第11話 記憶のない白いボタン(No.023)
明け方の五時を少し過ぎて、店の扉を出た。広場はまだ暗く、露店の天幕の上に一晩中溜まった雨水が風に吹かれて時折ざっと零れ落ちた。手提げ灯ひとつに麻袋ひとつ、そして肩の上で尻尾を俺の首に巻きつけてうとうとしているハルがすべてだった。
展望台の下へ降りて、慣れた回収場所を探した。手提げ灯を低く掲げると、石の隙間に引っかかった残骸が浮かび上がった。時計を拾ってきたあの明け方のように、濡れた石の隙間から調べた。
今日は頭上の闇から水滴だけがぽつりぽつりと落ちてきた。手提げ灯を回しながら地面を検めると、濡れた紙切れと曲がった槍の柄の半分が見えた。槍の柄の焦げた面を裏返してみてから、石の横に置いた。
その間に、白いものがひとつあった。
爪ほどの大きさのボタンだった。砕けた槍の柄の横、石の隙間に乗っていたのだが、周囲のあらゆるものが濡れているなかでそれだけが乾いていた。水一滴、煤一点すらついていない白だった。四つの穴の内側に、何か細くて白いものが生えていた。
ハルが肩の上で目を覚ました。あいつは欠伸の代わりに毛を逆立てた。首に巻きついていた尻尾が解けると、低く唸る声が耳元で響いた。毒気の濃い品物を店に入れたときにも聞いた声だった。
俺は素手の右手でボタンをつまみ上げた。
指先がひりついた。氷を長く握っているときのように、指の関節が痺れてきた。穴の中の白いものは霜だった。ボタンの穴の内側から外側へと伸び出た霜は、爪の先に触れても溶けずに残っていた。
ボタンの本体は骨なのか貝殻なのかわからない滑らかな白色で、裏面には糸が通されていた跡が残っていた。どこかに縫い付けられていて取れ落ちたものだった。昨夜、あの上空で見た白い残像が脳裏に浮かんだ。雨水の一滴も付いていない白い雨合羽。このボタンも濡れていなかった。それだけで二つを結びつけるには足りず、俺はその考えを畳んでおいた。
ボタンを油紙に包んで外套のポケットに入れた。ポケットの布越しにも冷気が太腿に伝わってきた。ハルは店へ戻る間ずっと、そのポケットとは反対側の肩にばかり座っていた。
店に戻って閂を掛け、作業灯を点けた。棚の14層の試薬瓶は昨夜と同じ拍子で穏やかだった。俺はボタンを油紙ごと作業台の絨毯の上に置き、真鍮の拡大鏡を取り出してかけた。
拡大鏡の下では、霜がいっそうはっきりと見えた。穴ごとに針のように細い結晶が生え、外側に向かって伸びていた。絨毯の上に置いてからいくらも経っていないのに、油紙の縁が白く脆く崩れ始めていた。
俺は黒い木綿の布を巻いた左手を持ち上げ、ボタンの上に乗せた。
時計からは泥と雨の匂いがしたし、聖標からは血と鉄の匂いがした。そうした痕跡を辿っていけば、品物を最後に握っていた手と、その前に広がっていた光景が浮かび上がった。俺は今回も、掌の下から何かが渡ってくるのを待った。
何も来なかった。
匂いも、温もりもなかった。掌の下は白だった。何かが覆い隠された闇とは違った。何も書かれていない紙のような白い空白だった。俺は布の下の烙印にさらに力を込めた。空白はそのままだった。
その空白の真ん中で、一度鳴った。
ドクン。
心臓の音だった。誰のものとも知れない鼓動が白い空白を一度叩き、二度目の音もなく消えた。俺は手を離さずに待った。作業灯の芯が一度爆ぜる間も、そのあとも、何も来なかった。
手を引いた。木綿の布の下で烙印がずきずきと疼いた。読み取るもののない品物に烙印を当てたのは初めてだった。俺はボタンを油紙ごと小さな錫の皿に移し、眼鏡を外して目頭を押さえた。
夜が明ける間に、霜は皿の縁まで伸びた。皿の下の絨毯にも白い輪ができたので、俺は皿を持ち上げて作業台の隅の石板の上へと移した。皿をどけた場所には、絨毯の短い毛足を掴んだ結晶が残った。
右手で石板の縁に触れた。ボタンを最初につまみ上げたときの冷気が指先に伝わった。近くの道具を片付けて皿を石板の真ん中へと押しやったが、皿の外へ伸びた結晶の先端は依然としてくっきりしていた。
日が広場の屋根の上に昇った頃、扉に掛けておいた閂を外して営業の準備をした。まもなく扉が開き、シオンが入ってきた。約束どおりだった。黒雲の傘を畳んで手にしたまま、少年は昨夜の特送手当の話から切り出した。
「店主さん、昨日の手当、台帳につけておいてくれましたか?」
「つけておいた。入って扉を閉めろ」
シオンが傘を作業台の角に立てかけた。俺は傘を移そうと身を向けた。石板の下へと降りてきた白い霜の筋が、傘の先に触れていた。
「その白いのは何ですか? 今日の明け方に拾ってきたんですか?」
「ボタンだ。触るな」
少年が手を後ろへ引っ込める間に、俺は傘の持ち手を掴んで扉のほうへと遠ざけた。ハルが研磨パッドから身を起こして低く唸った。傘を回すと、石突きの金具についた白い霜の筋が見えた。
その筋は傘骨に沿って畳まれた絹の内側へと続いていた。俺はシオンに後ろへ下がるよう言い、ボタンから離れた場所で傘を広げた。絹の内側からいつも立ち昇っていた温かい霧が、今日は一拍遅れて湧き上がった。九つの銀糸の結び目が内側の縫い目に沿って互い違いに並んでいた。八つ目までは無事だった。内側へ折りこんで隠した九つ目の結び目に、霜が降りていた。
左手の指先でその結び目に触れた。銀糸の上にひびが入っていた。霜が糸の内側まで食いこんで糸を二つに裂く寸前で、指先に引っかかる隙間が髪の毛一本分ほど開いていた。最初の日に俺が結んだ結び目だった。
「店主さん……?」
「少し待て」
俺は結び目に手を乗せたまま傘を読み取った。最初の日に読み取ったあの光景だった。14層の逆さに噴き上がる雨脚、少年の頭上に傘を差しかける手、群青色のマントの後ろ姿。そこまではそのままだった。
その次が違った。最初の日には、その雨脚の真ん中に白い雨合羽が立っていた。父親はその白いものに向かって歩み入っていった。ところが今、その場所には何もなかった。ボタンの上で見たのと同じ白い空白が、雨脚の真ん中を丸く抉り取っていた。父親の後ろ姿は残っていた。彼は空っぽの雨の中へと歩いていっていた。
俺は手を離した。霜が結び目に触れてからどれくらい経ったのかはわからなかった。確かなことはひとつだった。傘は昨夜まで持っていたものをひとつ、今朝失った。
シオンは扉のほうに立って俺の顔を見上げていた。俺は傘を畳まないまま、ボタンから遠い作業台の端に寝かせた。少年に椅子を勧め、俺は目線を合わせるために身を低くした。
「シオン。俺が今から言うことをよく聞け」
「はい」
「明け方に、あのボタンを読み取ろうとしたが何の光景も出てこなかった。持ち主が誰なのかもわからなかった。そうしている間に穴から霜が伸びて、皿の外へと広がった」
少年は傘を見下ろした。
「その霜がお前の傘の先に触れた。俺が移して広げたときには、九つ目の結び目まで上がってきていた。結び目にひびが入り、もう一度読み取ってみると、傘に残っていた記憶から一箇所が消えていた」
「……どこですか?」
「白い雨合羽が立っていた場所だ」
シオンの唇がわずかに開いた。少年は作業台に置かれた傘の持ち手を両手で握り、親指で擦り減った場所を撫でた。
「父さんは?」
「残っている。歩いていく後ろ姿のままだ。ただ、今は空っぽの雨の中へ歩いていくように見える」
少年はしばらく言葉を発しなかった。俺は傘の持ち手から少年の手が離れるまで待った。首を巡らせてみると、石板の縁にも白い線ができていた。
「そのボタンはどうなるんですか?」
「ひとまず他の品物に触れないようしまっておくつもりだ。俺の作業台の下に鉛の金庫がある。そこに封印しようと思う」
「壊しちゃダメなんですか?」
「壊したところで霜が止まるかはわからない。破片が飛び散ったら全部拾えるかもわからないしな。今は丸ごとしまっておいて、お前の傘にこれ以上触れないようにするんだ」
「じゃあ、そのボタンは父さんが歩いていった場所と関係があるんですか?」
「わからない。濡れない白だというだけを見て、同じ場所から来たものだとは言えないからな」
少年は傘の持ち手を握った手を見つめた。九つ目の結び目の先から落ちていた水滴を拭かなかった手だった。
「消えたところは、金庫に入れれば戻りますか?」
「今の俺には元に戻せない。金庫に入れるのも、これ以上触れさせないための処置だ」
シオンは頷いた。何度も頷いた。それから傘を持ち上げて絹の内側を覗きこむと、小さく言った。
「父さんが歩いていったほうさえ残っていればいいです」
少年はそう口にしてからようやく自分が何を言ったのか気づいたように、俺を見上げた。
「それでいいです、店主さん。しまってください」
「わかった」
シオンは傘を再び作業台の上に置いた。俺は身を起こし、作業台の下に膝をついた。楢の木の床板を二枚外すと、昨夜開けた鉛の金庫がそのままあった。シオンが椅子から降りて俺の隣にしゃがみこんだ。ハルは研磨パッドの上で耳を伏せたまま、そちらを見なかった。
布を巻いた左手を金庫の扉に乗せた。三つの錠前が昨夜と同じように順番に外れた。最後のひとつが掛け金を放すまで、今日もずいぶん時間がかかった。
金庫が開いた。黒い水晶の試薬瓶は昨夜の場所にあり、内側の金色の火の粉もあの遅い拍子で明滅していた。俺は作業台の隅から石板ごと皿を持ってきて、素手の右手で油紙ごとボタンをつまみ、試薬瓶の横の空いた場所に置いた。指先が再び痺れた。
ボタンが鉛の底に触れた瞬間、試薬瓶の中の金色の火の粉が傾いた。
蝋燭の火が風に靡くようにボタンのほうへと一度傾き、ゆっくりと元の位置に戻った。シオンは作業台に置かれた傘のほうへ顔を向けていた。俺は傾いた火の粉を見て手を止めてから、ボタンを置いた右手をゆっくりと引いた。火の粉が傾いた理由はわからなかった。
蓋を閉じた。三つの錠前が逆の順序で施錠され、左手を離すと烙印の鼓動も静まった。床板を元の位置にはめこみ、埃を掌で掃いて覆った。
「終わったぞ」
シオンはしばらくその床板を見下ろしていた。それから作業台の上の傘のほうへと手を伸ばした。
傘を畳む前に、俺は九つ目の結び目にもう一度触れた。霜はそれ以上伸びておらず、ひびはそのままだった。開いた糸を指先で寄せてみようとして、止めた。
「今日はここまでにしておこう。今これ以上触って、残っている光景まで傷つけたくはないからな」
シオンが傘の内側を覗きこんだ。俺は少年が頷いたあとでようやく、絹をゆっくりと寄せて畳んでやった。
シオンは扉の前で一度振り返り、広場のほうへと歩いて出ていった。走らなかった。
扉が閉まってから、俺は作業台に戻った。ハルが研磨パッドから降りてきて石板のあった場所を鼻で一度確かめると、そこでようやく長い欠伸をしてパッドの上へ戻っていった。絨毯の上の白い輪はそのままだった。
素手の右手で万年筆を取った。
カリ、カリ。
修繕台帳第1号の二十三行目。
[品番 No.023]
- 品名:霜が伸びる白いボタン
- 処置:修繕不可。作業台の下の鉛の金庫に封印。
- 収入:なし。
- 備考:持ち主なし、記憶なし、値付け不可。
インクが乾く間、俺はその行を読み返した。二十二行の間、一度も書いたことのない言葉が入っていた。作業灯の芯を絞ってもなお万年筆のキャップを閉められないまま、俺は最後の行のインクが紙の中へと染みこんでいくのを見つめていた。
(『塔にただ一軒の古道具屋』第11話 了)
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