第90話 概念
哀沢家の庭でのトレーニングは続いていた。
"イメージ"の大切さを目の当たりにした仁は、一人サンドバッグの前へ立つ。
ゆっくりと目を閉じる。
呼吸を整え、穿孔を放つ自分の姿を頭の中で何度も思い描いた。
一歩踏み出す。
「はっ!」
鋭く突き出した貫手。
その指先が、僅かにサンドバッグへ食い込んだ。
「刺さりましたわ!」
真っ先に気づいた姫奈が声を上げる。
「やるな」
楸が感心したように頷く。
「仁君すごい!」
「やっぱり只者じゃないね!」
美玲と高山も惜しみない拍手を送った。
しかし当の仁は、自分の指先を見つめながら首を横へ振る。
「少しマシになった程度です」
雛は不思議そうに仁を見る。
「あれ使わないの?」
「あれですか?」
雛は答える代わりに、小さく息を吐いた。
次の瞬間。
目には見えない圧力が周囲へ広がる。
空気が張り詰め、その場にいた全員の肌が粟立った。
「これ」
雛は淡々と言った。
仁は目を見開く。
「気勢が上がった!?」
「なんだ?」
楸が仁を見る。
仁は興奮した様子で説明した。
「分かりやすく言うと、師匠を襲った時の俺の暴走状態です」
「あれまでお姉様は再現出来るんですの!?」
姫奈も驚きを隠せない。
雛は何事もなかったようにサンドバッグの前へ立つ。
拳を軽く当てる。
その姿勢のまま地面を踏み鳴らした。
震脚。
鈍い衝撃が足元から伝わる。
その瞬間。
サンドバッグの表面は何一つ変わらないまま、裏側だけが破裂した。
「これ使えば、仁も穿孔出来るはず」
仁は悔しそうに拳を握る。
「気勢を上げるのは、まだ自分の意思で出来ないんです……」
美玲が雛へ視線を向けた。
「雛、なんで出来るの?」
「イメージ」
即答だった。
高山は苦笑する。
「無理でしょ……」
雛は本気で不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
楸は腕を組み、小さく息を吐く。
「常識では出来ないという概念を取り払うところからって訳だな」
仁は再びサンドバッグの前へ立つ。
深呼吸を一つ。
目を閉じ、先ほど雛が見せた感覚を頭の中で繰り返す。
一歩踏み込む。
「ふんっ!」
一直線に走る貫手。
指先がサンドバッグへ触れた瞬間、僅かに仁の気勢が高まった。
貫手は先ほどより深く食い込み、指の根元までサンドバッグへ沈む。
「うぉっ!?」
成功した本人が一番驚いていた。
「先ほどより刺さりましたわよ!」
姫奈が嬉しそうに声を弾ませる。
「下地が出来てるってことだな」
楸の言葉に、美玲と高山も大きく頷いた。
「イメージトレーニング」
雛が静かに言う。
仁は自分の右手を見つめた後、深々と頭を下げた。
「この感覚を何度も頭の中で再現しろって事ですね。ありがとうございます、師匠!」
「仁君の雛への理解が深まってきてる」
美玲が微笑む。
「仁には負けませんわよ!」
姫奈も負けじと胸を張る。
「張り合うなよ」
楸が苦笑した、その時だった。
「そろそろ昼食にしませんか?」
庭へ姿を見せた紫亜が、一同へ穏やかに声を掛ける。
「食べる」
雛は即答した。
一同は笑いながらリビングへ戻る。
テーブルの上には、色鮮やかな料理が所狭しと並んでいた。
肉料理に魚料理。
色鮮やかなサラダ。
香り豊かなスープ。
どれも一流レストランを思わせる盛り付けで、食欲を誘う香りが部屋いっぱいに広がっている。
「紫亜さん、すごいです!」
美玲が思わず歓声を上げた。
姫奈も目を丸くしている。
「うちのシェフでも、これほどの物は……」
仁は料理と紫亜を交互に見比べ、小さく呟いた。
「この人も常識の外側なのか……?」
一同は笑いながら席に着き、豪華な昼食へ舌鼓を打つ。
そして食後。
運ばれてきた手作りのケーキを口にした全員が、再び驚きの表情を浮かべた。
その反応を見た雛は、小さく胸を張り、どこか得意げな笑顔を浮かべるのだった。




