第二十七話
盾が鳴った。
一度目の木の槍を、ブルーノが正面で止めずに逃がした音だ。逃がした分だけ半歩下がっている。群れの源の底の、北の切れ目の前だ。足はそこから動いていない。
さっき片づけた三体より頭一つぶん高い大きい一体は、小屋の陰から出てから一度も速さを変えていない。
ヒルデは杖の石突を雪へ差したままでいる。左の斜面へ寄せた土は腰の高さで止まって、そこから動かない。
「隊長。数が」
パウルが言った。
「言え」
隊長のネッケルだ。
「小屋から出た四体は底の中を南へ折れました。下り道を上がる分に混ざります。東の縁を上がった四体は縁の上です。底の外を南へ歩いて、下り道の脇へ下ります」
東の縁は雪の下が岩で、獣も上がっていない。昨夜、跡がありません、とパウルが言い、隊長がそれをそのまま紙に書いた。
跡は無い。それでも上がっている。
大きい一体が木の槍を引いた。引いて、持ち直す。急がない。
八体とも、こちらへは来なかった。
盾の正面に残っているのは大きい一体だけだ。
目録には、集落を作り道具を使うとある。討伐にはパーティ単位の連携が必須だとも書いてある。
薄い方へ回る、とはどこにも書いていない。
木の槍の先が、大盾の上の縁の高さを一度なぞった。なぞってから下りる。
ヒルデは杖を持ち替えた。
もう一枚は続けて立てられない。二枚目の土を寄せた分だけ足元の土が減っていて、次を立てるなら間を空ける。空けるあいだに、正面の一体が届く。
「筒を」
隊長が言った。
「二つ」
パウルが腰の筒を上へ向けた。光が二つ、底の上の空へ抜けていく。
退がる合図だ。全部だ、と昨夜の相談の場で隊長が言った。あの時は誰も先を言わなかった。
隊長は南を見た。
ヒルデも南を見た。
北を見た者は一人もいない。
あれも光を見ていない。盾を見ている。
火の跡の脇では、これと同じ大きさのもう一体をヴァルドたちが囲んでいる。遠くて、誰がどこを負傷しているかまでは取れない。
北の端からでも、南の下り道に人が並んでいるのは見える。顔までは取れない。声も届かない。
荷車二台ぶんの前に三列。前が受けて、二列目が横へ出る。その形が今は崩れている。崩れ方が内側からではない。列の外側から順に、後ろの列が先に薄くなっている。
三列目は動かない者を置いた場所だ。怪我をした者と、荷と、治す者が二人。こちらの一人と、向こうの一人になる。
縁の上を南へ回った分の先は、下り道の脇だ。
三列の顔は底へ向いている。背中の側から来る物を見ている者は、あの列にいない。
あの列が持つのか持たないのかは、ここからでは分からない。
退がれる先は南の一つだけだ。
その一つがいま外側から崩されている。
北は自分が塞いだ。
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「ブルーノ。位置は」
「変えません」
変えないのが正しい。この男の役は動かないことだ。
変えないと言った時、後ろがどれだけ空いているかを見た者はいない。ヒルデも見なかった。切れ目を埋めたのは自分だ。そこに土があることは分かっている。下がる分が足りない場所だとは数えていなかった。
二度目の木の槍が来た。
ブルーノが盾を合わせる。合わせて、半歩を引こうとした。
引く先に土がある。
踵が壁に当たって、そこで止まる。
突きは盾が止めた。逃がす先が無いので、合わせた盾がその形のまま動かない。
大きい一体の空いた手が伸びて、盾の上の縁を掴んだ。掴んで、横へ引き開ける。
ブルーノは離さない。離さないので、盾と一緒に体が開いた。
開いた脇の下へ、木の槍が入った。
留め革の鳴る音がひとつ。大盾を腕に固定している革の帯で、三体目のあとで締め直してあった。
盾は割れていない。耐久の付与は最後まで仕事をした。
膝が先に落ちて、盾が体と一緒に落ちる。腕の輪に通してあるので盾だけは残らない。
落ちた音のあとが続かない。
重装の男が動けば、雪の下の土が鳴る。
「ブルーノ」
隊長が呼んだ。返事はない。
もう一度呼ぼうとした口が、開いたまま止まった。
今朝の点呼で、いちばん先に呼ばれたのはこの男だった。
大きい一体が木の槍を引き抜く。抜いた先が、もう次を向いている。
隊長は下がらない。剣を上げて、倒れた盾の前へ入った。
パウルの手が筒から矢筒へ動いて、行った先で一度止まる。
二つ上げた合図の中身は、全部退がれ、だった。
ヒルデは杖を差し直した。
「エルデラ、ペトリナ――レイサ・ヴェッグ・ヘンドル」
土が寄る。寄る速さが遅い。二枚目の分だけ足元から減っているので同じ詠唱で同じ物が立たない。
腰の高さまで来ずに止まった。
及第点に足りません。
それでも間には合った。次の一撃が土の上へ落ちて、壁が崩れた。崩れた土をあれが跨いでくる。
跨げる高さの物は壁ではない。
隊長が剣を上げて右へ回った。木の槍を持つ腕がそちらを追う。追わせたまま、壁から離れる向きへ足を運ぶ。
木の槍が横に来る。隊長は下がらずに内へ半歩入り、剣を腕の外へ当てて抜ける。当てた所に霜が付く。付くだけだ。
同じことを二度した。
三度目に入ろうとした時、あれの顔が隊長の方へ回った。隊長は当てずに身を引く。木の槍を持たない方の手が開いて、隊長の顔のあった所を通った。
それから隊長は当てなくなった。回るだけになる。回る足が雪の下の土を鳴らす。鳴る間が少しずつ伸びている。
パウルが弓を上げた。あれの顔へ向けて、また下ろす。回る隊長が矢の筋にいる。
石突の下の土はまだ動く。呼び水はまだ残っている。足りないのは、壁に寄せる土の方だ。
学園で先に足りなくなるのはいつも呼び水だった。ここは逆になっている。
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「ヒルデ。壁をもう一枚立てられるか」
回りながら隊長が言った。
「土が足りません。同じ物は立ちません」
隊長は次を言わなかった。
この男は説明を省かない。昨夜の相談でも書けない物は書けないと言い、あとは端まで紙に載せた。その男が次の一段を言わない。
回る足がまた鳴る。鳴ってから次が鳴るまでが、さっきより長い。
同じ物が立たないなら、同じ物でなくていい。
ヒルデは石突を差し直した。
「エルデラ、ペトリナ――ソッカ・グルンド・ヘンドル」
沈土は寄せて締める工程が無い。無いぶん、壁より早く出る。
大きい一体の前の雪が一度に沈んだ。踏み出した足がその中へ入って、膝の下まで埋まる。
足が止まった。
隊長が入る。剣が腕の付け根へ二度。霜は付く。腕は変わらない。
止まっているのは、息を二つ数えるあいだだ。
止まっている今なら、石棘が立つ。
差した所は変えずに、続けて唱えた。
「エルデラ、ペトリナ――レイサ・ブロッド・ヘンドル」
土が寄る。寄って、締まって、先が尖りはじめる。
尖りきる前に、大きい一体が沈んだ所から足を抜いて横へ出た。
立ちきらなかった石棘は、ただの盛り上がった土だ。踏まれて、平らになった。
残っている物を数える。パウルの矢が三本。隊長の剣は霜を付けられる。こちらの足元の土は、使った回数ぶん減った残りだけだ。
三つとも出した。それでも止まらない。次に何をすればいいのか、ヒルデには分からない。
大きい一体が木の槍を持ち直した。隊長を追っていた足が止まり、こちらの三人の並びを見る。
木の槍が横に来た。ヒルデの足元の土を先が抉って、雪と土が膝まで跳ねる。石突を差した所から手のひら一つ横だ。杖は差したままにした。抜けば次を立てる場所を失う。
見てからいちばん端へ足を向ける。
端はパウルだ。
パウルが半歩下がった。下がった先も壁になる。
この場に、下がる先を持っている者は一人もいない。
南から火は来ない。
昨日の広場で、あのパーティの魔法使いはこちらの杖の刻み線を目で追っていた。見られたのはこちらだけだ。あの男の呼び水がどこまで残っているかを、こちらは知らない。
「隊長」
隊長は答えなかった。剣先はあれの胸へ向けたままだ。
パウルは矢を一本抜いた。
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南から人が一人走ってくる。
剣は下ろしたままだ。走る足が雪の下の土を鳴らす。重装ではない男の足で土が鳴る。鳴り方が揃っていない。
ヴァルドだ。
火の跡の側から、一人で来た。残した仲間は三人だ。
左の肩の上着が裂けて、袖が肘まで赤い。顔の右に灰と血が付いている。走りながら、剣を握った右手の甲で左の脇を押さえている。押さえた手を離すたびに足が一つ遅れる。
ヒルデは杖を持ち直した。詠唱は出さなかった。
土を寄せれば足元が下がる。下がる先にあの男の足がある。
あれは南を見ない。パウルを見ている。
木の槍がパウルの高さへ下りた。
隊長が横から剣を入れた。斬るための入り方ではない。切っ先を平たい顔の前へ通して、目を引き取る入り方だ。
あれの目が隊長へ移った。
パウルの前が空いて、隊長の前が埋まる。
正面に入る役は、さっきまで盾の男がやっていた。
ヴァルドが止まった。
あれの木の槍が届く所の、一歩外だ。剣を下げたまま止まって、動かない。
あれの足が一つ出た。木の槍が上がる。
入らない。ヒルデはその先を見る。何を待っているのか。
「ネッケル」
隊長は答えない。木の槍が来て、剣の腹で逸らす。逸らした分だけ半歩下がった。
「言え」
「目だ。あれは、目で見ている相手にだけ速い。見ている相手には、空いてる方の手が来る。見ていない相手には、ほかの牙人と変わらん」
息が途切れる。一息で言えていない。
二度目が来た。隊長はまた逸らして、また半歩下がる。
「あんたが正面に立って、あれの目を引きつけろ。手の届く所には入るな。ヒルデ、あれの横へ土を立てろ。回り込ませるな」
「立ちきる土がありません」
「跨がれてもいい。足が一度止まればいい」
三度目を逸らした先で、隊長の踵が崩れた三枚目の土に当たった。
半歩を三つ。ブルーノには二つ目が無かった。
隊長は聞き返さなかった。逸らすのをやめて、正面へ足を戻す。
手の届く外へもう半歩。踵の後ろは崩れた三枚目の土だ。締まっていない所へ乗れば足が滑る。
半歩は出なかった。
パウルの弦は引かれたままだ。矢の筋に隊長がいる。
あれの目の色が一度濡れる。
空いている方の手が来た。木の槍ではない。手だ。
隊長が剣を戻しきる前に、手が剣ごと隊長を叩いた。剣は手を離れなかった。離れなかったが、隊長の体が横へ飛んで、崩れた三枚目の土の上で止まる。霜はあれの手の甲に付いている。付いているだけだ。
速い。木の槍を振る時とは別の速さだ。さっきは引いて逃げた。今度は引く前に来ている。
あれが隊長の落ちた所へ足を出した。
崩れた土だ。跨ぐ足は見て置く。今の足は見ずに出た。締まっていない所で滑って、置き直すのに一つかかる。
その一つで、隊長が肘を突いて転がった。転がった先が手の届く外だ。
置き直した足が、もう出ている。
「次は逸らさん。崩れた土の上には立たん」
立ち上がりながら言った。手の届く外、剣の届く内だ。剣の先だけをあれの顔の前へ置く。あれの目が剣の先を追う。
木の槍が来る。手より長い。逸らさずに、剣の先を引いて下がった。木の槍の先が、さっきまで顔のあった所を通る。
引いた先へまた置く。また来る。また引く。
あれの足が、置かれた剣の先の方へ一つずつ出ている。
出ている先が、こちらの差した石突の側だ。
ヒルデは差した所を変えなかった。
「エルデラ、ペトリナ――レイサ・ヴェッグ・ヘンドル」
土が寄る。遅い。膝の高さで止まった。
及第点に足りません。
足りない物でも足は止まる。剣の先を回り込もうとして横へ出た所で、膝の高さの土に脛が当たった。当たって、一度止まる。止まっても、目は隊長の剣の先から離れない。
「パウル。矢で目を潰せ」
ヴァルドが言った。
矢が一本、あれの右の目へ。刺さって、矢羽が震えて止まる。右の目が閉じる。
あれの手が顔へ上がる。矢は抜けない。残った左の目は動かない。
ヴァルドが動いた。
正面からではない。閉じた目の側、膝の高さの土の側からだ。土を跨いで入る。
木の槍は来ない。木の槍を持つ手は隊長に向いている。
空いている方の手も上がらない。閉じた目の側から入った剣に、あれの手は向かない。
一つ目は木の槍を持つ手首へ。手首から先が落ちて、木の槍がパウルの足の先で止まる。
あれの左の目がヴァルドを探して回る。回った先に剣は無い。あの男はもう膝の横にいる。
二つ目。膝の外へ入れて、片側を割る。割れた側へ肩が落ちて、頭がこちらの目の高さまで下りる。目は琥珀の色だ。ほかの物の目は黒い。
三つ目。腕の付け根の下から胸へ。入った先で手が止まらない。
三つでヴァルドの剣が止まった。三つのあいだに、あの男の息が二度切れた。
大きい一体が前へ倒れた。
ヴァルドは剣を下げて、左の脇を押さえた。押さえてから南を向く。倒れる音を待っていない。
目を取ったのは隊長で、足を止めたのはこちらの土で、目を閉じたのはパウルの矢だ。入ったのはヴァルドだ。
入る前に止まったのは、この三つが揃うのを待つためだった。待っていた物が何かを、ヒルデは揃ってから知った。
パウルが矢を一本抜いて弦へ掛けた。掛けてから外して矢筒へ戻す。二本のままになる。
北の切れ目の前に倒れているのは、牙人が三体と、大きい一体だ。
――――――――――――――――――――
南から人が一人来た。
武器を持っていない。革の紐で肩へ布を巻いて、両手を空けている。
運ぶ役は三列目の動ける者から一人、先に決めておく、とダグマーが昨夜言った。
この男だ。名前は聞いていない。
男はブルーノの側で膝をついた。膝をついたまま顔を上げて、南を見る。
「運ぶな。お前は列へ戻れ」
隊長が言った。剣を下げたまま、男を見ずに言う。
男は返事をしなかった。手を布から離して、離した手をブルーノの首の側へ当てる。当てていたのは息を二つ数えるほどの間だ。
当ててから、当てた手を膝へ戻した。
立って、南へ戻っていった。
三列目の数は元に戻る。運ばれた者は一人もいない。
ヒルデは、男の手がブルーノの首から離れるところを見ていた。男が南へ歩き出しても、目がそこから動かない。
石板へ伸ばしかけた手を、縁に触れた所で止める。
――――――――――――――――――――
「ネッケル」
「言え」
「南の三列は外側から崩れている。列の外へ回った分が四体だ」
「もう列の後ろまで来たか」
「背後から来てる。今の列じゃ受けられん」
隊長は紙を出さなかった。出さずに南へ顎を向けた。
「ヒルデ。南の下り道の脇へ壁を一枚立てろ」
「行って、そこの土で立てます」
「行け」
ヒルデは杖を抜いた。
抜いた所の雪が一度崩れて、石突の跡が消える。
ヴァルドは下り道へ向かわず、火の跡の方へ戻っていった。残した三人が、まだそこにいる。
――――――――――――――――――――
南へ向かう途中、ブルーノの側を通った。
盾は腕に通されたままだ。
ヒルデは上の縁へ指を触れた。あれの手が掴んだ所だ。へこんでいない。刻みは欠けていない。
この男が踵で当たったのは、こちらが立てた壁だ。今朝、その壁へ可と置いた。声には出していない。
「不可です」
声に出した。




