僅かにすら残っていなかった。
別の兵が、笑い続ける男を取り押さえて縛り上げる。
だが男は、我が身に起こった事態にもまるで気がついてないかのように、いつまでも笑っていた。
シャルロッテが最後に目にした光景は、男と共に兵に連れて行かれる、肩を落としたミハエルの後ろ姿だった。




