第21話 一人の足音だけを待つ風鈴 (No.034)
十七日目の昼、1層の南路地の濡れた敷石の上に微かな日差しが差し込む頃、白髪の老人が一人、乾いた布に包んだ品を持って店を訪ねてきた。
樫の作業台の上で解かれたのは、三つの真鍮の鐘と薄い銀色の共鳴板が吊るされた古い戸口の風鈴(No.034)だった。修繕台帳第一号の三十四行目に『No.034 真鍮の風鈴』と書き入れた俺は、鐘の内側にびっしりと降り積もった青緑色の緑青をじっと覗き込んだ。
長さの異なる三本の真鍮の筒は、本来なら扉が開くたびに和音を成して鳴るように精巧に鋳造された手工芸品だった。しかし今は、鐘の内側の小さな鉄の舌と内壁の間に湿気を含んだ青緑色の酸化物が幾重にもこびりつき、手で揺らしてみても鈍くぶつかる摩擦音しか出なかった。
「五年前に上層捜索隊に志願して登っていった息子が、自ら取り付けていった風鈴でな」
老人は作業台の前の椅子に座ってからも、万が一にも風鈴(No.034)の鐘の先が石板に強くぶつかりはしないかと、両手で乾いた布の端を慎重に支えていた。擦り切れた外套の袖口とひび割れた爪の下には、毎朝路地の入り口まで出て箒で掃きながら上層の昇降場の方を見つめてきたであろう歳月がそのまま染み込んでいた。
老人が皺の寄った手の甲で作業台の角を撫でながら静かに言った。
「あの子が旅立った日の夜明けにひときわ澄んだ音で一度鳴ったきり、それからは風雨がどれほど強く吹いても、口がきけなくなったように音を出さんのでな。路地の入り口の金物屋では、錆を薬品で全部剥がせばまた風で鳴るようになると言われたが……どうにもその薬品を使うのが怖くて、ここへ持ってきたのじゃ」
俺は黒い木綿の布を巻いた左手で、風鈴の銀色の共鳴板の端にそっと触れてみた。
金属の目を伝って俺の指先へと伝わってきたのは、風の音ではなかった。
五年前の霧の立ち込める夜明け、敷居を跨ぎかけたものの、どうしても足を離すことができず扉の前で三度ためらった若い軍靴の重い足音だった。
木綿の布の下の左の掌へと、あの日の夜明けの冷たい空気の肌理がそのまま流れ込んできた。重い鉄製の背嚢の紐を背負い直しながら、眠る父の窓の方を長い間振り返っていた青年の視線、そして起こすに忍びず扉の取っ手を静かに離して路地の入り口へと歩み降りていった一定の歩幅の響き。真鍮の風鈴(No.034)の内側に降り積もった青緑色の緑青は単なる歳月の腐食ではなく、息子が残していったその最後の夜明けの足音の波長を宿したまま固まった共鳴結晶だった。
金物屋の言葉通りに酸性の薬品を注いでその錆を丸ごと剥がしてしまえば、風鈴は通りすがりの犬や風にもむやみに鳴るだろうが、鐘の内側に刻まれた息子の最後の歩幅の周波数は永遠に消え去るはずだった。音が出ないからといって壊れているのではなく、ただ応えるべきただ一人の足音がまだ路地の入り口に戻ってきていないために沈黙を守っている品だった。
「おじいさん、この風鈴が風が吹くたびにいつでも鳴ることを望まれますか、それともあの日の夜明けに敷居を跨いだあの足音が戻ってくる時だけ鳴ることを望まれますか?」
老人の目元の深い皺が震えた。
「……やはりあの子の足音を覚えているのだな。どんな風にでも鳴るくらいなら直す必要はない。いつの日かあの子が路地の入り口に足を踏み入れた時、その時だけ一度鳴ってくれれば、それ以上望むことはないよ」
俺は頷くと、鉄やすりや薬品瓶の代わりに自分の右手を持ち上げた。
少し前に銀貨袋(No.024)から屍毒の灰の結晶をピンセットで摘み出した際に火傷した右手の人差し指と中指の先は、ちょうど薄い新しい皮が張ったばかりで、少し擦れるだけでもヒリヒリと熱く痛む状態だった。しかし微細な共鳴の目を生かしたまま表面の固まった酸化膜だけを半厘の厚さで剥がし取るには、鉄の道具の代わりに人の指先の体温と指紋の目で直接擦って整えるほかなかった。
俺は真鍮の風鈴の最初の鐘の内側に細かい松脂の粉をひとつまみ振りかけ、新しい皮がまだ完全に治りきっていない右手の人差し指の先を入れて、青緑色の緑青の目に沿ってゆっくりと円を描きながら擦った。
シャリ、スルスル。
荒い金属酸化物が俺の薄い指先の肌を紙やすりのように削り取った。ようやく治りかけていた水ぶくれの跡が再び破れて透明な滲出液と血の玉が滲み出て、針で爪の下を突くようなヒリヒリとした痛みが手首まで鋭く広がった。
床の研磨パッドに座っていたハルが心配になったのか、俺の足元へと歩み寄ってきて前足で俺のズボンの裾をトントンと突いた。黒い鼻先をひくつかせながら俺の手から漂う鉄の匂いと血の匂いを嗅ぐやつの瞳が、無理をするなと静かに諭しているかのようだった。
「大丈夫だ、ハル。もう少し整えれば終わる」
鉄やすりや紙やすりを使えば、作業時間は十分もかからなかったはずだった。だが冷たい鉄の道具は、金属が宿している微妙な温度差を見分けることができない。どの層の錆が単なる雨水の残りカスで、どの層の錆が人の足音が結ばれた共鳴の目なのかを見分けるには、ただ肌が削り取られていく痛みを指先で直接感じながら半厘ずつ殻を剥がしていくしかなかった。
最初の鐘の内側の荒い外殻が薄く剥がれ落ちると、その下からまるで年輪のように緻密に並んだ三本の青緑色の波長リングが姿を現した。息子が玄関の扉の前で最初の一歩を踏み出しては止まり、二歩目を踏み出してはまた止まり、ついに三歩目で霧の中へと歩き出していったあの三度のためらいが、金属の内壁にそのまま刻印されていた。
俺は虫眼鏡越しにその細い三本のリングが傷つかないよう注視しながら、火鉢の上の薬缶から立ち昇る温かい水蒸気を鐘の内側に一度当ててやった。乾燥して固まっていた酸化膜が水蒸気を含んで少し柔らかくなると、俺の指先の体温が金属の奥深くまでいっそう均一に染み込んでいった。
老人は息音さえ殺したまま、作業台の向こう側から俺の赤くなった右手の指先を見守っていた。誰かの息子が残した最後の夜明けの挨拶を消さないために、修繕工が自分の指先の肌を削りながら錆を整える光景が、老人の目にもありありと映っていた。
俺は長く息を整えながら、二つ目、三つ目の真鍮の鐘の内側の錆の目まで、右手の人差し指と中指の先で一重ずつ均一に撫で下ろした。指先から滲み出た赤い血の玉が松脂の粉と混ざり合い、青緑色の緑青の縁を薄くコーティングするように包み込み、そのおかげで内に結ばれていた夜明けの足音の波長は傷つくことなくいっそう固く定着した。足音の波長が結ばれている中心部の緑青の縁はそのまま残し、鐘の響きを阻んでいた外側の固い殻だけを指先の温もりと摩擦で溶かし出したのだった。
ついに三つの鐘の内側で仄かな黄金色の目が蘇った時、俺は木槌の代わりに自分の人差し指の爪先で銀色の共鳴板の縁をコン、と息子の最後の夜明けの歩幅と全く同じ拍子で叩いた。
チーン――ァァァン――。
五年の間沈黙していた真鍮の風鈴が、まるで夜明けの霧を裂いて戻ってくる若い軍靴の足取りに応えるかのように、深く澄んだ余韻を吐き出した。窓の隙間から吹き込むありふれた風には微動だにしなかった鐘が、ただその固有の歩幅の波長にだけ正確に共鳴したのだった。
「まさにこの音じゃ……! あの子が玄関の扉を閉めて振り返った日の夜明けに鳴った、まさにその音だよ!」
老人が風鈴(No.034)を両手で包み込みながら、赤くなった目頭を拭った。
「あまりにも音が澄んでいて……まるであのやつが今すぐにでもあの扉の外から、父さん、と呼びながら入ってくるかのようじゃ。金物屋で薬品を使って全部削り落としていたら、生涯この音は二度と聞けないところだった」
「お宅に戻られたら、軒下の元の場所にそのまま掛けておいてください。風雨や泥棒猫の足音には黙り込んでいて、息子さんのその軍靴の歩幅が路地の入り口の石畳を踏む日には、誰よりも先におじいさんを起こしてくれるはずです」
「ありがとうよ、若いの。本当にありがとう。修繕費はたいした額ではないが、来る途中に広場の火鉢で焼き栗を一袋買ってきたから、仕事をしながら食べなされ」
老人は風鈴(No.034)を再び乾いた布に大切に包んで懐に抱くと、作業台の片隅に温かい紙袋一つと銀貨一枚を置いた。老人が軽くなった足取りで扉を出ていくと、火鉢の横に座っていたハルが香ばしい焼き栗の匂いを嗅ぎつけて尻尾をゆらゆらと振った。
老人が置いていった温かい焼き栗一袋と銀貨一枚を収めた俺は、作業台の上に落ちた青緑色の共鳴錆の粉を小さな薬包紙に慎重に掃き集め、看板の灯火コア保管箱に入れた。俺は老人が置いていった温かい紙袋を開けて焼き栗を二粒剥き、冷ましてからハルの餌入れに入れてやった。ハルが前足で焼き栗を転がしながら美味しそうに噛み砕く音が、静かな作業室の中を満たした。
残った焼き栗を一粒口に入れてゆっくりと噛みながら、俺は窓の外の1層の南路地の濡れた敷石の道を見やった。五年前のあの夜明けに、どうしても足を離せず扉の前で三度もためらった青年ならば、いつの日か任務を終えてこの1層の昇降場へ降りてくる日にも、誰より先にこの路地の入り口へと駆けつけてくるに違いなかった。その日、老人の軒下で鳴り響くであろう澄んだ真鍮の鐘の音を想像すると、指先のヒリヒリする痛みもいっそう軽く感じられた。
俺はヒリヒリと痛む右手の人差し指の先に軟膏を塗りながら、修繕台帳第一号の三十四行目に万年筆を当てた。
『No.034 一人の足音だけを待つ風鈴。錆の目を指先で調律し、一人の歩幅にだけ鳴るように残す。代償として右手の指先が再び破れたが、音の目は完全なり』
(『塔の中の唯一の中古商店』第21話 完)
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