第14話 一人だけを記憶する一対の茶碗 (No.026)
十日目の午前、一晩中1層の屋根を叩いていた雨脚が弱まり、路地の敷石の上に冷ややかな水霧が低く垂れ込めた。俺は店の表扉を開けて敷居の雨水を掃き出した後、換気窓を大きく開け放ち、夜のあいだに溜まっていた油の匂いと冷たい空気を外の風と入れ替えた。
樫の作業台の上の棚に置かれた14層の試薬瓶は、夜のあいだに張っていた白い霜が溶け落ち、澄んだガラスの表面を取り戻しつつあった。瓶の中の深紅の霧の真ん中に混ざり込んだ細く透明な銀色の糸くずは、今やいっそう穏やかになった周期で静かに巡っていた。隅の革の座布団で身を丸めていた銀色の毛玉の霊獣ハルが鼻先をひくつかせて背伸びをした。
火徳の上に載せておいた鋳鉄の薬缶から温かい湯気が立ち昇る頃、広場の向こう側から足を引きずる足音が近づいてきたかと思うと、店の扉の上の真鍮の鐘がチリンと鳴った。
扉を開けて入ってきたのは、広場の向かい側で古物商を営むカン老人だった。七十の齢にも背筋を真っ直ぐ保っている彼は、雨に濡れてきしむ片膝を手のひらで押さえながら敷居をまたいだ。脇には古い木綿の風呂敷で包んだ四角い桐の箱が抱えられていた。
「ユン店主、朝から火は起こしておいたかい? 日がジメジメしていると膝の骨の節々が先に知って冷えるのだよ」
「いらっしゃいませ、ご隠居。ちょうど湯が沸いたところですので、温かいお茶から一杯お出ししましょう」
俺は椅子を引いてカン老人が足を楽に伸ばして座れるように手伝った後、作業台前の花崗岩の石板の上を乾いた手拭いで拭き取った。カン老人は荒い息を整えながら、膝の上に載せておいた桐の箱の風呂敷をゆっくりと解いた。
箱の中には、乾いた藁の緩衝材のあいだに無骨な灰青色の陶器の茶碗が二つ並んで入っていた。装飾のない重みのある野戦用の茶碗一対だった。カン老人がタコのできた手で二つの茶碗を取り出し、石板の上に置いた。
「お茶を注ぐ前に、こいつらから少し見ておくれ。わしが50層台の補給所から降りてきた時から数十年、懐に抱えて生きてきた茶碗一対なのじゃ」
俺は真鍮の拡大鏡眼鏡を鼻筋に掛け、石板の上の二つの茶碗を調べた。左の茶碗は歳月の手垢がついているだけで釉薬の光沢が完全だったが、右の茶碗は胴を横切る細いひびの周りで灰青色の釉薬が爪の大きさほどずつ剥がれ落ち、内側の灰色の土の目が露わになっていた。
「一対で焼き上げた補給隊の定量茶碗ですね。ところが右の茶碗だけ釉薬が剥がれ、細いひびが深く根を下ろしています」
「そうじゃ。同じ薬缶で沸かした茶の湯を二つの茶碗に並べて注いでおくと、わしの茶碗は湯気がもくもくと立つというのに、あの釉薬の剥がれた向かいの茶碗だけ水が触れた途端に氷水のように冷たく冷めきってしまうのじゃよ」
俺は火徳から沸騰した湯の薬缶を持ってきて、二つの茶碗に同じように半分ほど注いでみた。左の茶碗からは白い水蒸気が立ち昇ったが、釉薬が剥がれた右の茶碗に入った湯は湯気が一筋昇ったかと思うと、瞬く間に熱気を失って冷めてしまった。右手の先を右の茶碗の外壁に当ててみると、今しがた沸かしたばかりの湯を注いだとは信じられないほど冷たい感触だけが伝わってきた。
「保温の結界が単純に壊れたのではありませんね。一緒に茶碗をぶつけ合っていた向かいの持ち主がいなくなったことで、片方の茶碗の時間だけがあの夜の寒気の中に止まってしまったのです」
「この茶碗を分け合って使っていたわしの同期は、50層台の補給輸送戦でとうとう降りてこられなかった。今やあいつの顔と声を記憶しているのは、この広い1層にわし一人だけじゃ。毎年命日のたびに二つの茶碗に茶を注いで向かい合って座るのじゃが、向かいの茶碗がいつもあのように冷え切ってしまうので、まるで一人で空席に冷水を供えているような気がしてなあ」
カン老人が冷めきった右の茶碗の縁を皺の寄った指先でそっとなぞった。
「前からどうにかして直そうと思っていたのじゃ。実はあんたがこの店を引き継ぐずっと前に、この店の前の店主もこの茶碗は直せなかった」
「この店の前の店主とおっしゃいますと?」
「ああ、あんたが降りてくる前にこの場所で道具を握っていたお方のことじゃよ。あの時もこの茶碗を持ってきたら、しばらく覗き込んでから、茶碗に染み込んだ記憶を消さずに温もりだけを蘇らせる芸当は自分にはないと言って、手もつけずにそのまま返されたのじゃ。あんたなら記憶を消さずにあの茶碗へ温もりを戻してやれるかね?」
俺は作業台の隅の古い棚の方をかすめるように一度振り返った後、再び石板の上の冷めた茶碗へと視線を下ろした。茶碗の中の冷水を空けて水気を拭き取った後、黒い木綿布で巻いた左手を伸ばし、釉薬が剥がれた右の茶碗の細いひびの上に指先をそっと乗せた。
木綿布の下の火傷の傷跡と首席調律師の烙印が疼き、剥がれた釉薬の隙間に凍りついていた数十年前の短い場面一つが視界へと押し寄せてきた。
鋭い寒風が鉄製の天幕を揺らす50層台の前哨補給所だった。霜が白く張った弾薬箱のあいだで、若い頃のカン老人と右の目元に傷跡のある補給官の仲間が小さな火鉢の前に向かい合って座り、湯気の立つ灰青色の茶碗をぶつけ合った。澄んだ陶器の音とともに二人の声が重なって響いた。
『生きて1層で会おう』
『ああ、生きて1層でな!』
熱い葉茶を飲み干した瞬間、茶碗を伝って流れていた最後の温もりとともに短い幻影が散った。俺は木綿布を巻いた左手を茶碗から離しながら息を整えた。
「この茶碗に宿っているのは、お二人が生きて1層でまた会おうと茶碗をぶつけ合ったあの夜の約束ですね。亀裂を削り取って新しい釉薬で覆ってしまえばお茶は温かくなるでしょうが、茶碗が抱いているあの夜の音と記憶は永遠に消え去ります」
「記憶が消えてしまったら、それはただの泥の塊じゃ、わしの同期の茶碗ではない。ひびが入った痕跡が残っても構わんから、記憶と温もりを両方とも守る手立てはないものか?」
「割れたひびと剥がれた釉薬の跡を隠さずにそのまま生かしておいたまま、熱と記憶を一緒に繋ぎ合わせる純金漆で金箔の継ぎを入れましょう。傷跡は金色の線として残りますが、二つの茶碗が再び一対として結ばれ、お茶が冷めなくなるはずです」
俺は作業台の下の深い鍵付きの引き出しを開け、二十年前に99層の工房を離れて降りてくる時に持ってきた小さな黒檀の薬箱を取り出した。蓋を開けると、底に最後の一つまみほど残った99層産の調律用金粉がほのかな光を湛えていた。今回払い入れてしまえば二度と補充できない最後の金粉だった。
迷うことなく黒檀の薬箱を傾け、精製した生漆の上に最後の金粉を残さず払い入れた。空の薬箱が作業台の上で軽い音を立てると、向かいに座っていたカン老人が目を細めて俺の手を見つめた。
「ユン店主、今その薬箱から払い入れた金粉は、色合いからして並の細工用ではないようじゃが……この年寄りの茶碗一つにそんな高価なものを全部使ってしまってもよいのかね?」
「並の金箔では割れた土をくっつけられるだけで、数十年前に50層で立ち止まった温もりまでは繋いでやれません。この茶碗に使おうと残しておいた材料ですので、ご心配なさらないでください」
俺は革のパッドを当てた真鍮の固定台に右の茶碗を噛ませた後、素手の右手で細筆を取って金粉漆を先に含ませた。割れた細いひびの始点に筆先を当てた途端、陶器の奥深くに刺さっていた50層補給所の冷たい寒気が漆を押し返すように指先へと込み上げてきた。冷たい茶碗から押し寄せてくる冷ややかな反発だった。
古い冷気が激しく抵抗し、金粉漆が細いひびの隙間でしきりに浮き上がって固まろうとした。少しでも筆の呼吸が揺らげば、金線が途中で切れて茶碗の中の記憶まで一緒に砕け散りかねない危うい瀬戸際だった。俺は息を殺したまま99層の金粉が含む微かな熱気で冷気をなだめながら、固まりかけている漆の上に薄い金箔を重ねて押さえ、途切れた昔の乾杯の目に沿って一寸ずつ執拗に金色の道を繋いでいった。
向かいで見守っていたカン老人の膝の上の拳が固く握り締められた。ついに細いひびの端まで金箔が隙間なく噛み合うと、俺は剥がれた縁に髪の毛のように細い金線一本を埋め込み、最後の輪の端を内側へ小さく巻き込んで俺の修繕印である丸い結び目を作った。白炭ごての熱気を半寸の距離からゆっくりと当ててやると、茶碗を包んでいた冷たい寒気が退き、隣に置かれた左の茶碗と低やかな共鳴音を交わし合った。
固定台から外した右の茶碗を、石板の上の左の茶碗の隣に並べて下ろした。灰青色の陶器の表面の上に、割れていた場所が鮮やかな金色の茎のように輝いていた。
「できあがりました。ではもう一度お茶を注いでみましょう」
俺は火徳の上の薬缶を取り、二つの茶碗に熱い葉茶を並べてなみなみと注いだ。今度は金箔の継ぎを入れた右の茶碗からも、左の茶碗と全く同じように白く香ばしい茶の湯気がもくもくと立ち昇った。時間が経ってもお茶は冷めず、二つの茶碗が並んで温かい温もりを保ち続けた。
カン老人が震える両手で金箔の継ぎが入った右の茶碗を包み込んだ。荒く剥がれていた灰青色の土の目の場所に、ほのかな金色の茎が脈拍のように温かい気配を湛えていた。手のひらを伝って広がる重みのある温もりに、彼の目元が赤く潤んだ。カン老人が自身の左の茶碗を持ち上げ、右の茶碗の金色の線の脇にそっとぶつけた。
澄み切った陶器の音が店の中を長く響き渡った。まるですぐ向かいにいる目に見えない誰かが一緒に茶碗をぶつけ返してくれたかのような響きだった。
「……温かいわい。あの夜、補給所の天幕で飲んだ温度そのままじゃ。金色の茎が繋がったのを見ると、あいつもようやく寒い場所から出てきてわしの向かいに座ったようじゃな。ありがとうよ、ユン店主」
カン老人はしばらくのあいだ二つの茶碗から立ち昇る湯気を見下ろしていたが、二つの茶碗のお茶を交互に飲みながら空席を守った。茶碗を空にした彼は丁寧に二つの茶碗を再び桐の箱に収めると、外套の内ポケットの奥深くから重みのある真鍮の円筒を一つ取り出し、石板の上に置いた。
大人の拳ほどの大きさで幾重にも圧力刻印が刻まれた軍用の上昇気流弾だった。上部の封印ピンが一度も抜かれていない新品の動力カートリッジだった。
「修繕費は銀貨の代わりにこれで受け取っておくれ。わしが50層台の補給官時代に、非常輸送管を撃ち上げる時に使おうと一発くすねて隠しておいた上級上昇気流弾じゃ。重いカプセルも一息に上の層まで撃ち上げる火力じゃから、あんたの作業場では重宝する使い道があるじゃろう」
「ご隠居、これは銀貨数枚とは比べものにならないほど貴重な軍用動力弾です」
「あんたが今しがたその茶碗に払い入れた最後の金粉が並の品ではないことくらい、古物商の年寄りの目にもすっかり見えておるわい。遠慮せず受け取っておきなさい」
カン老人は俺の返事を待たずに桐の箱を脇に抱えたまま席を立ち、店の扉を出た。朝の日差しが照らす路地の向こうへと、彼のいっそう軽やかになった足音が遠ざかっていった。
俺は作業台の上に置かれた重みのある真鍮の上昇気流弾を手に取って重さを量ってみた。割れた茶碗の金箔の継ぎ目に自分の分の記憶の金粉一粒を払い入れた代償として、77層の古い圧力刻印が押された軍用気流弾が俺の手のひらへと戻ってきていた。俺は気流弾を配送口の隣の動力保管箱に大切に収めた後、修繕台帳第一号を開き、二十六番目の行にNo.026 一人だけを記憶する一対の茶碗の金箔継ぎ修繕内訳と、修繕費として受け取った上昇気流弾一発を並べて書き入れた。
(『塔の中の唯一の中古商店』第14話 終わり)
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・note: https://note.com/seodoyeon_spire/n/n17ce12ece663




