第3話 逆さに結んだガラスの雨粒とペク・ユラの依頼
扉を開けて入ってきたのは、意外にも二人だった。
先に立って入ってきたのは、昨日俺に銀貨五枚を差し出して黒い雲の傘(No.017)を修繕していった十五歳の伝令の少年、シオンだった。
そして少年のすぐ一歩後ろから、よく鍛えられた長剣を腰に佩いた二十五歳ほどの女剣士——3層の登攀者たちの間で「白銀の剣」と呼ばれるペク・ユラ——が、濡れた外套の襟を払いながら店の中へ入ってきた。
ペク・ユラは店の中に立ちこめる埃の匂いと古いがらくたの山を警戒のこもった眼差しで見回してから、シオンの肩を軽く掴んだ。
「シオン、ここがあなたの言っていた古道具屋? 14層の酸の豪雨を一滴も浴びずに通り抜けた傘を、たった銀貨五枚で直してくれたっていう店が?」
「はい、ユラ姉さん。あそこにいる店主さんが直してくれたんです」
シオンは息を弾ませながら、両手で大事に包み持っていた黒い傘を、俺の作業台の上にそっと置いた。
「店主さん、言われたとおり、傘は本当に無事でした! 14層の南回廊で酸の雨が逆さに降りしきってるのに、この傘の下だけは雨が避けていったんです。でも……降りてくる途中で柄の先の結び目を見たら、何か変なものが結んでいて」
俺は黙って傘を引き寄せ、開いてみた。
俺が昨日、銀糸を九度交差させて縫っておいた黒雲の継ぎ当ての九つ目の結び目の先に、爪の半分ほどの大きさの、透明で赤いガラス玉のような雫がひとつ、ぶら下がっていた。
単なる雨水ではなかった。
傘の銀糸の排水溝が14層の回廊を漂っていた高濃度の深淵の魔気とぶつかり、その層の空気を一滴の結晶に凝縮して凍らせてしまったものだった。そしてその赤い結晶の内側には、まるで毎分65回ほどでゆっくりと脈打つような、暗い影が揺らめいていた。
俺の左手の木綿の布の下の古い傷跡が、冷ややかに脈打った。
昨日シオンが14層の回廊を通ったとき、その層に留まっている「何か」と、ごく近い距離で擦れ違ったということだった。
「店主さん、これ、毒じゃないんですか? 触っても大丈夫なんですか?」
シオンが心配そうに訊くので、俺はピンセットで結び目の先に結んだ赤いガラスの雫を軽く摘み取り、空のガラス瓶の中に入れた。
コロコロ——カチン。
驚いたことに、空き瓶の底に落ちた赤いガラスの雫は底に沈まず、瓶の蓋のほうへ逆さに浮かび上がって止まった。
その光景を見守っていたペク・ユラの瞳が、鋭く細くなった。
彼女は腰の剣の柄に手を置いたまま、作業台の前へ一歩踏み出した。
「……いまの結晶、14層・沈黙の大聖堂の外郭でしか見つからない高位汚染結晶ですね。1層の隅で廃棄物を拾っている修繕屋が、どうして14層の逆流魔気を濾す銀糸の結び方を知っているんです?」
ペク・ユラの声には、上層ギルドの精鋭隊員特有の、冷ややかな尋問の調子が滲んでいた。
だが俺は驚く素振りも見せず、修繕を終えたばかりの銀の懐中時計(No.018)を、彼女の目の前の作業台の上へ、とん、と押しやった。
「その質問をする前に、この時計の裏の紋章からお確かめください、白銀の黎明のギルド員殿」
ペク・ユラの視線が銀の懐中時計に触れた瞬間、彼女の呼吸が止まった。
半ば削り取られた「白銀の黎明」偵察班の紋章。そして時計の隅に刻まれた小さなイニシャル。
「……これ、一年前18層の進入路で行方不明になった、うちの先発隊副隊長の時計です! これをどこで……!」
「今朝方、廃棄物落下口で拾いました。もともと付いていた三秒回帰のぜんまいは、持ち主が死ぬ直前に巻き戻しすぎて焼き切れていました。代わりに、攻撃が飛んでくる三秒前に時針が先に震える予報ぜんまいに付け替えておきました」
俺は静かに台帳を閉じながら、ペク・ユラを見上げた。
「修繕代は銀貨六枚です。もしその時計がなぜ18層ではなく14層の酸性霧をかぶったまま落ちてきたのか知りたいのなら、白銀の黎明ギルドが持っている『14層大聖堂の最近の審問記録』の写し一枚を、修繕代の代わりに出していただいても結構です」
ペク・ユラが震える手で銀の懐中時計を取り上げると、時針が彼女の脈に合わせて、ヴゥン——と短く共鳴した。
彼女は唇を固く噛むと、俺を見る眼差しから傲慢さを消し、深く頭を下げた。
(『塔にただ一軒の古道具屋』第3話 了)
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