音声だけの女
翌朝、深紅の船が現れた。
音もなかった。予告もなかった。重力探知機が静かに反応したと思った次の瞬間、観測ドームの強化ガラスの向こうに、それはいた。
コブラの荒々しい黒とは対極にある、血のような深紅の船体。細身で美しく、しかし底知れぬ死の気配をまとっている。船首に刻まれた、一本の白い薔薇。宇宙の誰もが知っている紋章だった。
紅い船は、シャーウッド船団を見下ろすように、静かに、圧倒的な威圧感を持って停まった。主砲の砲門は閉じている。ハッチも開いていない。ただ、そこにいる。それだけで艦橋の空気が変わった。
「……メラルド号です」
エリオの声が、いつもより半音低かった。
「手出しはするなよ」
シオンはメインスコープから目を離さず、短くなったベレー帽の縁をそっと直した。
「来るつもりがあるなら、もう来ている。あの船はただ——こちらを見ている」
通信要求が来たのは、それから十五分後だった。
音声のみ。映像なし。シャーウッドの規格に合わせた、丁寧な有線接続だった。アナログの船団に対して、アナログの方法で来た。それだけで、相手が何者かを分かった上で来ていることが分かった。
「繋げ」
エリオがスイッチを入れる。短いノイズの後、声が来た。
低い声だった。鈴を転がすような音域なのに、凍てついている。感情を乗せることを、最初から拒絶している声だった。
『シオン提督。あなたは今、狙われている』
艦橋の誰も動かなかった。
「誰に」
シオンは答えを知っているような聞き方をしなかった。ただ、聞いた。
『連邦の保存機関。あなたの船団は——理想の標本だ。デジタルに汚染されていない、最後の人間の集落として』
「それは光栄だね」
シオンは少し笑った。笑い方は軽かったが、目は笑っていなかった。
「標本にされるのは御免だが」
沈黙が来た。艦橋のどこかで、計器の針が揺れる音だけがしていた。
それからメラルドが言った。
『怖くないのですか。永遠に逃げ続けることが』
シオンは答えなかった。
答えない、ということが答えだった。怖い、と言えば嘘になる。怖くない、と言っても嘘になる。だから黙った。黙ることが、この問いへの唯一の誠実だった。
メラルドの声が続いた。
『私は怖い』
一拍。
『——だから聞いた』
通信が切れた。
艦橋がしばらく静かだった。
エリオは通信パネルを見ていた。何かを確認するわけでもなく、ただ見ていた。シオンは窓の外の深紅の船を見ていた。
「……提督」
「なんだ」
「あの船は、どうするつもりですか」
シオンは少し間を置いた。
「さあね」
「追い払いますか」
「追い払う気にはなれない」
エリオはもう一度、通信パネルを見た。それから深紅の船を見た。
「怖い、と言いました。あの人が」
「聞こえていたか」
「聞こえていました」
シオンはベレー帽の縁を一度だけ触った。
「怖いと言える人間は、信用できる」
それだけだった。
その夜、深紅の船は動かなかった。
シャーウッド船団から少し離れた場所に停まったまま、主砲も、ハッチも、通信も、何も動かさなかった。ただそこにいた。見張りをしているのか、考えているのか、それとも別の何かなのか、誰にも分からなかった。
翌朝、船団が進路を変えた。
深紅の船も、同じ方向へ動いた。距離を保ったまま、音もなく、ついてきた。
エリオがシオンに報告した。シオンは紅茶を一口飲んでから言った。
「記録しておけ」
「何をですか」
「ついてきた、という事実を」
エリオは手帳を出した。書いた。それだけだった。
深紅の船は、その日も、その次の日も、黙ってついてきた。通信は来なかった。近づいてもこなかった。ただ、いた。




