第二十九話
火の跡の方で、屋根が一つ燃え落ちる音がした。
ガルドは骨の山の脇を抜けて、火の跡へ戻った。走らない。走れば左の脇で息が止まる。剣は右手に下げたままだ。
小屋の火は三つ目に移っている。燃えている屋根の裏に、牙人が三体倒れていた。さっきまで無かった分だ。雪の上の血がまだ黒くなっていない。
ライナが斧を左手だけで持って、灰の山の脇に立っていた。
「持ったよ。あんたが北へ行ってるあいだ」
「南へ上がる。フェイの列が外から崩れている。話は歩きながらだ」
東の縁を上がった四体が底の外を回って、下り道の脇へ出る。ヒルデが先にそこへ向かっている。
「歩けるよ」
ライナが言った。オルトは杖を持ち直した。東の縁の下で上を見ていたシアが、縁から目を離してこちらへ来る。
四人で南の下り道へ向かった。オルトは杖に体を預けて足を運んでいる。その足に合わせるしかない。それでも誰も足を止めない。底の雪は、踏まれた所だけ土の色になっている。
「北は片がついた。ネッケルの所の大きい一体は倒した。こっちは、あれからまだ出てきたか」
「三体。焼けた小屋の裏から。シアと二人で片づけた」
「その腕でか」
「シアが後ろへ回ってくれたからね」
「向こうの五人は」
ライナが聞いた。
「盾の男が死んだ」
ライナは何も言わなかった。歩きながら、斧の頭を左の手で持ち直す。
「オルト。少しは戻ったか」
「息はな。火はまだ出せない」
「無理をさせたな」
「目を潰せと言ったのはお前だろう」
「そうだ」
オルトは足元へ目を落としたまま言った。
「残して、お前がまた投げられても困る」
朝からずっと、この男の学園の物差しでは測れないことばかりが起きている。
下り道の下まで来た所で、後ろからネッケルとパウルが追いついた。盾の男を北の切れ目の前に残してきた二人だ。何も言わずにこちらを抜いて、先に立つ。
下り道には牙人が何体も倒れている。坂の上で、最後の一体が前の列の穂に掛かったまま膝を落とした。そのあとに上がっていく牙人は、もういない。
坂の上で列が二つに割れた。割れた間を、ネッケルとパウルが先に上がる。ガルドたちは倒れた牙人を跨いで、そのあとに続いた。
割れた列の左の端に、剣を下げたフェイが立っている。
「動けん者は何人だ」
「四人だ。そのうち三人は死んどる」
フェイは三列目の方を顎で示して、そちらへ歩いていった。
三列目の横に、朝には無かった土の壁が立っている。その脇に、ヒルデが杖を雪へ差したまま立っていた。
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昼を回ってからもう一度底へ下りた。
群れの源だった北の丘陵の底だ。ガルドは灰の山の手前で足を止めた。朝に下りた時と足の沈み方が違う。踏んだ雪と土と灰が混ざって、底のどこも同じ色をしている。水の筋は見えない。
小屋は十一のうち五つが焼けた。焼けた方は柱だけになって、まだ立っている。屋根の枝と皮は灰になって柱のまわりへ落ちていて、灰の輪の広さが、そのまま小屋の広さだった。
オルトは筵の切れ端に腰を下ろし、杖を膝へ寝かせていた。息は落ち着いている。
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倒れている分はパウルが数えて回った。
「南の下り道の前で十八。小屋のあいだと灰の山のまわりで十五。北の切れ目の前で四。合わせて三十七です。大きい二体はこの中に入っています」
大牙の三匹はこの数に入っていない。南の列の後ろで倒れたままで、牙と皮はガレアの若い衆が外して町へ持って帰る。
シアが東の縁の下から戻ってきた。
「生き残りは」
「底の中にはいない。焼けなかった小屋は六つとも中を見た。骨の山の裏も見た」
「外へ逃げたのは」
シアは縁の岩へ手のひらを当てて、そのまま下ろした。押しても形が残らない。
「ここからは分からん。縁の上の雪を見ないと言えない」
東の縁と西の縁は、装備を着けた人の足では上がれない。縁の上へ出るには、南の下り道から外を回ることになる。
ネッケルが書きかけの報告書を持って来た。
「パウルの数は聞いた。逃げた分はどうだ」
「底の中に生き残りはいない。縁の上はまだ誰も見ていない。あとでシアが回る」
ネッケルは報告書に短く書いた。書く速さが昨日と変わらない。
「縁の上は、まだ見ていない、と書いておく。見ていない物を、いないとは書けん」
昨日も東の縁について、跡が無い、とだけ書いた男だ。今朝はその東の縁から四体に回られた。
それでもこの男は書き方を変えない。
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牙を外す仕事に入った。
支部へ出すのは牙だ。一体に二本。皮は大牙の方で、こちらの相手のは剥いでも売れる物にならない。
外した牙は一体ぶんずつ雪の上へ並べていく。数え直す時は体ではなく、雪の上の牙の列を数えればいい。
木の槍は三本だけ持っていくとパウルが言った。先の斜めの落とし方が三本とも同じだからだ。
「変異種の分は」
「別の袋です」
パウルは牙を四本、布へ包んだ。包んでから、布に結んだ札へ何か書いた。
「特別報告書に付けます」
ネッケルが報告書の上を指でなぞった。
「支部へ出す報告書には目録の名で書く。ファングオーク、だ」
「町ではそう言わん」
「町の名は聞いた。牙人だ」
「それでいい」
ネッケルは報告書から指を離さずに言った。
「読むのは上の支部の先にある、エクレシアのギルド本部だ」
ガルドは報告書を覗いた。
字は追える。追った先の音がこの町の物ではないだけだ。
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「上を見てくる」
シアが言った。
「一人か」
「一人だ」
「暗くなる前に戻れ」
シアは東の縁ではなく、南の下り道の方へ歩いていった。
戻ってきたのは日の色が変わってからになる。上着の肩に雪が乗っていた。
「縁の上の雪に、底から外へ出た足跡は四体ぶんだけだ。四体とも南へ向かって、下り道の脇で下りている。列の横で倒れた四体だ。ほかに外へ出た跡は無い」
「討ち漏らしは無いんだな」
「無い。それと、上には何もいなかった」
「何がだ」
「この群れを下へ押した物だ。上にいない。掘った跡も木の折れた跡も無い。倒した物も食い残しも無い」
「どこまで見た」
「谷が二つ。三つ目は見ていない」
昨日この女は、丘の裾の跡は重なっていて幾つか分からんと言った。
その大牙を押し出した牙人を、さらに上から押した物が、上にいない。
「まだ先にいるか」
「分からん。そこまでは見ていない」
ガルドは北を見た。
「今日はそこまででいい」
シアは肩の雪を払った。それきり北を見ない。
ネッケルが報告書を出した。
「今の話を書くか」
「好きにしろ」
ネッケルは二行書いた。底から外へ逃げた牙人はいない。群れを丘陵へ押した物は見つからなかった。その二行の下へは何も足さない。足す物が無い。
報告書はエクレシアの本部へ送られる。送られた先でどう扱われるのかは、この底の誰も知らない。
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焼けなかった小屋を二つ倒して割った。
積んだのはネッケルのパーティの三人だ。パウルが下へ枝を入れ、ヒルデが皮を渡し、ネッケルが上へ手を掛ける。誰も位置を言わない。言わなくても三人とも同じ所に立っている。
ブルーノ・カンプは朝から北の切れ目の前にいた。鎧を外してから運んでも重い。足の側を持ったのはネッケルだ。
運ぶな、と今朝この男が言ったのをパウルから聞いた。
同じ男が、今度は運べと言っている。
盾は腕に通したままになっている。パウルがそれを腕から抜いて背へ回した。
「その盾は持って帰るのか」
「持って帰ります」
「重いぞ」
「重いです」
壁の方は動かない。土は底の物なので置いていく。
北の切れ目は、来た時に人一人ぶんだった。帰る時は埋まったままになる。
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南の下り道の脇に筵が四枚並んでいた。
三人は死んでいる。一人だけが筵の上で息をしていて、腿に布が重ねてある。
バルトがその若い衆の脇で膝をついていた。手は動かさずに布の端だけ直している。
「誰がやられた」
「死んだのは支部の組から二人です。館の兵から一人。兵の側は自分たちで数えます。こちらへは出しません」
「ガレアは」
「死んだ者はいません。怪我が三。一人は歩けません。担ぎ板に乗せます」
「胸を突かれた支部の男は、ここへ運ばれた時まだ生きていたのか」
「運ばれてきた時は息がありました。首をやられたもう一人は、その場で死んでいました」
バルトは自分の手のひらを見た。
「血を止めて、加護が乗るのを待ちました。間に合いませんでした」
「ダグマーもついていたんだな」
「はい。胸を突かれた方にはダグマーが先に着いています。私は腿の若い衆についていました」
ガルドは筵へ目を落とした。
治す者を二人そろえて南へ置くと決めたのは、こちらとネッケルの両方だ。置き方は正しかった。
「腿の一人は」
「血は止まりました。途中で一度、槌を持っています。前の列からニコともう一人が回ってきたので、手当てに戻れました」
ガルドは死んだ三人を見た。それから、息をしている若い衆を見た。
「ヒルデの壁は」
「立ちました。立ちきる前に、四体とも列の中です。ディルクの話では、ニコたちを抜いて空いた前の列へ一体が入って、支部の一人と兵が倒れた。背中へ抜けた一体に、支部のリーダーがやられた、と」
横を守るために前の列から人を抜いた。死んだ三人は、どれも前の列で受けていた者だ。
「そうか」
バルトは頷いてから、こちらの左の肩を見た。裂けた上着の下は、もう血が止まっている。
「肩は浅いです。脇は」
「息を深く吸うと、痛みで途中で止まる」
バルトの手が上着の上から左の脇を押した。一度で離す。
「骨にひびが入っています。折れてはいません。治癒を掛けますか」
「要らん。お前の加護は腿の若い衆に使ってやれ。ひびなら放っておいても付く」
「では布で巻いて固めます。今日は重い物を担がないでください」
「そうもいかん。帰りの荷がある」
「なら、あまり無理をしないでください。巻いても痛みは取れません」
バルトは布を二巻き取って、上着の上から脇を締めた。締めてから、それきり筵の方を向いた。
ヒルデは下り道の脇に立ったままでいる。杖はもう抜いてあって、壁はそのまま置いてある。
昨日この女は、塞いだあとで北へ出す用があるなら先に言えと聞いた。今日は誰にも何も聞かない。
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火は日が落ちてから点けた。
小屋の材だから燃えは早い。早くても人ひとりは早く終わらない。
ヒルデは石板を出さなかった。パウルは矢筒を下ろして地面へ立てた。二本のままだ。
フェイが横へ来て、火から離れた所に立った。
「うちの担ぎ板の一人は町へ連れて帰る」
「そうしろ」
「あんたのところは全員歩いて帰れるな」
「ああ、大丈夫だ」
フェイはそれ以上言わない。ディルクは布を巻いた肩の側を火へ向けないように立っている。
団の若い衆が二人、火の前で膝をついてから立った。膝をつくのは町の作法で、ネッケルのパーティには無い。
ネッケルは止めなかった。止めもしないし、真似もしない。
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翌朝、骨を拾って出た。
行きは半日で足音が一つになった。帰りは一日歩いても揃わない。牙の袋を担いだ者と担ぎ板を持つ者では歩幅が合わない。合わせようとすると担ぎ板の側が先に止まる。
丘の裾を抜けて街道へ戻る所で一度休んだ。休んだ時に列の後ろが伸びて、詰め直すのにまた時間がかかる。
街道口へ入ったのは日が落ちる前だ。
見回りの依頼で町に残っていた二人が街道口に立っていた。戻ってきた列を目で追って、何も言わずに道を空けた。
町の者が出てきて、担ぎ板を先に通した。それから筵の方を見て、そこで足を止める。
三枚のうち二枚は支部のパーティで、この町に家のある者はいない。
それでも通りの端で誰かが閂へ掛けかけた手を下ろした。
広場の雪は踏み固めたままになっている。出ていく前の晩に兵が均した所で、出た朝に崩れた土の山が一つ、端にそのまま残っている。
その山の上と、山の脇の雪の上へ筵を三枚、間を空けて置いた。担ぎ板の一枚は詰所へ運ばれる。
カスパルが詰所の戸を開けて、開けた所から出てこない。膝が悪いので雪の上へは下りない。戸の内側から数えている。
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支部の中は竈が焚いてあって暖かかった。
帳場の娘は書く手が遅い。遅いが、書き直さない。写しを先に書く癖も変わっていない。
「討伐の報告をお願いします」
「北の丘陵の底に牙人の集落があった。三十七体いて、全部倒した。逃げた物はいない。そのうちの二体は、ほかより頭一つぶん大きくて、目の色も違った。強さもほかとは別物だ。ランクで言えばA相当になる。その二体の牙は別の袋にしてある」
「別に受けます」
娘は袋を二つ、別々の棚へ置いた。置き方に迷いが無い。
「報告書はお持ちですか。あれば、いただけますか」
ネッケルが報告書を出した。娘は端から目を落として、途中で止まった。止まった所を指で押さえてから先へ行く。
押さえたのは、大きい二体について書いた行だ。
「上の支部へ回します。こちらは写しを取ります」
「この報告書が上の支部へ届くのにも、半月かかるのか」
「人を呼ぶのとは別です。届くまでの日数は、こちらでは分かりません」
「返事は来るか」
「上へ回した報告書に返事が来たのを、この帳場では見たことがありません」
娘は依頼の板の方へ立った。貼ってあるのは見回りの一枚だけだ。あの夜のあと、依頼の板に出た紙はそれしかない。
その隣へ新しい紙を一枚貼る。
「なんて書いたんだ」
依頼の板の前にいた男が言った。荷方の男だ。冬のあいだ峠へ出られないのでこの頃は毎日ここにいる。
ガルドは依頼の板の前へ立った。
「北の丘陵のファングオークの集落は片づいた。丘陵に散っている分の見回りは続ける。見た者は支部へ出せ」
「今のは何て言った。なんとかオークってのは」
「ファングオークだ」
「なんだそりゃ」
「牙人だ」
「そう書いときゃいいだろうが」
「上の支部が読む紙だ」
男は鼻を鳴らして、それから紙をもう一度見上げた。読めない字を見上げる時の顔をしている。
依頼の紙に、この町の言葉でない名が一つ載っている。依頼の板が二年ぶん日に焼けていたあいだ、こんな紙は一枚も貼っていなかった。
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館の部屋は前の時と同じ広さだった。
卓が一つ。紙の束が三つ。壁の地図の北の丘陵の所に、新しい線が引いてある。
レオンは帳面へ書いていた。
「終わったか」
「終わりました」
「数は」
「三十七体です。そのうち二体が変異種でした。支部へ牙を出しました。報告書も出しています」
「報告書は上の支部へ回るんだな」
「回ります」
レオンのペンは動いている。
「死んだ者は」
「支部のパーティから二人。兵から一人。兵の数は兵が持っています」
「兵の分は聞いている」
「外から来たパーティが一人です」
ペンが止まった。止まったが、目は上がらない。
「名は」
「ブルーノ・カンプ」
レオンは帳面の行を一つ空けて、そこへ書いた。書いてから空けた行の上へ戻って、また書いた。
「金は」
「全部そちらへ戻します」
「受け取って、戻した。帳面にはそう二行書く」
「はい」
レオンはペンを置いた。前に一筆を出した時と同じ置き方だ。置いてから顔を上げる。
「去年の一筆の借りは、これで返してもらった」
「はい」
「だが、一筆そのものは残る。あんたの家の子は、今日も公爵家の預かりのままだ」
ガルドは何も言わなかった。
レオンは帳面を閉じないまま指で卓を一つ叩いた。
「聞かんのか」
「俺が頼んで書いていただいた紙です。中身は読んでいます」
「読んで頼んだ男に、返せば軽くなるとは言わん」
目は動かない。
「借りは一筆を書かせた代だ。それはあんたが今日、体で払った。預かりは一筆の中身だ。一筆があるかぎり続く。払って終わる種類の物ではない」
「はい」
「下がっていい」
部屋を出る前に、地図の方を一度だけ見た。
北の丘陵に引いてある新しい線は、底の所で止まっている。その先は白いままだ。上を見てきた者の話は、まだこの部屋へ届いていない。
――――――――――――――――――――
家へ着いたのは夕餉の後になった。
土間はもう片づいている。リアは寝ていた。上の子は膝の布を替えている。下の子は卓の端にいる。左手で右の手首を持って卓へ載せている姿が、出ていった日と同じだった。
「終わった」
「はい」
「まだ数えてるのか」
「九日です」
「そうか」
下の子は口を閉じた。閉じてから載せ直した右手を見ている。それから、こちらの左の肩を見た。上着は着替えていない。裂けた所は袖ごと縫えていない。
何も聞かなかった。
右手が動かなくなった夜から九日になる。軽い物が持てるとゼドルが言った二十日はまだ来ていない。
「支部の依頼の板に新しい紙が貼ってある。横文字が一つ書いてある」
「何が書いてあるんですか」
「明日、自分で見てこい。お前は字が読めるだろう」
「はい」
右の手は使えん。目と耳は使える。
今日この子に言えるのはそれだけになる。
上の子が顔を上げた。
「フェイさんは」
「無事だ。歩いて帰ってきた」
「ガイに言っていいか」
「行ってこい」
上の子は膝の布を巻き終えてから出ていった。足の運びが出ていった日より少し軽い。
――――――――――――――――――――
ミラは繕い物を膝へ置いたままこちらを見た。
「終わったのね」
「終わった」
「怪我は」
「肩を切った。浅い。左の脇の骨にひびが入った。バルトの治癒は、俺より重い怪我人に回してもらった。布で固めてある。このくらいはじきに治る」
ミラは針を布へ刺して止めた。刺した所から手が動かない。
立って、上着の裂けた肩へ手を添えた。それから、上着の上から巻いてある脇の布を見た。
「薪はレインに持たせるわ。あんたは持たないで」
「このくらい大丈夫だ。右は使える」
ミラは座り直して、また針を持った。
「館へは行ったの」
「行った。借りは返した」
ミラは針を抜いて、また刺した。
「じゃあ、あの一筆は」
「残る。子どもらは今も公爵家の預かりのままだ」
ミラは手を止めなかった。止めずに二目縫って、それから膝の布を裏へ返した。
「うちの店にね、溜めた分を綺麗に払っていったお客がいたのよ」
「ああ」
「払い終わっても、父さんはその人の付けの紙を捨てなかったの。いつまた来るか分からんからだ、って」
針が布の裏へ抜けて、また表へ出てくる。
「払ったからって、付き合いが切れるわけじゃないのね」
「そうだ」
「なら分かった」
それきり、一筆の話をしない。
ミラは布を膝から下ろして、卓の上を一度だけ手で払った。払う物は載っていない。
ガルドは竈の脇の光の付与石へ手を伸ばした。
布をかけて、端を石の下へ押し込む。押し込んだ所からまだ明かりが出ている。




