第93話 発動
放課後。
ボクシング部の練習場には、雛、美玲、楸、姫奈、仁の五人が集まっていた。
リングの上では、ヒース・ハワードが軽快なフットワークでウォーミングアップを続けている。
五人に気付いたヒースは笑顔で手を振った。
「やあ、来てくれたね!」
その声に気付いたボクシング部部長も歩み寄ってくる。
「哀沢さん! ヒース先生に呼ばれたんだって?」
「スパーリングやる」
「マジで!? さっき二年のやつとスパーしてたけど、めっちゃ強かったよ?」
「楽しみ」
雛の返答に、美玲は苦笑する。
「部長さん、もう何言っても無駄ですよ」
「お姉様、戦闘モードですわね!」
姫奈が目を輝かせる。
「師匠、勉強させていただきます」
仁も真剣な眼差しをリングへ向ける。
「誰もストッパーいねぇのな。まあ、俺も止めねぇけど」
楸は肩を竦めた。
ヒースは呆れたように笑う。
「哀沢さん、本当に僕とスパーリングやる気かい? ジョークのつもりだったんだけど」
その時だった。
いつの間にかジャージへ着替え終えた雛が、軽々とリングへ飛び上がる。
両手には、すでにグローブが装着されていた。
「いつでも」
腕を突き出し、手首を二度内側へ曲げる。
来い来い、と言わんばかりの仕草だった。
「自信満々だねー! 手加減するつもりだけど、恨みっこなしだよ?」
「大丈夫。手加減するから」
その一言に、ヒースの眉が僅かに動く。
「ゴングを!」
部長が慌ててゴングを鳴らした。
試合開始。
「哀沢、わかってると思うが」
「雛、手加減よ!」
楸と美玲が同時に声を掛ける。
「お二人共、お姉様が負けるとは露ほども思ってらっしゃらないのね……」
姫奈が苦笑する。
「現役のボクシング世界チャンピオンが相手だったとしても、師匠が負けるとは思えんよ!」
仁は断言した。
ヒースが華麗なステップで雛の周囲を回る。
元学生チャンピオンの名に恥じない鋭いジャブ。
リズム良く放たれる牽制。
しかし。
一発も当たらない。
コンビネーション。
フェイント。
左右の打ち分け。
様々な攻撃を繰り出すが、やはり雛を捉える事は出来なかった。
「すごいフットワークだね」
「もうわかった」
雛は静かにガードを下げる。
「解析が終わったのか」
楸が呟く。
「どういうことですの?」
姫奈が尋ねる。
「まあ、見てろ」
楸は短く答えた。
ヒースが軽く二度ジャンプする。
「本気で行くよ!」
先ほどまでとは比べ物にならない回転力。
怒涛のコンビネーションが雛へ襲い掛かる。
だが。
その全てが、雛の身体をすり抜けていく。
「え? すり抜けてるようにしか見えませんわ!?」
「完全に見切ってるから、最小限の動きだけで躱してるんだ」
仁が目を見開く。
「だから手加減が必要なのは、哀沢の方なんだよ」
楸は静かに言った。
「雛が全然攻撃してませんけど、楽しんでるのかな?」
美玲が首を傾げる。
「いや、どういう意図かは分かんねぇが、哀沢は警告しているように見える」
「まさか本気でヒース先生をスパイだと!?」
「さあな。でも、何か思うところはあるんだろ」
ヒースは驚愕の表情で拳を振るう。
「こんなバカな事が……!」
「納得した?」
「なっ!?」
ヒースが言葉を発しようとした、その瞬間。
雛のストレートが真っ直ぐ顔面へ突き刺さった。
「み、見えない……」
そのままヒースはリングへ大の字に倒れ込む。
部長が慌ててゴングを鳴らした。
「ヒース先生!」
「大丈夫。死んでないから」
「そういう問題じゃないんだけど……」
雛は興味を失ったようにリングを降りる。
四人もその後に続いた。
◇
しばらくして。
ヒースはゆっくりと目を開けた。
慌てて身体を起こす。
「哀沢雛は?」
「もう帰りました」
部長が答える。
「くっ!」
ヒースは部室を飛び出した。
「先生!?」
人気のない校舎裏。
周囲を見回し、誰もいない事を確認すると携帯電話を取り出す。
「僕だ。計画を発動しろ」
電話の向こうから返事が聞こえる。
「ああ、身柄を確保するだけでいい。傷をつけないように注意するんだ」
通話を切る。
ヒースは口元を歪めた。
「手荒な真似はしたくなかったが、仕方ない……」
卑屈な笑みが浮かぶ。
「プロが相手なら、たとえ哀沢雛でもひとたまりもないだろうさ」
朝礼での挨拶時の爽やかさは、欠片も残っていなかった。




