第19話 刃なき左利き用の細剣 (No.031)
十五日目の夕刻、1層の路地の湿った霧が店の窓ガラスに静かに結露していた。俺は作業台のランプの芯を少し繰り出し、拡大鏡のレンズ越しに視線を落とした。
昨日の夕方、第三回収網にかかって上がってきた左利き用の細剣の柄が、花崗岩の石盤のど真ん中に置かれていた。
修繕台帳第一号の三十一番目の細剣の欄に『No.031』という番号だけを先に書き込んでおいた品だった。半円形の鍔の上に一寸ほど残った刃の根元は、鋭利な武器で断たれたのではなく、極限の寒気に芯から凍りついて弾けたかのように青黒いひびが走っていた。黒い革を巻いた柄には、長い歳月をかけて左利きの剣士の掌に合わせた深い馴染みが刻まれていた。
チリン。
出入口の上の真鍮の鐘が短く鳴り、シオンが店の中へと入ってきた。少年は雨を含んだ傘No.017を戸口の横の水受けに丁寧に畳んで立てかけ、父親の群青色のマントの端切れを当てた袖で額の水気を拭った。隅の研磨パッドの上に伏せていたハルが、尻尾を一度ぽんと叩いて挨拶をする。
「社長、北の回廊の方の使いから戻るところなんですが、路地の雨風が今日はやけに冷たかったですよ」
シオンが作業台のそばへと歩み寄り、石盤の上の折れた細剣の柄を覗き込んだ。
「これ、新しく引き揚げたんですか? 刃が根元しか残っていませんね」
「むやみに手を触れるな。折れた断面にまだ冷たい毒気が残っている」
俺の言葉に、シオンは慌てて両手を背中の後ろに隠して一歩引き下がった。その時、戸口の外で杖の先が敷石を突く音がしたかと思うと、開いていた扉の隙間を押してカン老人が足を引きずりながら入ってきた。
広場の向かいで古物商を営むカン老人は、濡れた膝を一度さすりながら作業台の前へと歩み寄った。
「ユン社長、わしが渡した上昇気流弾はまだ持っておるか?」
「引き出しにしまってあります。ちょうど今夜使うつもりでした」
カン老人は石盤の片隅に立てておいた凹んだ真鍮配送カプセルNo.022と折れた細剣の柄を交互に見て舌打ちした。
「その柄を載せて送るつもりだな。カプセルの中で揺れんよう、しっかり固定してから撃ちなさい」
「言われた通りにします」
シオンが窓の外の薄暗くなった路地を見ると、傘を手にとってぺこりと頭を下げた。少年が帰り、カン老人まで古物商の戸締まりをしに足を運ぶと、作業室の中にはランプの燃える音とハルの規則正しい寝息だけが残った。
俺は出入口のかんぬきを掛けて閉め、作業台の前に戻って腰を下ろした。
右手で細剣の柄の握りの先端を回し、ランプの光の下に照らしてみた。擦り切れた黒革の結び目の下側に、小さく押し刻まれた頭文字が一つ目に入った。
画の最後の端を内側へと鋭く折り込んだ文字だった。
四日前の夕暮れ時、第三回収網に降りてきたカプセルの中の書き置きで見たのとまったく同じ、端を内側に折り曲げて押さえた筆画だった。
それだけではなかった。以前ペク・ユラが持ってきた14層の月間監察報告書の写しの下部にあった『ルカン』という署名もまた、最後の一画が同じ角度で内側に折れ曲がっていた。
俺は拡大鏡越しに、その小さな頭文字の折れた角度をじっと見つめた。単なる手癖と言うには、画を止めて内側へと折り込み封じる法度があまりにも精緻だった。
俺が二十年前、99層の主席調律師の職位を捨ててこの1層の修繕工の工房へと降りてくる前に、あの高い場所の古い文書で目にした書記法だった。
はるか昔に上層の誰かが使っていたその古い書記法が、なぜ14層の審問官の指先と剣の柄に残っているのかは分からなかった。ただ、この刃のない細剣の柄の持ち主が、あの署名を残した男であることだけは確かだった。
俺は息を整え、黒い木綿布を固く巻いた左手を上げて、細剣の柄の凍りついて弾けた刃の根元の上にそっと乗せた。
木綿布の下の火傷の傷跡と主席調律師の烙印がひんやりと脈打った。砕けた鋼の断面を伝って、この細剣が折れた最後の三秒間の記憶が視界の中へと流れ込んでくる。
逆さまに噴き上がる雨脚の中で、刀身が白く凍りついて粉々に砕け散った。反動で体が欄干の外の虚空へと傾く。傾いた視線の先には、折れた短剣を握りしめた女の背中がちらついていた。
そこで記憶がぷつりと途切れた。
俺は折れた根元から左手を離した。鍔の上に残った一寸あまりの根元の内側には、持ち主の血と古い魔力の痕跡が凍りついたまま糸のように残っていた。
この細剣の刀身は、持ち主の血なしにはここで新しく引き出すことはできなかった。しかも今このひび割れた根元を火で熱したり無理に削り落としたりすれば、その中に残された最後の記憶まで永久に消えてしまうところだった。
結局、今俺にできることは決まっていた。根元は記憶ごとそのまま残しておき、ぐらつく鍔と緩んだ柄だけを完全に手入れして持ち主の手元へ送り返すことだ。
俺は右手で冷たい鉛の薄板と濡れた革布を持ってきて、一寸残った刃の根元を幾重にも包み込んだ。修繕するあいだ、槌打ちの振動や熱が凍りついて割れた根元のひびへと伝わり、断面が砕けてしまわないよう防ぐ緩衝材だった。
根元を包んだ細剣の柄を作業台の横にある真鍮の固定具に水平に噛ませ、右手でねじを締めた。黒い木綿布を巻いた左手では固定具の胴体を押さえて揺れを防ぎ、素手の右手で細い錐とやっとこを握って鍔の内側の曲がった目釘を抜き取った。
柄の内側の木製の骨格は、落下口の断崖にぶつかった衝撃で微かに歪んでいた。俺は右手の精密やすりで茎穴のずれた木目を真っ直ぐに整えたあと、強度の高い黒銀合金の目釘を新しく差し込み、小さな槌で短く正確に叩いて打ち込んだ。
トントン。
鈍い遊びが消え、半円形の鍔が柄の中心軸にしっかりと噛み合った。左利きが剣を握り、ひねって受け止める際に手首へと集まる荷重をそのまま受け止められる角度だった。
続いて右手で油を染み込ませた新しい革紐を取り、擦り切れた黒革の握りの上を隙間なく巻き下ろしていった。柄の端に刻まれていた折れた頭文字の場所を隠さないよう、結び目を一寸上で収め、温かい蜜蝋を塗って掌の中で滑らないように固めた。
最後に固定具から柄を外したあと、右手に彫刻刀を握り、半円形の鍔の内側の隅に、最後の輪の端を内側へと巻き込んだ小さく丸い結び目の印を彫り込んだ。
彫刻刀を置くと、作業室の壁の時計の振り子は真夜中を過ぎた時刻を指していた。
まさにその瞬間、作業台の上の棚から澄んで鋭いガラスの共鳴音が響いた。
キィン――。
顔を上げると、棚の真ん中に置かれた四つの試薬瓶のうち、溶けない二十四番目の雨粒を収めておいた14層の試薬瓶が微かに震えていた。
それまで14層の試薬瓶の中の深紅の霧は、まるで穏やかな脈拍のように毎分72の規則正しい間隔で静かに明滅していた。ところが真夜中を過ぎると同時に、その表面を覆っていた薄い光の膜が剥がれるように散り、瓶の中の脈動が一瞬にして毎分65へと落ちた。
それも束の間のことだった。瓶の中の深紅の霧が黒赤く渦を巻き、栓の下側を激しく突き上げ始めた。脈動の間隔が66へと速まり、ガラス瓶の表面が今にも弾け飛びそうなほど危うく鳴り響く。
俺は席から立ち上がることなく、拡大鏡越しに14層の試薬瓶の震えを最後まで見届けた。
やがて、黒赤く暴れ回っていた試薬瓶の内側へと、冷たく澄んだ銀色の筋が一閃のように駆け抜けた。激しくガラスを叩いていた霧が、その銀色の気配を吸い込むようにして一瞬で静まった。
渦の収まった瓶の底で、深紅の霧が以前よりいっそう深く重みを増した濃度で凝集すると、毎分62の遅く確かな鼓動へと規則正しく落ち着いた。
ガラス瓶の震えが完全に止まったのを確かめた俺は、静かに息を吐き出した。
「喰らったな。生きている」
上層で何が起きたのかは知る由もなかったが、あの雨粒と繋がった心臓が峠を越え、いっそう強固になったことだけは、試薬瓶の62という鼓動がはっきりと示していた。
俺は作業台の引き出しから、蜜蝋を塗った硬い紙を一枚取り出した。紙の最上部には、あらかじめ俺が刷っておいた見出しが印刷されていた。
[1層修繕商店 ― 掛け売り請求書]
右手でペン先に黒いインクをつけ、印刷された見出しの下に一字一字はっきりと文字を書き連ねた。
「刀身は持ち主の血によってのみ新たに引き出せます。修繕費と利子を合わせ、どこにおられようとも直接受け取りに伺います」
文章を書き終えたあと、下の署名欄には名前の代わりに、鍔に彫ったのと同じ丸い結び目を一つ描き入れた。
インクが乾くのを待って請求書を四角く畳んだ俺は、油を染み込ませた木綿布で手入れの終わった細剣の柄No.031を包んだ。そして作業台の横に立てておいた真鍮配送カプセルNo.022の蓋を開け、細剣の柄と掛け売り請求書を並べて収めた。
俺は作業台の下の段から、ずっしりと重い真鍮の円筒弾を一つ取り出した。
五日前、カン老人の茶碗を修繕してやった代金として受け取っておいた、77層の上昇気流弾だった。
俺は上昇気流弾をカプセルの底の推進部に押し込み、ねじ山を最後まで締めて密閉した。
右手にカプセルNo.022を持って、店の奥の回収室へと歩み入った。垂直落下口から吹き上げてくる冷たい風と雨音が、回収室の中を満たしていた。
俺は発射管の架台にカプセルを垂直に固定し、到達目盛りを14層の鐘楼の高度に合わせると、右手で撃発レバーを力いっぱい引いた。
ゴオオオッ――!
圧縮された77層の上昇気流が一気に炸裂し、カプセルNo.022がかすかな真鍮色の軌跡を残したまま垂直落下口の上方の闇へと撃ち上げられた。瞬く間に水しぶきを突き抜けて消えたカプセルの反響が、雨音の中へと遠ざかっていく。
作業室に戻った俺は、ランプの下に広げておいた修繕台帳第一号の『No.031 左利き用の細剣』の項目の横に、右手で短く結果を書き記した。刀身を新しく鍛えてやる代わりに、持ち主の血でのみ剣身を呼び覚ませる柄と掛け売り請求書を77層の上昇気流弾に載せて送り上げたのだから、いつかその掛け代金を直接回収しに上層の階段を踏むことになる日もそう遠くないようだった。
『No.031 刃なき左利き用の細剣 ― 根元保存、柄補強および掛け売り請求書同封にて返送。』
俺は帳簿を閉じ、左手の黒い木綿布の結び目に一度触れたあと、棚の上で静かに脈打つ試薬瓶を背にしてランプの芯を下げた。
(『塔の中の唯一の中古商店』第19話 終わり)
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