負けた相手
警告灯が消えてから、三十分が経っていた。
シオンはギルモア議員への謝罪を済ませ、Cブロックの修理班に技術兵を二名回し、戻ってきた艦橋でようやくアールグレイを一口飲んだ。温かかった。エリオが淹れ直していた。
「提督」
「なんだ」
「座標の件ですが」
「後でいい」
エリオは一拍置いてから「分かりました」と言った。その一拍が何を意味するか、シオンには分かっていた。分かっていて、後でいい、と言った。
艦橋に、通常業務の音が戻っていた。計器の針が揺れる音。有線通信の断続するノイズ。誰かが遠くで笑っている声。シャーウッドの「生活」が、戦闘の三十分後にはもう回っている。シオンはそれを、椅子の背もたれに深く寄りかかったまま聞いていた。
悪くない、と思った。毎回思う。思うたびに、少し意外な気がする。
重力探知機が鳴ったのは、その時だった。
通常の警告音ではなかった。不規則な金属音——壊れたように跳ね上がり、また落ちる。帝国の艦艇ではない。連邦の規格でもない。シオンはアールグレイを置き、メインスコープを覗いた。
「……来た」
「何がですか」
「さっきの連中とは匂いが違う」
宇宙の闇を切り裂き、一筋の黒い閃光が突進してくる。帝国の洗練された造形とも、連邦の無骨な機能美とも違う。まるで巨大な死神の髑髏が虚空を泳いでいるかのような、禍々しくも美しい一本の船影。
超高速。一直線に、ペレグリンの艦首へと向かってくる。
「特攻を仕掛ける気か!? 提督、主砲が間に合いません!」
艦橋に悲鳴が走る。
「落ち着け」
シオンの声は静かだった。怒鳴らなかった。
「砲門は開いていない。エネルギーの集束もない。あれは攻撃じゃない——ただの挨拶だ」
シオンの読み通り、黒い船はペレグリンの直前で急制動をかけた。物理法則を無視したような止まり方だった。木造の船体が、ミシミシと軋み声を上げる。超重力の衝撃波がペレグリンの防壁を叩き、激しい震動がブリッジを襲った。
ガシャーン、とシオンのデスクの上のアールグレイが床に落ちて割れる。
「……手荒い挨拶だねえ」
シオンは片手で手すりを掴みながら、割れたカップを見た。惜しい、と思った。エリオが淹れ直したやつだった。
黒い船は、ペレグリンの横をすれ違いざま、一度だけ、その艦首に掲げられた海賊旗を翻した。通信を拒絶するこのアナログ船団に対して、視覚という最古の方法で「個の旗」を突きつけてきた。それだけだった。
それだけで、十分だった。
コブラの船は追撃するでもなく、そのまま優雅に星雲の彼方へと進路を変える。
「……行った、のか? 一体何のために」
エリオが冷や汗を拭いながら呟く。
「俺たちが、自分の足で立っている本物かどうかを確かめに来たのさ」
シオンは割れたカップの破片を、足で踏まないよう避けながら言った。
「群れることを嫌う連中にとって、この移動共和国という群れが、ただの腑抜けた難民の集まりか、命懸けの自由人か——それが知りたかった」
「合格、ということですか」
「さあね」
その時、艦橋の有線通信パネルが、かすかなノイズを立てた。
暗号回線だった。シャーウッドの規格ではない。コブラの船が去り際に、独自の有線を繋いでいったらしい。エリオが眉をひそめて確認する前に、シオンは「繋げ」と言った。
短い雑音の後、声が来た。
乾いた声だった。愉快そうでも、凄んでいるわけでもない。ただ、何かを確かめた後の人間の声だった。
『負けた相手にしか興味はない。だがあんたたちは負けなかった』
一拍。
『——厄介なことになったな、提督』
通信が切れた。
艦橋が静かになった。エリオが通信パネルを見ている。シオンは割れたカップの破片を見ている。誰も何も言わなかった。
「……どういう意味ですか」
エリオがようやく言った。
「さあね。でも次に会う時は、もう少し詳しく話してくれるだろう」
シオンは立ち上がり、破片を避けながら窓の前に立った。コブラの船が去った方角を見た。星雲の淡い光の中に、黒い影はもうなかった。
エリオは通信パネルの記録を確認していた。コブラが繋いできた有線の発信方角を割り出した。それから、一章で記録した暗号座標の方角を確認した。
一致していた。
エリオはシオンを見た。シオンは窓の外を見たままだった。ベレー帽の縁を、一度だけ触った。
エリオは何も言わなかった。シオンはすでに知っていた、という顔をしていたから。




