第二十三話
今朝、水は兄が汲んだ。
父は今日、北へ出る。昨夜、いつまでかは言えんと言われた。
北の丘陵に大牙がまだいて、それを片づけに行く。町の者はそう言っている。
昨夜は土間で父と母の声が長く続いた。中身は聞こえない。怒鳴り声にはならなかった。母の声が長く続く。父の声はその合間に短く挟まるだけだ。
朝の母は数の話をしなかった。いつもなら市の値か、竈へ足す薪の残りを一度は言う。今朝は言わずに、卓の上の椀を伏せ直していた。一つ伏せては取り上げ、別の椀の隣へ移す。それを三度繰り返してから竈の方を向いた。
思い出すのは六日前の朝だ。大牙が町へ入った夜が明けて、店から戻った母は、アシュを土間の卓へ座らせた。
「三十九人、入れたんだよ」
母は座らなかった。
「夜中に数えたら三十八人だった」
アシュは右の手首を左手で持っていた。膝に載せると滑るので、卓の縁へ載せ直した。
「もう一度数えた。三十八だった」
「はい」
「足りない一人が誰なのか分かるまで、あたしがどんな気でいたかって話をしてるんだよ」
アシュは母を見た。
「……僕です」
「今は分かってる」
母の声がそこで切れた。
母は卓の上の右手を見ていた。
「その手は、いつ戻るの」
「ゼドルさんは、四日で今より動くと言いました。二十日で軽い物が持てて、五十日で握れます。剣は八十日です。前後はするそうです」
「バルトさんには」
「診てもらいました。傷ではないので、治せないと」
母は口を開いた。何も言わずに閉じて、卓の向こうから手を伸ばした。
右手に触れる前に止まる。
「痛いの」
「痛くありません」
母は袖口を直した。折れていた布を伸ばして、手首まで下ろした。
「次に出る時は、言いなさい」
「はい」
「言って、誰かが返事をするまでは出ないんだよ」
アシュは頷いた。
母の手は、しばらく袖口に残っていた。
その日、父が戻ったのは昼前だった。
土間へ入って、卓の上の右手を見た。
「動くか」
親指を曲げた。人差し指へ寄るが、届かない。
父はその指が戻るまで見ていた。
「ミラ」
母が戸口へ行った。二人は低い声で話した。
アシュはもう一度、親指を曲げた。さっきと同じところで止まる。
あの夜、店を出たことを父は聞かなかった。
それから六日、一度も聞いていない。
今朝は、あの夜から数えて七日目になる。
今朝も水瓶の前にはアシュが先に立った。水を汲むのは夏の終わりから自分の役だ。
縁を左手で押さえ、右手で柄杓を取ろうとする。指は柄杓の柄に触れる。触れて、そこから先へ回らない。
二度試して、三度目はやらなかった。柄杓が持てないなら釣瓶の縄も引けない。
やめたところへ兄が来て、何も言わずに水瓶の前へ入った。左の足を着くたびに膝が曲がりきらない。それでも三度ぶんを運んだ。
三度ぶんの往復のあいだ、アシュは土間の卓についていた。
リアが卓の下から出てきて、右の袖を引いた。
「あしゅ」
「うん」
リアは引いた袖の先を見て、それから手を離した。手首から下が付いてこなかったからだ。アシュは左手を出した。リアはそっちを掴んで、掴んだまま母の方へ歩いていく。
「見送りに行くなら端にいなさい」
母が言った。
「はい」
「レイン。右が使えないのを一人で出すんじゃないよ」
「分かってる」
「あたしはこの子がいるからここでいい」
出がけに掛け棒の下を通った。
いちばん上に木剣。その下の受けに鉄剣。春に買ってもらった分で、獣の出た夜から片手で届く高さに掛け直してある。掛け直したのは自分だ。
左手なら今日も届く。届いて、鞘の腹まで指が回る。そこで止めた。
外した先で持ち替える手がない。
兄が先に戸を開けて外へ出た。
戸は内から閉まった。落ちる閂の音を聞いてから二人で北へ折れた。
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路地は広場の南の口へ突き当たる。
突き当たる手前で人の声が増えた。増えたところで兄が足を止めた。左の足を着くたびに歩幅が狭くなる。膝の下の布は今朝替えたばかりで外まで赤くはない。
そこから先は二人で縁を回って東へ入った。母の言ったとおりの端はそこしかない。
魔道具屋の板壁の前で立ってから北を見た。
広場の向こうに市場通りの口が見える。戸は開いていた。台の出ている家はまだ少ない。開いた戸の内側は暗くて、中に人がいるかどうかまでは分からない。
あの通りの戸が朝になっても開かなかったことは父が家で一度だけ言った。開いたのがいつなのかは言わなかった。
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雪は昨夜のうちに踏み固めてある。上に足跡が重なって、白いところはもう残っていない。
人は北の側へ寄っていた。ガレアの十二人が詰所の前。ギルドの二つの組が支部の方から来て、井戸を挟んだ向こうに並ぶ。領主の館の兵は西の縁に固まって立っている。
館の兵が広場に立つのを見るのは初めてだ。あの夜も来なかった。
人の立っている場所だけ雪が泥の色に沈んでいる。組と組のあいだは人の立っていない筋が残っていて、どの組もその幅だけ隣と離れて立っている。
外から来た五人はいちばん北にいた。
「ブルーノ・カンプ」
「ここに」
「ヒルデ・ナウマン」
「ここに」
「パウル・シュテック」
「ここに」
「ダグマー・クレフト」
「ここに」
呼んでいるのは片手剣を提げた男だ。四十くらいで中装の留め具の高さが左右で揃っている。最後に自分の名前を言った。ユルゲン・ネッケル、と言ってから紙へ線を引く。
大盾の男が、盾を腕に固定する革の帯を一つ締めた。名前を呼ばれた時に一度、呼び終わってからもう一度締めている。同じ革を二度締める理由は分からない。
ガレアはフェイが数だけ言った。十二。
十二のうちの一人は副長のディルクだ。右の肩に布が巻いてある。荷は左の肩だけで担いで、右は下げたままだ。
支部の二つの組はリーダーが二人出て、合わせて九だと言った。
ネッケルは紙へ目を戻して、父の名を呼んだ。ガルド・ヴァルド。
「五人だ」
父は数で返した。ネッケルは次の名を呼ばずに紙へ線を足す。
数えるまでもない。父とライナ、オルト、バルト、シアだ。
アシュは声の出た順に足していった。五、十二、九、五。館の兵は自分たちの隊で数えていて、こちらへは数を出さない。
三十一まで足したところで、足す物がなくなった。
後ろで荷方の男が二人、声を落として話していた。
「あの五人に金貨で百だとよ」
「誰が出すんだ」
「館だ。支部じゃねえ。うちの荷を一年運んで届く額じゃない」
アシュは北のいちばん端を見た。
五人は荷を布の上へ並べ直している。薬の瓶を順に置き、置いた順に指で数えている。
金貨百枚と、布の上の並び方が結びつかない。
支度の形が組ごとに違う。
外の五人は荷を地面へ置かない。布を広げて、その上に順に並べ直している。ガレアは荷を担いだまま立っていて、腰の物を一度ずつ手で押さえる。支部の九人は井戸の水を革袋へ入れていた。並んで待って、一人ずつ入れる。
同じ場所へ行く三十一人が、出るまでのやり方を一つも揃えていない。
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ネッケルが西の縁の方を向いた。
「ヒルデの石壁を立てる。行く前に全員見ろ」
黒い髪の女が前へ出た。短く切ってあって、肩にかかっていない。杖を右手だけで持ち、石突を雪へ差してそこから動かない。
「エルデラ、ペトリナ――レイサ・ヴェッグ・ヘンドル」
声は大きくない。広場の端まで届く程度で、途中で上がりも切れもしなかった。
言い終わってからしばらく何も起きない。
アシュの目には杖から出る流れが見える。
流れは白かった。
ただの白ではない。糸のいちばん下のところが濁って、黄土に沈んでいる。太い。太いのに、水を出すときの流れよりずっと遅い。先へ走らずに石突のまわりで一度たまり、それから雪の下へ入っていく。
雪が沈んだ。井戸の側から順に、人が四人並べるくらいの幅の帯になって北の端まで沈み、その分の土がこちらへ寄ってくる。
寄った先で土が持ち上がる。
上がり方も遅い。走れば越えられる速さだ。だが上がりきったところで音が止み、それきり動かない。荷車二台ぶんの幅に、大人の背より高い。日は当たっているのに表が光らない。
壁はこちらと井戸のあいだに立った。土を抜かれた帯は壁の向こうにある。浅く、帯の形のまま下がっている。
兵の一人が槍の柄で叩いた。乾いた音がして、へこまない。
叩いた所へ穂を横から入れようとする。刃は食い込まずに表を滑った。落ちたのは粉ではなく、粒のままの土だ。
「これが立ったら壁の裏へ回るな」
ネッケルが言った。
「足元が一段下がっている。走って回れば足を取られる」
兵の何人かが壁の裏を覗きに行って、覗いてから戻ってきた。戻る足が来る時より速い。
「獣が当たったらどうなる」
聞いたのは支部の組のリーダーだ。もう一人のリーダーが「ルッツ」と呼んだ。
五十くらいで、白い髭を短く刈ってある。砂色の髪に白が混じっていた。肩が薄くて手足が長い。短い槍を背に負ったまま前へ出てきた。
「立ちきっていれば止まります。大牙も、乗り越えられる高さではありません」
女が答えた。
「立ちきらなかったら」
「崩れます」
「二枚目を立てるときはこの隣に続けて立てるのか」
「隣には立てません。間を空けます。一枚立てるとそのまわりの土が減ります。減った所で続けて立てても同じ物は立ちません」
「間はどれくらいだ」
「その日の土によります」
ルッツは納得しなかった顔で下がった。女はそれ以上を足さない。
下がった先でもう一人のリーダーが何か言う。ルッツは首を振っただけだった。
「二枚のあいだに入って戦ってもいいのか」
今度はガレアの側から声が出た。
「構いません。ただし、どこから出るかを先に決めてから入ってください。決めずに入るのは不可です」
「入ってから決めちゃいかんのか」
「壁は固まったら動かせません。崩すなら立ててすぐです。両側が壁になれば横へは逃げられません。出られるのは入った所と、反対の端の二つだけです。あとから増やせません」
塔でも同じことを言われた。先に決めておけ、と。
あちらは終わってから、決めていたかを聞く。この人は決めていない者を先に入れない。
「立ち上がる前に、雪はどちら側から沈みましたか」
女が兵の方へ言った。返事はない。兵は壁を見ていて、ガレアの側は自分の支度をしている。
兵が壁を見はじめたのは立ってからだ。
「井戸の側からです」
アシュは言った。
女の顔がこちらへ動いた。子どもがいたことに驚いた顔ではない。広場のどこに誰が立っているかを一度は見てある顔だ。
「どこまでですか」
「人が四人並べるくらいの幅で、北の端まで順にです」
「及第点です」
女は兵の方をもう一度見た。誰も答えない。
女は杖を持ち替えずにこちらを向いた。
「もう一つ聞きます。壁は何のために立てるものですか」
「通れなくするためです」
「及第点に足りません」
女は壁の端へ顔を向けた。
「一枚立てると塞いだ所と、塞いでいない所ができます。相手は塞いでいない方へ行くしかありません。行く先が先に分かります。そこに人を置いておけます」
アシュは黙った。
言われてから壁の端の先を見た。踏み固めた雪の上に、新しい足跡は端の一箇所にしか付いていない。覗きに行った兵はみな同じ所を回って戻ってきていた。
女はそれだけ言って、石突を差したまま短く唱えた。
「エルデラ、ペトリナ――ファルサ・ヴェッグ・ヘンドル」
壁が内側へ崩れる。土は元の場所へ戻らない。低い山が一つ残って、踏み固めた雪がそこだけ切れている。女はそれから杖を雪から抜いた。
「あなた」
女はこちらを見たまま言った。
「じきにここへ人が並びます。下がってください」
「はい」
アシュは下がった。魔道具屋の板壁に背中が当たって、それ以上は下がれない。
兄は下がらずにアシュの右の側へ一歩寄った。
女はもう見ていない。石板を胸の前へ持ち上げて何かを書き、ネッケルの方へ歩いていった。
その途中でネッケルがこちらを見る。
アシュは目を落とした。
顔を上げるとまだ見ている。女が横に立って石板を差し出しても目はこちらにあった。
近くにいた町の者が二人、顔を向けた。
片方は顔を知っている。市場で母と話す人だ。目が合うと笑うのでも眉を寄せるのでもなく、そのまま連れの袖を引いて広場の北へ歩いていった。
夏なら笑う人だ。今日は、笑うところまで来て止まる人が増えている。
――――――――――――――――――――
オルトが井戸の方から来た。上着の内で何かを確かめながら歩いている。
「さっきの石壁、見たか」
「はい」
「どうだった」
「唱え終わってから土が動きだすまでが、長かったです」
オルトは頷きも笑いもしない。
「オルトさんが前に言っていた、ためを数える稽古のことですか」
「そうだ」
オルトは杖の女の方を見ている。顔ではなく杖の方だ。
「三十数えるところから十まで縮めるのに、オルトさんは二年かかったと言っていました。あの人は何年かかったんですか」
「聞いてない」
それで終わりだった。オルトは腰の袋の口を締め直して北へ歩いていく。
バルトが入れ違いに来て、右の手首を一度だけ取った。指の付け根から肘まで上へなぞって離す。
「痛みますか」
「いいえ」
「では、そのままでいてください」
バルトはそれだけ言って戻っていった。治せないと言った日から、この人の言うことは一つも増えていない。
シアが井戸の縁に腰を掛けている。荷は足元に一つだけだ。背には何も付けていない。
目が合った。薄い緑の目だ。合っただけでシアは北の方へ顔を戻した。
「行くんですか」
「行く」
「いつ戻りますか」
「北を見てからだ」
それだけ言って立った。立つ音がしなかった。
塔で目の色を教わった日、ゼドルが並べたのは金とオレンジと赤だけだった。器の大きさの順だ。それで終わりだった。
ガイとフェイの琥珀はその並びに無い。薄い緑も無い。自分の青は、分からん、と言われた。
並びに入らない色が三つになった。
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ガイが南の路地から出てきた。
手ぶらだ。割れた木剣は詰所に置いてきたらしい。
「今のは何だ」
ガイが言った。
「石壁っていう魔法らしい」
「壁が生えたのか」
「土からできてる。雪の下の土が集まってた」
「ふうん」
ガイは土の低い山を見て、それから自分の脇を見た。それ以上は聞かない。
三人で魔道具屋の板壁の前に並ぶ。並ぶと、ここが広場でいちばん端になる。
北の方でネッケルが紙を広げて、指を二度置いた。
置いた先へすぐに動いたのは外の四人と館の兵だけだ。ガレアの若い衆はフェイを見た。フェイは詰所の前の父を見ている。父が顎を引く。それから若い衆は指の置かれた所へ歩いた。
あの五人が獣を倒すところを、アシュは見ていない。見たという話も町では聞いていない。見たのは土が一度上がって、一度崩れたところまでだ。
その少し後ろで父が自分の四人にだけ短く何か言った。声はこちらまで来ない。四人が同じ方へ動いて、指の置かれた所とは違う所で止まる。
ネッケルは紙から目を上げて父の方を見た。見ただけで、紙へは手を戻さなかった。
「二人で別々に言ってるな」
ガイが言った。
「どっちが決めるんだ、あれ」
「分からない」
フェイが詰所の前から出てきて、こちらへ来た。
ガイの前で足を止める。止まってから、何も挟んでいないガイの脇を一度見た。
「割れた木剣は、まだ捨てとらんのか」
「うん」
「そうか」
フェイはそれ以上聞かなかった。ガイもそれ以上言わない。
「アシュ」
「はい」
「手はどうだ」
「肘から先が動きません。指は曲がりますが、握れません」
「そうか」
フェイはガイの頭に手を置いて、置いただけで離した。押しも撫でもしない。それから北へ戻っていった。
ガイは頭を直さなかった。触られた側の髪が寝たままになっている。
――――――――――――――――――――
父が広場を横切ってくる。
「行く」
「ああ」
レインが先に返した。
「レイン」
「なんだ」
「今日は走るな」
「今日も、だろ。バルトさんにも言われた」
「なら、二人に言われたな」
父はガイを一度見た。何も言わずに目を戻す。
「アシュ」
「はい」
「指は動くか」
アシュは右の親指を人差し指の方へ寄せた。寄って、腹に着く。着いた所で力が抜けて、指がまた開く。
「昨日は指の腹に着きませんでした」
「分かった」
父はそれだけ言って北へ歩いていった。途中で一度も振り返らない。
母は来ていない。母が来ないことを父は一度も聞かなかった。
――――――――――――――――――――
斥候の二人が先に街道口の方へ抜けていく。背に短弓を回した男と、何も背負っていないシアだ。
その後から外の残り四人、支部の九人、ガレアの十二人、父たちの四人が続く。館の兵はいちばん後ろについた。
列が折れて見えなくなるまで三人とも動かない。
残ったのは土の低い山が一つと、踏み荒らされた雪と、井戸だ。
ガイが土の山を靴の先で一度蹴った。乾いた音がする。さっき兵が柄で叩いた時と同じ音だ。
「硬えな」
「うん」
「これ、いつまで残るんだ」
「分からない」
ガイは北を見たまま、蹴った足を戻した。
「詰所は誰が残るんだ」
「怪我してる二人と、カスパルさんだ」
レインが答えた。
「立って歩けるのは一人だな」
「そうだな」
ガイはそれ以上言わない。北の口には誰もいない。列の音はもう聞こえなかった。
三人で南の口へ歩いた。
井戸の脇まで来たところで兄が釣瓶の縄を一度引いて、また戻した。汲みはしない。縄の途中に結び目が一つ増えている。あの夜より後に誰かが結んだ結び目だ。
「明日も俺が汲む」
「はい」
「その次もだ」
「はい」
兄はそれで黙った。数を言わなかったのでこちらも聞かない。
レインが先に歩き出した。ガイがついていく。
アシュは残って、右手を体の前へ出した。
親指を人差し指の方へ寄せる。先が腹に着く。着いた所で力が抜けて、指が開く。
七日目になる。
左手で右の手首を取り、腹の前へ載せてから歩き出した。
――――――――――――――――――――
広場の縁でガイは詰所の方へ折れた。割れた木剣がそこにある。
南の路地へ入ってすぐ、アシュは兄の袖を左手で引いた。
「塔へ行きます」
「今からか」
「はい。今朝、広場で数えた人数をゼドルさんに言ってきます」
兄は自分の左の膝を一度見た。
「歩くだけなら平気だ」
家の戸の前で止まり、兄が戸を叩いた。
「母さん。塔へ寄ってくる。俺も一緒だ」
「坂で転ぶんじゃないよ」
返事を聞いてから歩き出した。
突き当たりを西へ折れると家が切れて、路地が細くなる。風が背中から来る。町の方から坂の方へ抜けていく風だ。
坂には踏まれていない雪が残っている。
途中で雪が横へ押しのけられて、下の土が人の長さで三つ出ている。三匹を引きずって下ろした跡だ。三匹はもう無い。あの夜ゼドルが三度唱えた場所に、今日は土が出ているだけだ。
爪先を先に入れて、それから重さをかける。兄は左の足のたびに一度止まって、止まってから次を出す。
石塀の切れ目で兄が止まった。
「ここで待ってる」
「はい」
扉の脇の壁が一度、薄く光った。来訪者術式だ。人が来ると一度だけ光る。
扉を押す。苦い匂いが先に出る。
中は暗い。竈に火が入っていて、その赤だけが床に届いている。ゼドルはいつもの椅子にいた。外套は膝に掛かっている。冬のあいだ毎日見るとおりだ。
こちらを見た。何も言わない。言わないので、こちらから始める。
「今朝、父たちが北へ出ました」
「何人だ」
「三十一人です。館の兵は別です。そちらの数は聞こえませんでした」
「残ったのは」
「詰所に三人。怪我をした二人とカスパルさんです」
「その三人は、自分の目で見たのか」
「兄に聞きました。中は見ていません」
「ギルドの支部には誰が残った」
「分かりません」
ゼドルは膝の外套を見た。こちらを見ていない。
「出ていく方は数えたか」
「はい」
「残る方は」
アシュは右の手首を左手で持ち直した。
「……数えていません」
ゼドルは膝の外套を取って立った。
肩へ回して前で留める。留める手は七日前と同じで、途中で止まらない。
七日前は、動く先ができたから町へ来てほしいとアシュが頼んでからゼドルは外套を取った。今日は言っていない。聞かれた数に答えただけだ。
「儂が町へ降りる」
「詰所へ行くんですか」
「詰所だけではない。町にほかに誰が残っとるかも確かめる」
「いつまでいますか」
「ガルドが戻るまでだ」
ゼドルは竈の方を一度見た。火はそのままにして、薪は足さない。扉へ向かう。
外へ出ると兄が石塀の切れ目の脇に寄った。
ゼドルは兄の左の膝を一度見て、何も言わずに通り過ぎた。兄も何も言わない。
ゼドルが先に下りる。雪の寄っていない側を選んで、歩幅を変えない。
兄がその後ろを左の足のたびに止まりながら下りる。アシュがいちばん後ろだ。右手は腹の前に載せたままで、左手は空けてある。
三つ出た土の脇を三人で通った。
路地が家の並びに戻る。
家の戸の前でアシュと兄は止まった。ゼドルは止まらない。戸の前を通り過ぎて、路地を広場の方へ歩いていく。
振り返らない。今朝、父も振り返らなかった。
「母さんに言ってくる」
兄が戸を押して中へ入った。
アシュは戸の外に残った。
路地の先で外套の背が小さくなる。広場の明るさの中へ入って見えなくなった。
右の手首を腹の前へ載せ直してから、兄の開けた戸をくぐった。




