第28話 煮え立つ蒸気を閉じ込める真鍮の潜水鏡 (No.039)
二十二日目の朝、二十層・中立市場の石畳の上に、上層の水圧区画から下りてきた温かく湿った霧が低く垂れ込めた。十四層の審問官一行が、修復された左利きの細剣(No.031)を佩いて上層の昇降場へ発ったあと、俺たちの天幕の店先には、また普段どおりの炭火の匂いと、茶の湯の沸く音が戻ってきた。
俺は移動式修繕背嚢(No.035)から取り出した真鍮のこてと音叉ばさみを、絨毯の上に並べながら、黒い木綿の布を巻いた左手首を軽く揉んだ。二十年前、九十九層の首席調律師の工房を捨てて下りてきてから止まっていた俺の体の時間は、再び二十層の空気を吸うやいなや、間違いなく動き出していた。作業台の隅の手鏡の中では、ここ数日のうちに新しく生えた白髪が数本、灯りの光を受けて銀糸のようにきらめいていた。
「店主さん、一層の補給所へ下りていった定期連絡便から、最初の返事が上がってきましたよ!」
シオンは父の黒い傘(No.017)を天幕の柱に立てかけると、羊皮紙の紙切れを一枚手に、はしゃぎながら駆けてきた。
「カン爺さんが、一層の看板灯(No.032)は毎晩油をなみなみと満たして点けてあるから、心配するなって。ハルも店主さんの作業台の座布団の上で、ご飯をよく食べてよく寝てるそうです! あ、それと、店主さんが大事にしてた茶葉の缶はもう爺さんが半分淹れちゃったから、あんまり悔しがらないでって、必ず伝えてくれって言われました。」
「あの爺さん、人の店の留守番をしてくれてるのやら、食い荒らしてるのやら、わかったもんじゃないな。」
俺があきれて失笑を漏らすと、天幕の入口で長剣の手入れをしていたペク・ユラが、口の端をわずかに上げて言い添えた。
「一層の路地がしっかり回っているのなら何よりです。それにしても、今朝から二十四層の水門区画から下りてくる商団の人たちの表情が、ただごとではありませんね。上層の水門監察官のほうで、夜のうちに猟犬たちを放って水門の統制を始めたという噂が流れています。」
ペク・ユラの言葉が終わらぬうちに、天幕の軒下へ、重い鉛底の長靴を履いた老人が一人、足を引きずりながら入ってきた。二十四層の高圧蒸気水門で働く、年老いた潜水夫だった。塩気と油の染みた革の防水服を着たその老人は、両手で分厚い革の風呂敷に包まれた品をひとつ、作業台の上にそっと置いた。
「ここは……一層から上ってきたという修繕屋さんで、間違いないかね? どんな物でも手を触れれば壊れたわけがわかると聞いて、訪ねてきたんじゃが。」
老潜水夫が風呂敷を解くと、大人の拳二つほどもある、ずしりと重い真鍮の潜水鏡(No.039)がひとつ姿を現した。分厚い真鍮の縁に二重の石英ガラスをはめ込んだ、旧式の水圧装備だった。ところが奇妙なことに、右のレンズは澄みきっているのに対し、左の石英レンズの内側では、黒ずんだ赤の煤と油の滴が絡み合い、煮え立つように微細な気泡を吹き出していた。
「1年前、四十層の遠征があった夜に、二十四層の後方補給線の水門の底から引き上げた、仲間の形見じゃよ。」
老潜水夫はごつごつした手の甲で乾いた顔をこすり、低くため息をついた。
「あの夜、水門が上から突然閉じられたせいで、後続の補給船が一隻、丸ごと煮えたぎる蒸気水路に水葬されてしもうた。生き残ったわしは、底に沈んでいたこの真鍮の潜水鏡(No.039)ひとつだけをやっとの思いで拾い上げて、枕元に置いて暮らしておったんじゃが、数日前から、この左側のガラスの内側から、やたらと熱い酸の湯気が漏れ出してきてな。ガラスを丸ごと取り替えたら、あいつが最後に見た光景まで消えてしまいそうで、とても他の鍛冶屋には預けられんかったんじゃ。」
俺は丸い真鍮縁の拡大眼鏡をかけ直し、潜水鏡(No.039)を作業台の真ん中へ引き寄せた。
「記憶には触れず、漏れ出る蒸気だけを鎮めてほしい、というお話ですね。ひとまず拝見します。」
俺は右手で潜水鏡の真鍮の蝶番を押さえたうえで、黒い木綿の布を巻いた左手の人差し指と中指を、左の石英レンズのひびの上にそっと載せた。
ビリリッ――!
指先がガラスに触れるやいなや、左手の黒い木綿の布越しに、煮え立つ水蒸気の圧力とともに、1年前の遠征の夜に水門の底に閉じ込められた最後の記憶が、どっと押し寄せてきた。
視界はいちめん白く濁った水蒸気と、赤い非常灯の光で満たされていた。潜水鏡をかけた補給兵が、せり上がってくる熱い黒い水の中で、水門の上の監視窓に向かって必死に両手を伸ばし、ガラスを叩いていた。
『開けてください、ローガン監察官殿! まだ船の中に補給兵が二十四人残っています!』
ところが、分厚い監視窓の向こうに立っていた太った男――袖に二十四層水門監察官の金糸の標を付けたローガンは、片手に白の聖女の密命書と金貨の袋を握ったまま、冷ややかに笑い、水門の閉鎖レバーを最後まで引き下ろしてしまった。同時にローガンの部下たちが、まだ沈みきっていない貨物室から、九十九層の調律記号が刻まれた鉛の箱と遠征隊の聖遺物箱を鉤で引き上げ、二十七層行きの密輸のはしけに積み込む様子が、潜水鏡の左のレンズにありありと映っていた。
記憶の終わり際、潜水鏡をかけた兵士の息が絶える瞬間、無念と怒りが煮え立つ酸の蒸気と絡み合い、左の石英レンズの隙間に封じ込められたのだった。
「くっ……!」
記憶から抜け出した瞬間、潜水鏡(No.039)の左の真鍮の縁の継ぎ目が膨張し、その中に閉じ込められていた高圧の酸の蒸気が一筋、針のように噴き出した。黒い木綿の布で包んだ左手ではなく、潜水鏡の本体をつかんでいた俺の素手である右手の、手首の内側の皮膚を、熱い酸の湯気が鋭くかすめていった。
ジュッ――!
皮膚の焼ける音とともに、右手首に赤い水ぶくれが一気に膨れ上がった。感覚の鈍い左手と違い、ごく普通の人間の皮膚である右手から立ちのぼる生々しい火傷の痛みに、俺の眉間は思わずしわを寄せた。
「ソドさん!」
俺の隣で作業の様子を見守っていたペク・ユラが、誰よりも素早く動いた。彼女は、俺の手から真鍮の潜水鏡(No.039)が落ちないよう片手で支え押さえると同時に、もう一方の手で、火傷を負った俺の右手首をしっかりとつかみ、作業台の下の冷たい薬水の盥の中へそのまま浸けた。
冷たい水流が、膨れ上がった手首の皮膚を包み込んだ。水の中でも俺の右手首を放さないペク・ユラの指先から、ひんやりと硬い剣士の気配が伝わってきた。
「左手だけをお使いくださいとあれほど申し上げたのに、また素手の右手で毒気をお受けになりましたね。」
ペク・ユラが水の中で俺の手首の脈を探りながら、普段らしからぬ低く咎めるような声で言った。彼女のひんやりした手のひらが、俺の熱い手首の皮膚に密着したままぴくりとも動かずにいると、ひりひりしていた痛みの代わりに、妙にこそばゆく重たい緊張感が、腕を伝って上ってきた。
「潜水鏡のガラスが割れれば、お客さんが預けた記憶まで飛んでしまいかねず、手を離せなかったんです。この程度の水ぶくれは、すぐ引きます。」
「引くものですか。シオン、行嚢の二番目の仕切りから、火傷の膏薬と清潔なガーゼを出してきなさい!」
「はい、ユラ姉さん! 今すぐ!」
シオンは大騒ぎしながら修繕行嚢(No.035)をがさごそと探って、膏薬の壺を持ってきた。ペク・ユラは俺の右手首を水から出し、乾いた布でぽんぽんと水気を拭き取ると、自らの手で冷たい軟膏を塗り、白いガーゼで手首をしっかりと巻いて結んでくれた。そして向かい側でどうしていいかわからず立ち尽くしている老潜水夫に、きっぱりとした眼差しを送った。
「お客様、ご覧のとおり、うちの店主がレンズの内側の怨みの混じった酸の蒸気を、肌で直に受けながら抜き取りました。基本の修繕代の銀貨五枚に、火傷の薬代の銀貨二枚を加えて、七枚はお支払いいただきます。」
「あ、ああ、もちろんじゃとも! ガラスを割らずにあの毒の湯気を抜いてくださったんじゃ、銀貨七枚など安いもんじゃ!」
老潜水夫はしきりにうなずきながら、懐から銀貨七枚を取り出して置いた。俺はガーゼの巻かれた右手で小さな音叉ばさみを握り直し、潜水鏡(No.039)の左レンズの外側に、薄く透明な雲母石の板を一枚当てて、銀糸の結び目で丁寧に封じた。
「できました。内側に宿ったあの夜の煤と記憶はそのまま残してあります。外側に雲母石の窓を当てて、もう酸の湯気が漏れ出さないよう塞ぎました。これで枕元に置かれても、お怪我をなさることはないでしょう。」
「ありがとう、本当にありがとう……! あの夜、水門を閉めてわしらの補給船を水葬にした野郎が、今も二十四層でいい暮らしをしておるんじゃ。この潜水鏡(No.039)に残った目だけでも、しっかり残しておかねば、あの世であいつの顔を見られんじゃろうが。」
老潜水夫が修繕された潜水鏡(No.039)を胸に抱いて天幕を出たのは、日が中天を過ぎた午後のころだった。
俺は修繕台帳を開き、三十九番目の欄に『No.039 煮え立つ蒸気を閉じ込める真鍮の潜水鏡――雲母石による二重封印の修繕完了、24層水門監察官による遠征補給船の水葬および聖遺物横領の痕跡を確認』と、一字一字はっきりと書き入れた。
ちょうどそのとき、市場の階段の上、二十四層直通の昇降場の方角から、騒々しいざわめきが風に乗って下りてきた。市場を行き交っていた商団の護衛兵たちが、それぞれ槍の柄を握り直しながら、ひそひそと話し合っていた。
『聞いたか? たった今、二十四層の水門監察官の執務室がやられたってよ! 猟犬が四頭、一太刀で凍え死んで、ローガン監察官は自分の潜水鐘の中に閉じ込められて生け捕りだそうだ!』
『おまけに金庫の扉には、十四層の処刑人の名前が入った押収の受領書まで突き刺さってたって話だぜ!』
ペク・ユラとシオンが同時に顔を上げ、俺の顔を見た。俺はガーゼの巻かれた右手で茶碗を持ち上げ、ひと口すすって、口元に薄い笑みを浮かべた。
「いま帰ったお客さんの友人は、あの世で長く待たずに済みそうだな。」
(『塔にただ一軒の古道具屋』第28話 了)
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