第69話 深淵
準決勝前のインターバル。
道場内には緊張した空気が漂っていた。
ここまで勝ち残ったのは四人。
優勝まで、あと二勝。
祥子は雛を見つめる。
「準決勝の相手は投げ主体だけど、対策は?」
「問題ない」
即答だった。
楸が苦笑する。
「聞くだけ無駄だぜ?」
高山も笑う。
「もう決勝しか見てないですね」
美玲は当然というように頷く。
「雛だもの」
祥子だけが頭を抱えた。
「心配してるの私だけ!?」
その時。
審判が試合場中央へ進み出た。
「準決勝第一試合、代表者前へ」
二人が静かに歩み出る。
「引導流伊集院家対引導流鮎原家。禁じ手はありません。よろしいですね?」
二人は頷いた。
「始め!」
開始と同時に、鮎原は不用意に踏み込まなかった。
雛の見えない突き。
息継ぎなく続く連撃。
神代を投げ飛ばした技。
ここまでの試合を見ているからこそ、慎重にならざるを得ない。
一方の雛も攻めない。
ただ静かに鮎原を観察していた。
呼吸。
視線。
重心。
全てを見極めるように。
やがて鮎原が構えを変える。
組み技へ持ち込む間合い。
雛の攻撃を誘っていた。
祥子が小さく呟く。
「攻めない……?」
高山も不思議そうに言う。
「あの突きなら掴めないのに」
楸は静かに試合を見つめていた。
「何か考えがあるんだろ」
美玲は拳を握る。
「雛、頑張って!」
その声に応えるように、雛が踏み込んだ。
速くない。
まるで掴んでくれと言わんばかりの速度。
鮎原の目が光る。
雛の腕を掴む。
そのまま姿勢を固定し、組打ちへ移ろうとした。
しかし。
雛は引っ張られる力へ逆らわなかった。
一歩踏み込み。
二人の距離が一気に縮まる。
密着。
雛の拳が静かに鮎原の心臓の上へ添えられた。
次の瞬間。
鮎原の身体から力が抜ける。
静かに。
その場へ崩れ落ちた。
楸が思わず笑う。
「やりやがった!」
祥子は目を丸くする。
「何!?」
鮎原はピクリとも動かない。
審判が駆け寄る。
「勝者、引導流伊集院家!」
担架が運び込まれ、鮎原は静かに運ばれていった。
美玲が小さく呟く。
「あれって」
高山も楸を見る。
「もしかして」
楸は頭を掻いた。
「俺が殺されかけたやつだよっ!」
祥子が目を見開く。
「世界チャンピオン殺しかけたの!?」
楸は苦笑する。
「チャンピオンになる前の話だ……」
戻ってきた雛を見る祥子。
「何あの技?」
「大丈夫、死んでないから」
祥子は頭を抱えた。
「そういうことじゃなくてー!」
◇
準決勝第二試合が始まる。
審判が中央へ立つ。
「代表者前へ」
二人が歩み出る。
「引導流樹家対引導波涛流才谷家。禁じ手はありません。よろしいですね?」
二人は頷いた。
「始め!」
樹は慎重だった。
狙うのは投げ。
才谷の力を利用し、一気に勝負を決めるつもりだった。
一方の才谷も、それを理解している。
だからこそ迷わない。
渾身の突きを放つ。
樹は待っていた。
腕を取る。
一本背負いの体勢。
誰もが投げを予感した。
その瞬間。
才谷の肘が鋭く振り抜かれる。
樹の後頭部へ直撃。
鈍い音が道場へ響いた。
楸が思わず声を上げる。
「禁じ手なしならではの攻撃か!」
美玲は思わず目を覆う。
「きゃっ!」
高山も息を呑む。
「あれはヤバい!」
祥子は小さく息を吐いた。
「意図がバレバレだったわね……」
樹はそのまま脳震盪を起こし、崩れ落ちる。
審判が勝敗を告げた。
「勝者、引導波涛流才谷家!」
才谷は小さく息を吐いた。
決勝。
相手は雛。
ゆっくりと顔を上げる。
どうだと言わんばかりに雛を見る。
その瞬間。
目が合った。
動きが止まる。
ただ静かに。
自分を見る雛。
その瞳には感情の揺らぎがない。
まるで。
どこまでも底が見えない井戸を覗き込んだような感覚。
才谷は初めて、自分の背中を冷たい汗が流れるのを感じていた。




