第60話 全力
哀沢家。
休日の朝。
リビングで紅茶を飲みながら、雛は紫亜へ声を掛けた。
「紫亜さん」
「はい」
「トライアスロン出るのに、水着はいいとして、靴と自転車どうしよう」
紫亜は穏やかに微笑む。
「用意してありますよ」
「そうなの?」
「試してみますか?」
「うん」
◇
二人は庭へ出た。
朝日に照らされる一台のロードバイク。
その横には専用のバイクシューズ。
雛の目が少しだけ輝く。
「おお……」
紫亜はロードバイクへ歩み寄る。
「シューズはバイク用シューズです」
続いてフレームを軽く叩く。
「バイクは今回はオリンピックルールなので、ロードバイクをご用意しました」
雛はシューズへ履き替え、軽くペダルへ足を乗せる。
そのまま跨った。
「ちょっと外走ってくる」
「ええ、どうぞ」
次の瞬間。
ロードバイクが勢いよく飛び出した。
静かだった住宅街から、一瞬で姿が消える。
◇
数分後。
ロードバイクが庭へ滑り込んできた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
雛はバイクを降りる。
「この自転車。タイヤが丈夫」
紫亜は静かに頷いた。
「雛様の全力に耐えられるように、特注のタイヤにしております」
「そうなんだ」
紫亜は一枚の封筒を差し出す。
「エントリーも済ませてありますので、思い切り楽しんできてくださいね」
雛は受け取る。
「頑張る」
◇
大会当日。
紫亜の運転するミニバンが大会会場へ到着する。
助手席には雛。
後部座席には美玲、高山、楸。
朝から多くの参加者で賑わっていた。
「着きましたよ」
紫亜が車を停める。
雛はドアを開けた。
「雛、頑張ってね!」
美玲が笑顔で手を振る。
「哀沢さん、ファイト!」
高山も拳を握る。
楸は腕を組んだまま笑った。
「俺は何も心配してないぜ」
「うん」
雛は静かに頷き、受付へ向かった。
◇
スタート地点。
参加者達が緊張した面持ちで整列する。
その中で雛だけは普段通りだった。
黒地に金のラインが入った競技用水着。
静かにスタートを待つ。
号砲。
一斉に飛び込む選手達。
「スタートした!」
美玲が声を上げる。
「まずはスイムか」
楸が腕を組む。
高山はパンフレットを見ながら説明した。
「距離は1.5kmですね」
「オリンピック選手でもタイムは20分くらいみたいですけど」
美玲は苦笑した。
「雛だから」
楸も頷く。
「哀沢だからな……」
◇
約八分後。
最初の選手が姿を現した。
「え?」
美玲が固まる。
「雛?」
誰よりも早く上陸したのは雛だった。
後続は誰も見えない。
「まだ10分経ってませんけど!?」
高山が叫ぶ。
「嘘でしょ!?」
美玲も目を丸くする。
楸は額へ手を当てた。
「マジか……」
◇
雛は素早くバイクシューズへ履き替える。
ロードバイクへ跨る。
一気に加速。
あっという間に視界から消えた。
紫亜が穏やかに言う。
「皆さん移動しましょうか」
一同は車へ乗り込む。
高山はスマホを見ながら呟く。
「バイクは40km。1時間以上はかかるんですが……」
楸は苦笑した。
「高山、タイムはもう言わなくていい」
「うん、参考にならないから」
美玲も苦笑する。
紫亜は微笑んだ。
「雛様ですからね」
◇
バイクコース終点。
大会スタッフがざわつき始める。
「一位、戻ります!」
「早すぎる!」
四十分も経たないうちに、雛が戻ってきた。
後続は、まだ誰も見えない。
美玲が周囲を見回す。
「参加者って、雛だけでしたっけ?」
楸が吹き出した。
「んなわけねぇだろ」
高山も苦笑する。
「追いつけないだけだって……」
◇
ラン。
雛はシューズを履き替え、そのまま走り出す。
高山が反射的に口を開く。
「ランは10kmです」
楸はすぐ止めた。
「そこまででいいぞ」
美玲も頷く。
「聞くだけ無駄ね」
雛は一定のフォームで走る。
10kmを走る選手とは思えない速度。
後続との差は開く一方だった。
レースではない。
もはや独走だった。
そのままゴールテープを切る。
◇
大会本部。
「ありえない!」
「計測ミスじゃないのか!」
「計測チップを確認しろ!」
スタッフ達が慌ただしく動き回る。
「異常ありません!」
「全部正常です!」
「誰なんだ一体!?」
「強化選手にスカウトするんだ!」
本部長も大きく頷く。
「すぐに本人を──」
その時。
電話が鳴る。
「はい」
「……え?」
「は、はい!」
「分かりました!」
電話を切る。
静まり返る本部。
「どうしました?」
本部長は短く答えた。
「あの選手へのスカウト行為は、一切しないように!」
「え?」
「上からのお達しだ……」
誰も理由を聞けなかった。
◇
表彰式。
一位の表彰台は空席だった。
二位。
三位。
二人だけが祝福を受ける。
◇
帰り道。
助手席には賞状とメダルを抱えた雛。
美玲が笑う。
「表彰式、出なくてよかったの?」
高山も頷く。
「世間の注目を浴びるチャンスだったのに」
楸は笑った。
「そんなもんに興味ねぇんだろ」
雛は賞状を見ながら呟く。
「楽しかった」
紫亜は穏やかに微笑んだ。
「よかったですね」
「祝勝会用の料理を準備してあるのですが、皆さんもご一緒にいかがですか?」
美玲が目を輝かせた。
「いいんですか?」
「もちろんです」
雛も嬉しそうに頷く。
「楽しみ」
高山が楸を見る。
「楸先輩、祝勝会用の料理って……」
楸は苦笑した。
「想定通りって事だ」
「もう何も考えるな」
高山は諦めたように笑う。
「そうします……」




