第73話 練習開始
雛の歌声が残した衝撃は、まだ軽音部の部室に残っていた。
軽く歌っただけなら、綺麗だった。
思わず聞き惚れるほどに。
だが、ほんの少し声量を上げた瞬間、全員が反射的に耳を押さえた。
美しい。
そして危険。
その二つが同時に成立していることに、一同はしばらく言葉を失っていた。
「哀沢さんにもボーカルやってほしいなー……!」
最初に沈黙を破った原田の声には、未練が滲んでいた。
「いやいや、さっきの聴いたでしょ!」
武藤が即座に首を横に振る。
「フェス会場で何人も倒れたら……」
小谷が青い顔で呟く。
「うちら出禁になるかも!」
本郷も苦笑した。
「部長、ボーカルは諦めましょう」
松本が真顔で言い、美玲も静かに頷いた。
「それがいいと思いますよ」
全員の視線が雛へ向く。
「?」
雛だけが理由を分かっていない顔で首を傾げていた。
原田は咳払いして、話を切り替える。
「哀沢さん、ギターはやってもらえるの?」
「いいですよ」
あっさりした返事だった。
「フェスまであと三日しかないんだけど大丈夫……か」
武藤は途中で納得した。
さっき見たベースとギター。
そして、別の意味で危険だった歌。
少なくとも技術面で疑う理由はなかった。
「哀沢さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
小谷が手を上げる。
「はい」
「キーボードのパートも演ってみてくれない?」
雛は頷き、キーボードの前に座った。
鍵盤に指を置き、迷いなく弾き始める。
動画で流れていたキーボードのパート。
音の入りも、間も、強弱も正確だった。
それでいて、音の輪郭は一段澄んでいる。
「ああ……完璧!」
小谷は力が抜けたように息を吐いた。
「すごいわ」
原田も感嘆する。
「自分に足りない物が分かった気がする」
本郷も真剣な顔で頷いた。
「これを参考にすれば、レベルが格段に上がりそうだね」
その言葉を聞いた武藤が、勢いよく雛へ向き直る。
「哀沢さん……」
「はい」
「ドラムもお願いしていい!?」
雛はドラムセットへ移動した。
スティックを握り、軽く感触を確かめる。
次の瞬間、部室に力強い音が響いた。
パワフルで、乱暴ではない。
細かい刻みは正確で、足元のリズムも崩れない。
曲を支えるはずのドラムが、逆に曲そのものを引っ張っていくような迫力を持っていた。
武藤は呆然と見つめている。
松本がぽつりと呟いた。
「完璧超人だ……!」
美玲が横から付け足す。
「歌声で死人が出るかもしれませんけどね」
全員が引きつった笑いを浮かべた。
「セイレーンじゃないんだから」
原田が額に手を当てる。
「もっと直接的よ」
武藤が真顔で返した。
原田はパンッと手を叩く。
「とにかくあと三日! 哀沢さんのギターだけが浮かないように、うちらも死にものぐるいで練習するよ!」
「はい!」
原田以外の部員達が一斉に返事をした。
本郷は包帯を巻いた手を見てから、雛へ向き直る。
「何も出来ないけど、見には来ますね。哀沢さん、お願いね」
「はい」
雛は静かに頷いた。
◇
帰り道。
雛と美玲は並んで歩いていた。
「雛の歌声、綺麗だったのに、本番で聴けないの残念」
「紫亜さんに止められてるから」
「普段、雛が声小さめなのって、もしかしてあれのせい?」
「紫亜さんが、大きな声を出すのは手足を拘束された時だけにした方が良いかとって」
美玲の表情が固まった。
「どんな環境で生きてきた……いや、言わなくていいからね!」
「わかった」
雛は素直に頷いた。
美玲は額を押さえる。
聞きたい。
けれど、聞いたら戻れない気がする。
最近、その判断だけは少し上達していた。
◇
哀沢家。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
紫亜が玄関で迎える。
リビングへ向かった雛は、ソファに腰を下ろした。
「紫亜さん」
「はい」
「今日、みんなの前で少し歌った」
紫亜の表情が、ほんのわずかに変わる。
「死人も怪我人も出てませんね?」
「途中で止められたから大丈夫」
「それなら良かったです」
紫亜は小さく息を吐き、胸を撫で下ろした。
「フェス?で、ギター弾くことになった」
「フェスはいつでしょう?」
「今度の土曜日」
「練習期間は三日間なのですね」
「うん」
紫亜は穏やかに微笑んだ。
「頑張ってくださいね」
「全力出さないように気をつける」
紫亜は静かに頷いた。
その言葉の意味を、誰よりも正確に理解していた。
◇
翌日から、軽音部で練習が始まった。
放課後の部室には、昨日とは違う緊張感がある。
「まずは全員で合わせてみよっか!」
原田がマイクの前で言う。
「OK」
「はい!」
「了解です」
「わかりました」
それぞれが位置につき、演奏が始まった。
最初の数小節は悪くなかった。
だが、すぐにズレが出る。
雛のギターは正確だった。
音も走らない。
リズムも乱れない。
それなのに、周囲が少しずつ遅れていく。
雛の音に引っ張られ、焦り、力み、いつもなら間違えない場所で指がもつれる。
曲が終わる前に、原田が手を上げた。
「あちゃー……」
全員が演奏を止める。
「みんな、気持ちは分かるけど」
「ごめん」
武藤が肩を落とす。
「うー……」
小谷も唇を尖らせる。
「ついてけない」
松本はベースを抱えたまま項垂れた。
雛は部員達の表情を見て、少し心配そうに眉を下げる。
「ごめんなさい」
原田が慌てて首を振った。
「哀沢さんのせいじゃないよ。みんなが気負いすぎてるだけ!」
「そうだね」
武藤が息を吐いて頷く。
原田は全員を見回した。
「みんな、哀沢さんに自分のパート演ってもらった時の音源持ってるよね?」
「もちろん」
「昨日から聴いてます」
「私もです!」
「じゃあ、みんなで合わせるのは前日にして、それまで各自で音源にシンクロする練習しよう」
「わかりました!」
部員達の声が揃った。
「そういう訳で哀沢さん、前日に全員で合わせよう」
「はい」
雛は頷いた。
◇
哀沢家。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
紫亜はいつものように雛を迎えると、帰宅した時間に気づいて小さく首を傾げた。
「早かったですね」
「前日まで各自で練習になった」
「なるほど」
紫亜は短く答えただけだったが、その一言には事情を察した響きがあった。
雛はリビングへ入り、少し考える。
「ギター借りてくればよかった」
「雛様」
「ん?」
紫亜は奥の部屋から大きな箱を運んできた。
「こちらをどうぞ」
雛は箱を受け取り、慎重に蓋を開ける。
中には、一本のギターが収められていた。
黒地に金のライン。
鋭い形状。
雷を思わせるようなデザイン。
照明を受けるたび、金のラインが細く光る。
「おお……」
雛の目がわずかに輝いた。
紫亜は静かに説明する。
「ギターソロの全力に耐えられるギターです」
「ありがとう紫亜さん」
「当日は私も応援に行かせていただきますね」
雛はギターを見つめたまま頷いた。
「楽しみにしてて」
珍しく気合いの入っている雛だった。




