初恋 前
村下孝蔵さんの歌に『初恋』という名曲がありますが、
本作はそれをエンドレスに聴きながら執筆してみました。
しまったという思いが、汗をかいた何杯目かのカクテルグラスを見つめている心内に芽生えた。
これほど酒に強い女の子と飲み交わしたのははじめてで、意識ははっきりとしていたけれど、俺はもう呂律の方がかなり怪しくなりはじめている。
カウンター席の隣に座った芹沢恵理菜は、火照った顔を俺の側に向けて少し上目遣いに微笑していた。こうして見た限り、たぶん彼女は機嫌よく酒盃を重ねてくれていたのだと思う。
男をくすぐる仕草というのはこういうのを言うのだろう。特段会話も無く心地良い雰囲気の中で恵理菜の手持ち無沙汰になった手が、ワイングラスのくびれをにぎにぎしていた。そんな様を思わず注視してしまい、そしてあわてて視線を逸らす俺がそこにいた。
彼女に見惚れている時間がしばしばあった後、満足顔の恵理菜が口を開いた訳だ。
「ここにしよっか、サトシ?」
サークルのコンパが近々控えていて、幹事だった俺は恵理菜にコンパ会場の下見に行きたいから付いてきてくれって誘い出したんだ。
「雰囲気もすっごくいいし、女の子も喜ぶと思うよ」
本当の処、会場なんて何処でもよくて、もちろんそれは恵理菜を連れ出す為の口実だった。いかにも勝負服という感じの気障ったらしい俺の服装に、恵理菜が警戒心を抱くんじゃなかろうかと俺は感ぐったが、好都合にも彼女は快諾してくれた。
「サトシ、遊びまくってるだけあってこういう場所やっぱ詳しいんだねぇ?」
酔いに抗うために無言になってしまった俺に、さざ波の様にして恵理菜の声が俺の心に響く。俺は思わず返事に窮してしまった。それはもちろん、酔っていたからだけじゃない。
はじめはほんの軽い気持ちだったはず。
仲間内でも、節操が無い事で知られた俺だ。高校時代の、うだつの上がらない男子校生活から開放されて後、その反動の様にとにかく手当たり次第に女友達をこさえては遊びまくっていたのだから。たぶん悪気無く恵理菜が口にした言葉に、俺が独り合点とばかり内心に棘を感じて苦笑したのは当たり前の事だった訳だ。
仲間内ではあまり褒められた噂の無い俺を前にしても、この通り無警戒極まりない恵理菜だったから、口説くのは簡単な様に思えたはずなのに。
ところがどうだろうかと思う。気付けば、その一挙手一投足に眼を奪われている俺がいた。
まるであべこべにそうやってぼんやり彼女を眺めていると、恵理菜はひとり嬉しそうにメニューリストを見やった。
こいつまだ呑みたりないのかよ、と内心苦笑した。
「ウィスキーが呑みたいのか」
「あたし呑んだ事ないから……美味しいのはどれ?」
「口当たりがいいのから試してみたら? スコッチかアイリッシュならクセが無いから。じゃあ、これなんかどうかな」
カウンターの下で手を組んだ彼女がこっちを見て、微笑み返したんだ。
これにはまいった。
心が篭絡するというのは、こういうのを言うんだよ。恵理菜と俺の視線が交錯したと単に、俺は不細工な笑みを返すのがやっとだった。俺はかなり上気しているはずだが、今なら酒の所為にして誤魔化せる。
そうして、しばらく後に運ばれてきたのがブッシュミルズというアイリッシュウィスキーだった。
恵理菜が持ち上げたグラスの中でカラリと氷の解け崩れる音がして、はじめて呑むウィスキーに興味津々という具合でチロリと舌になじませながら口に含む様は、ひどく新鮮だった。
俺の方を見てうなずき、「うん、美味しい」と朱顔に幸せそうな満面の笑みを浮べてくれた。そんな姿に俺まで幸せになったんだよ畜生め。
まるで邪気の無いその顔を見てしまって後の俺は、少々自分が情けなくなってきたのである。
俺を前にして恵理菜の無邪気さに、これではかえって自分が邪悪以外の何者でもない事実を認識させられてしまった。酔いが急速に回りつつある今の俺は、この瞬間から色々と萎縮してしまった。
だから俺は、彼女に邪心を向けるのを辞めたんだと思う。
◆
ひとことで言い表すなら、大学生として相当やる気の欠落した生活を送っていた。。
ふたりで呑みに行った翌日は、まるまる自宅でゴロゴロと二日酔いに苦しんだ後、思い出した様に翌々日にサークルに顔を出す為にようやく学校に行ったぐらいだった。
そうした次第で、我が母校たる三流大学のさして広くも無いキャンパスを徘徊していると、友人の独りに出くわした訳である。
その友人、ワキさんというのだけれど彼に開口一番にこんな事を言われた。
「お前、この前はうまくいったのか」
この前のとはもちろん、恵理菜を誘い出した夜の事だ。色々赤面するような出来事をひとしきり思い出した後、俺はバツの悪い顔を浮べてこう言ったはずだ。
「聞くなよ」
「そうだろうな。芹沢さんならあっちで見かけた」
意味深にワキさんはニヤけ面を見せると、俺の反応を無視して付いて来いという風にしゃくれ顎でクイと合図をし、さっさと歩き出したんだったな。
学内の中庭を抜けて、しばらく歩くと敷地の端にあるカフェスペースのオープンテラスに恵理菜の姿を見つけた。彼女は俺の記憶の中には存在しない男と楽しそうに話していた。
「誰よあいつ?」と、俺は男を顎で差して尋ねる。するとワキさんはうちの学科の奴だと説明してくれた。
いかにも女慣れしたような軟派な雰囲気の男が相手だったものだから、俺はだんだん腹が立ってきた。
ついでに言うとその敵意は、楽しそうに話してやがる恵理菜に対しても理不尽に向けられていた。
恵理菜の魅力の一つに、誰に対しても裏表無く付き合いの出来る点がある。
けれども、何もあんな気障たらしい男に向ける事も無いじゃないかと思った訳。
いやいや、俺なんか節操無しに口説きまくってた訳だし、人の事をどうこう言える義理ではないのだけども、それはソレこれはコレ。
要するにこんな阿呆な事はないのだが、生まれてはじめて嫉妬したんだ。
その時はふたりの間に強引に割り込むのもマヌケな気がして、ワキさんを即してさっさとその場を立ち去ったんだ。
で、そんな事があった所為もあってか、気が付いたらいつも芹沢恵理菜について考えるようになったんだ。
どうやら俺様という人間は、かなり単純な思考の持ち主らしい。
笑ってしまう。




