第89話 イメージ
休日前の放課後、雛、美玲、姫奈、仁の四人は、揃って駅前へ向かって歩いていた。
新年度が始まったばかりの街には、同じように下校する学生達の姿が多い。並んで歩く四人の中で、美玲が明るい声を上げた。
「明日は休みだけど、みんな何か予定あるの?」
「トレーニングかな」
雛が何気なく答える。
「筋トレ? 引導流?」
「ううん、毘聚流」
「え?」
姫奈が足を止めかけ、仁も驚いて雛を見た。
「どういうことですか?」
「前に見た仁の動きで毘聚流は覚えたから、身体に馴染ませる」
雛は歩調を変えずに答えた。
美玲は以前にも似た話を聞いたことを思い出し、乾いた笑いを漏らす。
「引導流を覚えたのもそうだったよね……」
仁はしばらく雛の横顔を見つめていたが、意を決して足を止めた。
「明日、お家にお邪魔してもいいですか? トレーニングの邪魔はしませんので」
深々と頭を下げる。
「いいよ」
雛が即答した途端、隣にいた姫奈も慌てて前へ出た。
「わ、私も! 私もお邪魔してもよろしいでしょうか?」
「うん」
「あんた達だけだと心配だから、私も行くわね」
美玲が苦笑しながら二人を見る。
「紫亜さんにケーキ焼いてもらう」
その一言で、翌日の予定は決まった。
帰宅した雛を、いつものように紫亜が出迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
雛は自分の部屋へ鞄を置き、リビングへ戻る。紅茶の準備をしていた紫亜へ声を掛けた。
「紫亜さん」
「はい」
「明日、美玲と姫奈と仁が、うち来る」
紫亜は驚く様子もなく、すぐに人数を頭へ入れる。
「昼食とケーキでよろしいですか?」
「うん」
「久しぶりに腕を振るいますね」
「楽しみ」
雛が椅子へ腰を下ろしたところで、スマートフォンが鳴った。
画面には美玲の名前が表示されている。
「雛、明日の事なんだけど」
「うん」
「高山君に話しちゃったら、高山君と楸先輩も来たいって言い出しちゃって……」
雛はスマートフォンを耳に当てたまま、紫亜へ顔を向けた。
「紫亜さん、二人追加」
「かしこまりました」
紫亜は間を置かずに頷く。
「うん、大丈夫」
「ありがとう! 紫亜さんに、お手数お掛けしますって伝えてね」
「わかった」
電話を切ると、紫亜が確認するように雛を見た。
「楸さんと高山さんも来られるのですね」
「美玲がお手数お掛けしますって」
「問題ございません」
紫亜はティーポットから紅茶を注ぎ、雛の前へ置いた。
「紫亜さん、サンドバッグってまだあったっけ?」
「四つほどございますが、追加しておきますか?」
「うん」
「では、今日中に準備しておきますので、ご心配なく」
「ありがとう」
雛は紅茶を一口飲み、翌日のトレーニングへ向けて静かに息を吐いた。
翌朝。
美玲、楸、高山、姫奈、仁の五人が哀沢家へ集まった。
「おはようございます。お邪魔します!」
玄関先で声を揃える五人を、雛と紫亜が出迎える。
「おはよう」
「ようこそいらっしゃいました」
姫奈は紫亜の姿を見るなり、背筋を伸ばした。
「この方が紫亜さんですのね」
仁も紫亜から目を離さず、小さく呟く。
「雰囲気あるな……」
楸が一歩前へ出た。
「悪いな、俺と高山も追加になって」
「ごめんね、哀沢さん!」
「大丈夫」
雛は気にした様子もなく答える。
「まずは皆さん、お茶でもいかがですか?」
「ありがとうございます!」
美玲が真っ先に返事をした。
一同がリビングへ移動すると、美玲以外の四人は足を止め、興味深そうに室内を見回した。
広々とした空間には上質な家具が揃っているものの、華美な装飾はなく、落ち着いた雰囲気で統一されている。
「そっか、私以外は雛ん家初めてだね」
「ああ、広いな」
楸が室内を見渡しながら頷く。
姫奈は紫亜の背中を確認し、小声で仁へ耳打ちした。
「ウエストガーデングループ総帥の家にしては、豪邸ではないですわね……」
「大豪邸を想像してたんだけどな」
ぴくりと紫亜の耳が動いた。
「雛様と二人暮らしですから、この広さで十分なのですよ」
姫奈と仁の肩が同時に跳ねる。
「失礼に聞こえましたら申し訳ございませんわ!」
「すみません」
二人は慌てて頭を下げた。
「お気になさらずに」
紫亜は変わらぬ微笑みを浮かべ、用意した紅茶を一人ずつの前へ置いていった。
温かな香りがリビングに広がる。
紅茶を飲みながらしばらく談笑した後、雛がおもむろに立ち上がった。
「そろそろ始める」
そのまま庭へ向かって歩き出す。
五人もカップを置き、雛の後を追った。
庭には等間隔に四本のサンドバッグが吊るされていた。前日までとは違い、大人数でも十分に動けるよう、周囲も綺麗に整えられている。
雛は広い場所へ進み、ゆっくりとストレッチを始めた。
足を大きく開き、上体を床すれすれまで倒す。そこから何の抵抗もなく身体を捻り、常人なら痛めかねない角度まで関節を動かしていく。
ヨガの達人を思わせる柔軟性に、見守っていた五人から声が漏れた。
「すげぇな」
「柔らかーい!」
「さすがお姉様」
「さすがどころじゃないぞ」
「やっぱり規格外だ」
雛は一通り身体をほぐすと、中央へ立った。
呼吸を整え、静かに構える。
直後。
雛の身体が滑るように動き始めた。
拳。
掌底。
手刀。
肘。
膝。
仮想の敵へ向けて、淀みなく攻撃を繰り出していく。
楸が目を細める。
「引導流……じゃないな」
「毘聚流です」
仁が即座に答えた。
「仁の動きですわね」
「引導流より力強いですね」
高山が二つの流派の違いを見比べる。
「そうなんだ」
美玲は目の前で繰り広げられる動きへ視線を戻した。
雛の一撃一撃は、全て仮想の敵の急所へ正確に向けられている。
喉。
こめかみ。
心臓。
肝臓。
人体の脆い箇所を寸分違わず狙い、攻撃と攻撃の間に無駄な動きがない。
「哀沢の攻撃で敵が浮かび上がって見えるな」
楸の言葉通り、そこに誰もいないはずなのに、雛の前には攻撃を受け続ける人間の姿があるように見えた。
「毘聚流の攻撃そのままですわ」
「全ての攻撃が急所を狙ってます。なんて正確な……」
仁は瞬きもせず、雛の動きを追う。
高山と美玲は声を出すことも忘れ、ただそのシャドーを見つめていた。
ひとしきり動きを繰り返した雛が、静かに足を止める。
「ふぅー」
長く息を吐き、構えを解いた。
仁は驚きに目を見開いたまま、雛へ詰め寄る。
「師匠! 今のシャドー、俺が見せた以外の毘聚流の技も含まれてましたよね!?」
「元々毘聚流を知っていたんですの?」
姫奈も雛の顔を覗き込む。
「いつもの事よ」
美玲が慣れた口調で答えた。
「ですね」
高山も迷わず同意する。
楸は腕を組み、仁へ説明した。
「哀沢は、一度見た相手の動きから、見せてない技も含めて全て解析できるんだよ」
「なっ! そんな事が!?」
「理解が追いつきませんわ!」
「なんで出来るのか聞かない方がいいぞ。聞いても分からんからな……」
美玲と高山が揃って頷く。
雛は三人の会話を気にせず、一本のサンドバッグへ向き合った。
力みのない姿勢で立ち、右手を手刀の形に整える。
踏み込む動作すら見えなかった。
次の瞬間、雛の手刀がサンドバッグへ突き刺さり、手首まで深く埋まっていた。
「穿孔!」
仁が声を上げる。
「仁はどこまで出来るの?」
雛はサンドバッグから手刀を引き抜いた。
「まだ刺さりません。サンドバッグが後ろに動くだけです……スピードが足りないんですかね?」
「違う」
「じゃあ、力ですか?」
雛は隣のサンドバッグへ視線を移した。
「……イメージ」
「イメージ……?」
五人の声が重なる。
「今のはただ手刀を突き入れただけ。でも、イメージすると」
雛は隣のサンドバッグの前へ立ち、先ほどと同じように手刀を突き入れた。
サンドバッグへ手首まで埋まる。
その瞬間。
反対側から鋭い音が響き、内部を抜けた衝撃が表面を突き破った。
「え!?」
仁はすぐさまサンドバッグの裏側へ回り込んだ。
「手刀の形にサンドバッグが破れてる!」
残る四人も反対側へ回る。
そこには、手刀の形そのままに裂けた跡が残されていた。
「単に衝撃で破れたんじゃねぇな」
楸が破れた箇所を覗き込む。
「手刀の形ですもの」
姫奈も裂け目へ顔を近づけた。
「まるで、腕がここまで伸びたみたいな……」
「そういうイメージ?」
美玲が雛を見る。
「まさか」
高山が息を呑んだ。
雛はサンドバッグから手刀を引き抜く。
「腕か指がサンドバッグを突き抜ける長さを持ってるとイメージして突く」
「そんな、イメージ出来たとしても、物理的に無理ですよ!」
仁が声を張り上げる。
「おじさんが言ってた……イメージは物理を超える」
「……え?」
仁が言葉を失う。
雛はさらに隣のサンドバッグへ移動した。
先ほどまでと同じように手刀を構える。
今度はサンドバッグへ手を埋めず、表面を突いた瞬間に素早く引いた。
「ほら」
雛に促され、仁がサンドバッグへ近づく。
表面には、薄紙一枚分ほどの幅しかない亀裂が刻まれていた。
急いで裏側へ回る。
同じ幅の亀裂が、反対側まで真っ直ぐに通っていた。
「手刀の幅より薄い!?」
「自分の手が薄い刃物だとイメージしたのか……」
楸が亀裂を指先でなぞる。
「仁、出来るの?」
姫奈が隣に立つ仁を見上げた。
「理屈は分かりました」
「おおっ!」
高山が期待を込めて声を上げる。
「出来そうなの?」
美玲も仁の返答を待った。
仁は二本のサンドバッグを交互に見た後、大きく息を吐いた。
「実際に出来るところを見ても、出来る気がしません!」
両手で頭を抱える。
その姿を見た一同は、揃って納得のため息を吐くのだった。




