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第18話 開かない前の主人の帳簿 (No.030)

十四日目の朝、1階の路地に降りた水霧が店のガラス窓の隅をじっとりと濡らした。俺は水盥の前で、左手と左手首の上まで広がった烙印の跡に新しい黒い木綿布を固く巻きつけた。


昨日、持ち主の痛みを代わりに病んでいた肩当てから赤い塩の結晶を抜き取ったせいで、左手の烙印が手首の上へもう一節分も広がっていたのだ。


真鍮の鏡に映ったこめかみ横の白髪一筋を素手の右手で掻き上げた後、俺は作業台の前へ歩いていった。隅の研磨パッドの上で丸くなっていたハルが鼻を一度鳴らし、前足の上に顎を乗せた。


俺は膝を曲げ、作業台の下の一番深いオークの引き出しを開けた。長い間手を触れていなかった乾いた木の匂いとともに、木綿の風呂敷に包まれたずっしりとした長方形の品が指先に触れた。


それを取り出して花崗岩の石板の上に置き、風呂敷を解いた。黒い革表紙の周囲を分厚い真鍮の金庫枠が囲み、背表紙の向かい側の留め具に円形のダイヤル錠がついた古い本だった。三十番目の修繕目録に載せる品であり、俺がこの店を受け継いだ日からずっと開かなかった前の主人の金庫帳簿、No.030だった。


俺は真鍮の拡大鏡を掛け直し、石板の上に頭を下げた。右手の人差し指の先で、帳簿側面の円形ダイヤル錠をそっと回してみる。


シャララ、と空回りする金属の摩擦音が鳴るばかりで、内部の掛け金は微動だにしなかった。ダイヤルの下の小さな歯車窓の中を覗き込むと、中心軸と掛け金を繋ぐ要の噛み合わせ歯車であるダイヤルギアが一つ丸ごと抜け落ちて空になっていた。


三日前の夕暮れ時、第3回収網に降りてきた真鍮カプセルの中から表面が溶け落ちた認識票を取り出して名前を刻み直した時も、俺の視線は引き出しの奥深くにしまっておいたこの帳簿の上に一度留まっていた。


俺はしばし息を整え、黒い木綿布で包んだ左手を持ち上げて、ダイヤルギアが抜け落ちた真鍮の溝の縁にそっと置いた。


木綿布の下の火傷の傷跡と首席調律師の烙印が鈍く脈打った。冷たい真鍮の断面を伝い、俺が99階の首席調律師の職位を捨ててこの1階の修繕工の工房へ降りてきた二十年前のあの日の光景が、視界の中へと押し寄せてきた。


両手の魔力回路を自らすべて焼き切り、烙印が刻まれた左手が真っ黒に焦げたままよろめきながらこの路地の奥の店の扉を押し開けた、雨の降る夕方だった。ランプの下の花崗岩の作業台の前には、背筋の伸びた白髪の老人が立っていた。


店の前の主人は俺の焼け焦げた左手の前に店の鍵と閉ざされた金庫帳簿を並べて置き、この店は塔が消そうとするものの最後の避難所だと淡々と言った。


前の主人の低く乾いた声を最後に、視界が晴れた。


俺は金庫帳簿から左手を離し、工房の中をゆっくりと見回した。棚の上で微かに波打つ四つの試薬瓶と、作業台の床下の鉛の金庫の中に封印しておいた回収人の白いボタン、そして傘の中に空白を残したまま帰っていった少年の顔が次々と脳裏をよぎった。


上層で消されようとしているものたちは、すでに自らの足で、あるいは回収網に乗ってこの店の敷居まで降りてきていた。これ以上引き出しの底に帳簿を隠したまま知らぬふりをするわけにはいかなかった。


「開けてみる潮時だな」


俺は低く呟き、金庫帳簿を持ち上げて作業台の片側の真鍮の固定台に水平にしっかりと噛ませた。揺れないように固定ネジを締めた後、右手で部品引き出しから硬い真鍮のギア母材一つと精密やすり、歯切り用の彫刻刀を取り出した。


左手では固定台の側面を押さえて帳簿の重心を取り、右手の彫刻刀とやすりで真鍮母材の周囲を削り進めた。拡大鏡越しに帳簿の錠前内部の噛み合わせ間隔を測りながら、十二個の微細な歯の刃を一定の角度に整えていく。


花崗岩の石板の上に細かな真鍮の粉がうず高く積もった。俺は削り出した新しいダイヤルギアを右手のピンセットで摘まみ上げ、帳簿側面の空いていたギア軸に押し込んだ。


カチッ。


新しい真鍮ギアが内側の掛け金の歯と一分の遊びもなく噛み合った。俺は右手の調律針の先でギア軸の固定ピンを押してロックした後、ダイヤルのつまみを掴んで目盛りに合わせてゆっくりと回した。


ガチャン、ガチャリ。


重々しい金属の掛け金が外れる音とともに、金庫帳簿を囲んでいた真鍮の縁が半寸ほどせり上がって開いた。


俺は固定台のネジを緩め、右手で分厚い黒革の表紙をめくって帳簿を広げた。


内側には黄色く色褪せた分厚い羊皮紙の束が針金の結び目で綴じられていた。しかし俺が99階の調律師の職位を捨ててこの修繕工の工房へ降りてきてからの二十年間で墨が乾ききって固まり、広げられたページは文字一行見えない白い白紙のように干からびていた。


俺は火鉢の横に置かれた小さな真鍮の焼きごてを右手で取り、微熱だけが残るように温めた。そして黒い木綿布を巻いた左手を最初のページの角にそっと乗せたまま、右手の温かい焼きごての底面で羊皮紙の上の虚空を半寸間隔でゆっくりと撫で下ろした。


左手の烙印の波長と焼きごての温もりが乾いた羊皮紙の繊維に染み込むと、白紙のように見えていた紙の表面の下から微細な黒い点が浮かび上がった。


二十年間、工房の引き出しの中で固まって眠っていた特殊な墨が熱気と波長を含み、毛細血管のように再び繋がっていく。やがて最初のページから最後のページまでびっしりと書き込まれた古い文字が、鮮明な墨色で姿を現した。


最初のページの上段には、前の主人の端正な筆跡で記された誓約の文言が 記されていた。


『塔の上層で抹消された名前と廃棄された階層の遺留品、そして完璧な縫合の代わりに残しておかねばならぬ消されるべき記憶を、この帳簿の下に預かり保管する』その下には、帳簿を再び開けば保管契約が目覚め、店が再び記録に載るという注意書きが続いていた。


この店は前の主人の代から単なる中古修繕店ではなかった。塔が跡形もなく消し去ろうとした記憶を品物の中に収めて隠しておいた、記憶の保管所だったのだ。ページをめくるたびに、前の主人が預かっていた数百個の古い品物番号とその中に込められた記憶の要約、そして預けた者たちの暗号のような印が並んで現れた。


俺が記録の最後の行に視線を止めた瞬間だった。


半分ほど空白になっていた最後のページの下段で、誰の手も触れていない乾いた墨が自ら滲むように細長い黒い横線を一本引いた。同時に、帳簿内側の真鍮の金庫枠が低く長い共鳴音を一度響かせた。


眠っていた保管契約が二十年ぶりに再び目覚めたのだった。そしてその代償として、この1階の路地の小さな店が誰かの監視帳簿の上に再び名前を載せたという意味でもあった。


俺は右手で小さな彫刻刀を取り上げ、金庫帳簿の真鍮枠の内側の角に、最後の輪の端を内側へ巻き込んだ小さく丸い結び目の印を刻み込んだ。


午後に入り、路地の霧は一層濃くなった。俺は作業台の上に広げておいた前の主人の帳簿の横に自分の修繕台帳第一号を並べて置き、三十番目の欄に『No.030 前の主人の金庫帳簿 ― ギア復元および開封』と短く記した。


ペンを置こうとしたその時、研磨パッドの上に伏せていたハルが音もなく身を起こした。


ハルはいつもように唸り声を上げなかった。代わりに背中の毛を逆立てたまま姿勢を低くし、店の正面のガラス窓の方を真っ直ぐに見据えた。


俺は拡大鏡越しに顔を上げ、ガラス窓の外を見やった。


霧が立ち込める1階の路地の奥、消えた街灯の柱の下に見知らぬ人物が一人立ち止まっていた。長い外套の裾の下から、両手にはめた塵一つない真っ白な手袋が、薄暗い路地の光の中でも際立って鮮明に目についた。


路地の奥に立ち止まった白い手袋の訪問者は、店の中へ入ってこないままガラス窓の向こうの看板を静かに見つめていたが、無言で身を翻して霧の中へと歩み去った。


出入口の上の真鍮の鐘は最後まで鳴らなかった。彼は店の扉を開けることもなく、ガラス窓の近くへ歩み寄って俺の顔を確かめることもしなかった。ただ二十年ぶりに再び目覚めた保管契約の座標を目で一度照合してみたかのように、乱れのない足取りで路地の外の霧の向こうへと姿を消した。


俺は席から立ち上がらず、白い手袋が消えた空っぽの路地の入り口をしばらく見つめていた。彼が何の用で訪ねてきたのかは分からなかった。


路地に夕闇が濃く降りる頃、俺はランプの芯を掻き立てて工房の中を明るくした。


前の主人の金庫帳簿を閉じ、作業台の片側に整理しておこうとした瞬間だった。


店の奥の回収室で、鉄索が引かれる重々しい音がした。


すぐに回収室の天井に吊るされた真鍮の知らせ鐘が激しく揺れた。


チリン、チリン、チリン!


第3回収網に何かずっしりとしたものが掛かったという合図だった。


俺は作業台の上の手提げランプを右手に持ち、奥の回収室の扉を開けた。垂直落下口から吹き上げてくる湿った風と石粉の匂いがむっと押し寄せてくる。


ランプを掛け、滑車のハンドルを巻いて第3回収網の鉄索を引き上げた。逆さに噴き上がる水しぶきを払いながら上がってきた網目の真ん中に、砕けた岩石の破片とともに黒い鉄片が一つ引っかかっていた。


俺は右手を伸ばし、その品物を網から取り出した。ずっしりとした鉄の冷気と古い革の感触が掌に伝わってきた。


工房へ戻り、ランプの真下の花崗岩の石板の上にそれを置いた。


刀身は鍔の上側に根元一寸あまりだけを残したまま無残に折れ飛んだ、レイピアの柄だった。折れた断面には青黒い毒気と無数の衝撃の痕跡が絡みついており、黒い革を巻いた握りと半円形の鍔は、ただ左利きの使い手の掌にだけ合うように深く馴染んでいた。


俺はその折れたレイピアの柄の鍔と握りの目を静かに見下ろした。三日前にカプセルに入って降りてきた認識票と折れ曲がった筆跡の書き付け、そしてそれより前に黒銀の短刀を送り上げた14階の鐘楼の夜が脳裏をよぎった。


俺は石板の片側に広げておいた自分の修繕台帳第一号を引き寄せた。右手でインク瓶にペン先を浸し、三十一行目の空欄の上に持っていった。


紙の上に『No.031』と数字を書き進めていた俺の右手のペン先が、折れたレイピアの根元から立ち昇る冷ややかな鉄の匂いと、左利き用の半円形の鍔の見慣れた曲線の前で止まった。単なる修繕依頼ではなく、14階のあの審問官が自らの命綱の半分をこの1階の作業台の上へと投げ寄越したわけだった。


(『塔の中の唯一の中古商店』第18話 完)

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※第一部・第二部(第1話〜第44話)完全収録オムニバス&機密設定資料集:

・BOOTH(公式書庫): https://spire-archive.booth.pm/items/9073638

・note: https://note.com/seodoyeon_spire/n/n17ce12ece663

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