クローズユアアイズ 3
文太郎は小豆色のジャージ上下にマフラーという不恰好さで、庭に出てバイクを掃除していた。
自分自身は乗らないのだが、このカブという深緑と白塗装のポンコツは父の移動手段である。あまりやる気にならなかったが、冷たいのを我慢して濡れ雑巾でボディーを拭き改めていた。
数日前の雨の返り水で、ずいぶんと古ぼけた印象に拍車をかけていた。口には火も点していないマールボロをくわえている。勿論、煙草を吸える年齢でもなかったが、半ば公然と家でも外でも愛煙していた。
大学生になって覚えた、悪戯であった。
拭いても拭いても、ちっとも綺麗にならない。ブリキのバケツの中の水は油と泥がまじって濁っており、少しはましになるだろうからと祖母のさしてくれた湯も、まったく無駄に終ってしまっている。
何せ、今朝だって、池の水面は氷が張っていたくらいである。
「文太郎ぅ。早くしないと父さん、遅刻するやんね」
遠くで、父親の声がした。
もうすぐ出勤の時間と見えて、父は急かしていた。それなら自分でやればいいのに、とは言わない。ずいぶんと苦しい生活費の中から、自分の小遣いももちろん削って、文太郎を私学の大学へ送り出してくれたのだ。
田舎の子供は律儀と言うが、文太郎もその口で、その事に少しは負い目を感じていた。凡庸だったが、彼は心内では生真面目な青年だった。
――もう、これぐらいにしとくか。
薄汚れたネズミ色のボロ雑巾をバケツに放り入れて、極度に凍えてしまった手を、スリスリと擦り合わせる。最後に息をハっとかけた。
「文太郎ちゃん」
小川の向こう、隣家の庭から声がした。
それは小夜の母の声であった。生垣から顔を覗かせて、ニコニコと笑みを見せている。
文太郎はすぐにもハッとして、くわえていたマールボロを手に隠してしまうと、挨拶をした。
「おはようございます」
「お父さんのバイク掃除してたの。大学生でお勉強も忙しいだろうに、関心ねぇ」
肉付きの良い頬を揺らして、おばさんは言った。
大学生というものは案外に気楽な商売であるのだが、そういう事は小夜の母親は知らないらしい。田舎の古い体質のはびこった大野の事だから、すいぶんと過去の苦学生のイメージが大学に通う人間に向けて思い描かれるのだろう。
それに、未だにこのあたりは大学に通うような人間が少ない。皆、早くに田圃や畠に出てしまうからだ。
文太郎が言葉に窮していると、彼の言葉を待たずして隣りのおばさんは言葉を続けた。
「あのね、文太郎ちゃん」
「はあ」
「ルミエルって知ってるかしら?」
知っていますが、と当惑の面相で文太郎が答えた。
「うちの子を、連れて行ってくれないかしら」
これはまた唐突な、物言いである。
――ルミエルに? 小夜を? あいつ小学生じゃないんだぞ?
などと考えてしまう。
「女の子同士で行きたいって言ってるのだけど、近頃は無用心でしょ? よかったら昔のよしみで、前みたいに付き添いで行ってあげてくれないかしら」
ははぁ、と思った。
文太郎が中学の頃までは、よく夏祭りの縁日には小夜を連れて二人、浴衣着で出かけたものだ。しかしそれも文太郎が中学一年、小夜が小学校六年までの事で、その頃「体面」というものを意識し始めていた文太郎は、嫌がるようになって何時の間にか自然消滅していた。
それを今頃になって蒸し返すような言い草だった。
どちらかというと、迷惑に思うのは小夜の方じゃないかと、推測をしてみた。あの他人行儀様である。
「小夜なら、彼氏に任せておけば良いでしょう?」
「彼氏? とんでもない。あの子はまだ男の子を家に連れてきたことも無いんよ。あの小夜に限って」
ほっほ、と口元に手を押し当てて恰幅の良いおばさんが笑ってみせた。
――なんだ、小夜まだ彼氏いないのか。
彼氏に遠慮して、俺を避けているというのでもないのだな。それとも俺にもまだチャンスはあるのかな。嫌々、調子に乗るな俺。だったらただ、俺は嫌われてしまったという事か。
「でもやっぱり、迷惑でしょう。学校の友達と楽しくしたいと思いますよ」
嫌われている相手と、一緒にルミエルに言っても仕方が無い。俺だって友達の新平とかと、ナンパにでも行った方が気がらくだ。と思う。
もちろん文太郎に、そんな度胸があるはずもない。要するに内心の虚栄だった。
「駄目かねぇ」
うーん、と両腕を組んで福々しい体躯を少しゆさぶってみせる小夜の母を、虚栄が崩れていくのを感じながら見ていた文太郎。
「解りました、いいっすよ。いつですか?」
そう返した。やはり考え直してみれば、野郎二人で過すルミエルも無い。ナンパなんてした事もないのに、上手くいくはずもない。第一にそんな度胸も無い。考えれば、この結論は順当なもので、はなからこの選択肢しか残っていない事に気がついた。本当は心の内で、小夜と過すルミエルの事を思い描きはじめていた。
少しばかり、間抜けな気分だった。
「いいのかい? ありがとうね文太郎ちゃん。後で小夜に聞いてみるといいわよ」
そう言って満足したのか、足元にあった野菜盛りのザルを手に取り上げて、じゃあ後で小夜に聞いてちょうだいな。心配のかかる娘だけど、よろしく頼みますよ。と、会釈して奥へ消えた。
「まぁいいじゃないか。女と過すクリスマスだ。いやイヴか?」
ひとりごちて、文太郎は自虐の笑いを浮かべた。
相手にされていないだろうというのが。であるのに、どうにも嬉しいのは不思議だ。貧相な心内かもしれないけれど、若いという事は、そういう事なのだと理解するに、文太郎はまだまだ未熟であったのだろう。




