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第27話 九つ目の結び目に届いた安否

「十三層に……行っていらしたんですか?」


少年シオンの声は小さかったが、天幕の中の誰一人としてその言葉を聞き流しはしなかった。俺は止めようかとも思ったが、シオンが両手でぎゅっと握りしめている黒い傘(No.017)の九つ目の結び目を見て、黙って手を引っ込めた。一層の店で、霜が育つ白いボタン(No.023)を封印した日、その九つ目の結び目にひびが入り、白い雨合羽が立っていた場所の記憶が消えてしまったのだった。その後もシオンは、毎朝その結び目を拭きながら、父親の歩いていった方向を問うていた。


左の腰に新しく直した細剣(No.031)を佩いた審問官ルカン・ヘイルが、ゆっくりと身を返して少年と向き合った。


「十三層の水没都市の、内側の封印門の前まで降りていました」


「そこで……群青色のマントを羽織った騎士を見ませんでしたか? うちの父さん、遠征隊の群青色のマントの裾に、小さな銀糸の結び目を付けていたんです」


ルカンの銀色の瞳が、揺らぐことなく少年に向けられた。


「内側の封印門の欄干の前で見ました。水流に呑まれたり、背を向けたりした姿ではありませんでしたよ。群青色のマントの裾が裂けたままでも、最後まで上の階へ向かう階段の正面を見据え、剣の柄を握って立っていました」


その言葉が落ちるやいなや、シオンが胸に抱いていた傘(No.017)の九つ目の結び目から、ごく淡く温かなぬくもりが一度、立ちのぼった。作業台の向こうに座る俺の左手の指先にも、木綿の布を突き抜けて、その微かな震えが伝わってきた。白いボタン(No.023)が消し去った恐怖の空白の向こうで、父親がついに背を向けなかったという事実がひとつ、傘の竹の骨をもう一度しっかりと結び直してくれるかのようだった。


「父さんは……前を向いて立っていたんですね」


シオンが鼻の先を赤くしながらうなずいた。少年の目元に溜まっていた涙が、傘の持ち手の上にぽつりと落ちた。


「教えてくださって、ありがとうございます。おじさんの剣、どうか折れないで、長く長く使ってもらえたら嬉しいです」


「ありがとう。大切に使わせてもらおう」


ルカンが少年に短く会釈を返した。俺もまた、真鍮の拡大鏡の眼鏡越しに、黙って頭を下げて挨拶の代わりとした。


まさにその瞬間、床に立てかけておいた盾兵の長剣の鍔が低く震えた。市場の北の入口から、四十層の追跡班と猟犬たちの足音が近づいていた。ルカンの一行は、俺の露店とペク・ユラに累が及ばないよう、ためらうことなく裏路地の霧の中へ身を隠した。


彼らが抜け出してから五分と経たないうちに、銀の肩章をつけた二十層の城門巡察官が二人、俺の露店の天幕を荒々しくはね上げて踏み込んできた。


「修繕屋! たった今、この路地を、黒い外套を羽織った左利きの男と、男女の連れが通らなかったか? 十四層から上がってきたお尋ね者どもだ!」


俺は眉ひとつ動かさず、作業台の右の引き出しから、白銀の黎明ギルドが発行した『20層 修繕露店許可札』と、宵の口に城壁巡察隊員が預けていった壊れた懐中時計をひとつ取り出して、台の上に置いた。


『No.038――針が逆に回る二十層の巡察懐中時計。』


「お客さんと言えば、先ほど夕方の交代前に、この懐中時計(No.038)のゼンマイを直しに来た城門巡察隊の方が最後でしたが」


俺は黒い木綿の布を巻いた左手の指先を、懐中時計の蓋に載せた。時計の中には、霧のかかった城壁の上で足音に驚いて後ずさり、ゼンマイを逆向きに巻いてしまった巡察隊員の、うろたえた息づかいが絡みついていた。俺は素手の右手のピンセットで、逆回転する歯車の掛け爪を軽く外してやりながら、巡察官たちに文字盤を掲げて見せた。


「ご覧のとおり、秒針が逆に回るものですから、ゼンマイの張力を取り直すのに手一杯で、天幕の外を見る暇がありませんでした。それに、ここは白銀の黎明ギルドが保証する中立の工房区域です。正式な捜索令状がないのでしたら、灯りの前をどいていただけますか。歯車がとても小さいので、影になると見えなくなりますので」


俺がピンセットの先で時計のゼンマイを弾き、中立市場の銅の許可札をさりげなく照らしてみせると、巡察官たちはギルドの紋章と自分たちの同僚の懐中時計を確かめ、舌打ちをして、北の廃水礼拝堂の方へと足を向けた。客の戦いを代わりに引き受けはしないが、俺の露店を訪れた客の足跡を売ることもしない。それが、一層の頃から守ってきた俺の決まりだった。


「店主さん、さっきのしらばっくれ方、本当に自然でしたよ」


シオンが胸をなで下ろしながらつぶやいた。ペク・ユラも苦笑いを浮かべて、天幕の入口の垂れ幕をもう一度下ろしてくれた。


「審問官のご一行は、北の廃水礼拝堂を抜けて、二十一層の階段へ出られたはずです。ここから先は、あの方たちの務めでしょう」


巡察官たちの鉄製の軍靴の音が、北の路地の霧の向こうへ完全に遠ざかると、俺はようやく、作業台の上に置いておいた二十層の巡察懐中時計(No.038)の裏蓋を、もう一度開けた。


「嘘でごまかしたわけじゃないから、気が咎めることはない。実際にゼンマイが逆に巻かれていたんだ」


俺は右手の細いピンセットで、時計の内側の逆回転する歯車を持ち上げた。城壁の上で霧の中を通り過ぎていくルカンの一行の冷ややかな気配に驚いて後ずさり、時計の竜頭を反対の方向にひねってしまった若い巡察隊員の短い息づかいが、歯車の歯のあいだに挟まっていた。


俺はその恐れの記憶には触れず、右手のルーペのレンズ越しに、折れた真鍮の止め金をそっとつまみ出した。移動式修繕背嚢(No.035)の部品箱から寸法のぴったり合う新しい真鍮の止め金を選んではめ込み、歯車の軸の先に、精製した時計油を針の先で半滴だけ取って塗った。乾いた真鍮の歯が油気を含んでなめらかに噛み合う感触が、ピンセットを握る右手の指先を伝って、心地よく届いてきた。ゼンマイの張力が元の場所に収まると、止まっていた秒針が再び正しい向きに、力強く時を刻みはじめた。


カチ、コチ、カチ、コチ。


一層の店にいた頃は、止まった時計や壊れた遺品を直しても、俺の時間はいつも淀んだ水のようにその場に留まっていた。だが二十層へ上がり、中立市場に灯りをともし、十四層の審問官と向かい合って座り、刃を打ち出してやり、シオンが父親の最後の後ろ姿を伝え聞くこの夜に至っては、時計の秒針が動く音のひとつひとつが、俺の脈のようにくっきりと肌に響いた。


「店主さん」


シオンが傘(No.017)の九つ目の結び目を胸にぎゅっと抱いたまま、作業台の脇の椅子に並んで腰かけた。


「一層の店で、あの白いボタン(No.023)のせいで傘の記憶が真っ白に消えたときは、本当は、ちょっと怖かったです。父さんが最後にどこを見ていたのか、永遠にわからなくなるんじゃないかって」


少年の声は静かだったが、以前のように震えてはいなかった。


「でも、さっきあの審問官のおじさんが言ってくれたじゃないですか。父さんは逃げずに、上の階への階段の正面を見て立っていたって。ボタンが消したのは、あの日の怖い雨音だけだったんですね。父さんが歩いていった方向は、もう忘れないでいられます」


俺は黙って右手を伸ばし、シオンの髪を軽くなでてやった。記憶を読む左手ではなく、ごく普通のぬくもりが残っている右手だった。


「ああ。物に残った記憶はいつか擦り減って消えても、生きている人が掛けてくれた言葉は、そう簡単には消えないものだ」


ペク・ユラも、天幕の片隅で青白く光る副隊長の白銀の認識票(No.027)をもてあそびながら、静かにうなずいた。カン・テゴム副隊長の最後の3秒を消す代わりに名前を取り戻した彼女の選択と、白い雨合羽の恐怖が消えた跡に父親のまっすぐな姿勢を満たしたシオンの傘とが、二十層の小さな天幕の中で、並んで温かな息を整えていた。


「明朝になれば、ギルドの定期連絡便が一層の補給所へ下ります」


ペク・ユラが窓の外の霧を眺めながら付け加えた。


「カン老人とハルにも、露店が無事に開いたという伝言を一緒に入れておきます。一層の看板灯(No.032)も、お二人が毎晩油を満たしておいてくださるでしょうから」


「ありがとうございます。カン老人には、俺が大事にしていた茶葉の缶には手を触れないようにと、一行だけ書き添えてください」


俺は直し終えた巡察懐中時計(No.038)の蓋をカチリと閉め、やわらかな毛氈の上に置いた。それから作業台の引き出しから修繕台帳を取り出し、二十層での最初のページの一番下に、端正な字でもう一行書き入れた。


『第038号、二十層の巡察懐中時計(No.038)――逆回転止め金の交換完了。修繕代の銀貨四枚は、明朝、巡察隊の遺失物窓口へ請求のこと。』


しばらくして、真夜中を告げる二十層の鐘の音が、濃い霧を裂いて長く響き渡った。


俺は作業台の隅に置かれた試薬瓶の台に目をやった。十四層とつながった四つ目のガラス瓶の中で、真紅の霧が66まで細く跳ね上がって震えたかと思うと、やがて銀色の霜の糸を一筋深く含み、62という静かな数字へと沈んでいった。


「二十一夜目も無事に越えたな。新しく打ち出してやった刃が、役目を果たしたようだ」


俺は作業台の右の引き出しから掛け売り帳簿を取り出し、『No.031 左利きの細剣――持ち主の血で刃の復元完了、掛け代金は27層の保管箱(前の持ち主との契約分)の落札引き渡しに切り替え』と書いたあと、その下に小さな字で『13層封印門前にて群青色のマントの痕跡を確認』という一行を書き添えた。


帳簿を閉じる音とともに、天幕の軒先に吊るされた真鍮の灯りが、夜風にかすかに揺れた。天幕の外、市場の階段の上のほうでは、二十層と二十七層のあいだを行き来する夜の商隊の灯りが、ひとつ、またひとつと点りはじめていた。一年前の遠征の夜に裏切り者たちが横取りして競売場に出したり、ひそかに修繕を頼みはじめたりした聖遺物が、もうすぐこの露店の作業台の上へ流れ込んでくるはずだった。俺は火鉢の残り火をなだめながら、二十七層から下りてくる前の主人の鉛の箱と、新しい客たちを迎える支度を終えた。


(『塔にただ一軒の古道具屋』第27話 了)

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※第一部・第二部(第1話〜第44話)完全収録オムニバス&機密設定資料集:

・BOOTH(公式書庫): https://spire-archive.booth.pm/items/9073638

・note: https://note.com/seodoyeon_spire/n/n17ce12ece663

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