第二十一話
「もう戸は開けていい」
中から返事は来ない。
フェイは戸を二度叩いた。
いつもなら二度では起きない家でも、今日は二度目で起きる。三度目は叩かない。
市場通りの西の端に戸は五軒ある。
どれも下の方をやられていた。牙の跡が下から上へ流れて、戸板の目に沿って毛羽立っている。鼻を差し込んで押し上げ、掘ろうとした跡だ。
跡は五軒とも大人の膝より下の同じ高さに付いていて、戸板を掘った深さと、掘った跡が戸板の目に沿って流れる向きだけが、一軒ごとに違っている。
畳んだ台は縄ごと通りへ落ちたままになっている。三つは台の板が割れていて、割れ口の内側にだけ雪が残っていた。
「終わったのかい」
戸の内から女の声がした。
「開けていいと言いに来た」
「そうじゃなくてさ」
「開けていい」
閂の上がる音がして、戸が指の幅ぶん開いた。
隙間から目だけが出る。人より先に通りの左右を見た。それから戸は大きく開いた。
女は敷居を跨がずに立っている。
「二晩だよ」
「そうだ」
あの夜と、昨日の夜だ。昨日の朝は市場通りをまだ開けさせなかった。この女は二晩、閂の内側にいたことになる。
「誰も来なかった」
責める言い方ではない。起きた順に並べているだけの言い方だ。
「来させなかった」
女の口が半分開いて、そのまま閉じた。
言い足せることはある。だが、足して楽になるのはフェイの側で、この女の側ではない。フェイは口を閉じたままでいた。
三軒目は閂が下りていなかった。
中の男は土間に腰掛けを置いて、その上に座って戸を見ている。二晩そうしていた形だ。腰掛けの脚のまわりだけ土が乾いている。
「叩いたのは聞いたよ」
「返事はしなかったな」
「するなと言われた」
言ったのはうちの者だ。あの夜、戸を二度叩いて名前を呼び、「開けるな、返事もするな」とだけ言って次の家へ行った。その一言を、この男は二晩守って座っていたことになる。
「これからは返していい」
男は腰掛けから立った。立ってからしばらく戸口の外を見ていた。
端の二軒は戸枠の色が新しい。あの日の昼に大工を入れて、閂が落ちるように削らせた分だ。
二軒とも二度ずつ叩いた。
二度で足りる叩き方を教わったことはない。見ていただけだ。見ていた相手は昨日の朝、その手前の家の前で見つかった。
二軒とも中から返事が来た。
手前の家の女が敷居の外へ出て、雪の上の一点をしばらく見ている。昨日の朝までそこに男が横になっていた場所だ。運び出した跡はもう埋まって、雪の面は通りのほかの所と変わらない。
女は何も聞かなかった。こちらからも言わない。
言えばこの女はこれから毎朝そこを見る。
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街道口には大牙が十一匹、腰の高さで二列に寄せてある。
あの夜、通れる所を一つに絞るために寄せた物だ。絞るのに使った物が、明るくなれば片づける物になる。
一匹を大人二人では上がらない。前と後ろを持って、一度で腰まで来ない。四人で一匹だ。
街道口に十一。宿の裏の細い道に九。塔の坂に四。南の路地に一。
二十五匹に対して、立って手の使える者は十人しかいない。
東の荷車は街道の東の端に置いたままにしてある。動かすのは大牙を全部片づけてからだ。
大牙の体を一匹ずつ、街道口から畑の縁まで引き出す。そこで牙と皮を外して、残りを焼く。
引く前に剥がす手間がある。二晩雪の中に積んであった体は、隣の体と地面に凍りついていた。棒を差し込んで起こし、剥がれたところで縄を掛ける。
ディルクは縄の端を左手で持っている。右は下げたままだ。
縄で輪を作って大牙の前脚のつけ根へ回し、四人で引く。雪の上は滑るので思ったより進む。荷車の轍を跨がせるところで一度止まった。
引くうちに輪は締まって、前脚のつけ根から肩の方へずり上がる。ずれれば止まって掛け直す。一匹を畑の縁まで出すあいだに、三度掛け直した。
毛の下は硬い。首から前は水を吸った袋のように重く、腰から後ろだけが軽い。持つ側は必ず後ろを取りたがる。取り合いにならないように、四人の位置は先に決めた。
「四匹です」
日が傾いてから副長が言った。
「明日は」
「同じ人数なら同じ四匹です」
十人で一日に四匹。引くのは早い。凍った体を剥がすのと、皮を外すのに日が食われる。二十五匹なら六日かかる。
あの朝、片づけに何人要るかは数えていなかった。数えればこうなる。
街道の方から男が三人来た。
先頭は荷方の男だ。杭に繋いだ馬を一頭やられて、値だけ言って帰った男になる。
三人は二列の前で足を止めた。
「手伝うのか」
「そのつもりで来た」
「牙と皮は持っていっていい」
男は頷いた。値は言わなかった。
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あの夜から数えて三日目は町の男が九人来た。前の日の三人が連れてきた分だ。
街道口が空いたのはその日の暮れになる。牙と皮を外した残りは畑の縁で焼いた。煙は二日消えない。風が回るたびに町のどこかの通りへ低く落ちてきて、竈の煙と混ざったまま戸の隙間から家の中まで入るので、町のどこにいてもその匂いがした。
倅は縄を運んでいた。
引く手には数えていない。縄と水を運ぶだけだ。それでも運ぶ者が一人いれば、引く手が縄を取りに戻らずに済む。
縄の輪を片手で担いでいる。担ぎ方が悪い。肩ではなく肘に掛けている。
「そっちじゃない」
言うと持ち替えた。持ち替えてからこちらを見ない。
割れた木剣は詰所の壁に立てかけたままだ。二本とも、今朝もそこにあった。
あの夜、詰所の戸は内から開く。内から開くようにしてあるのはこちらだ。出るなとは言わなかった。
木にしたのもこちらだ。木は割れた。鉄なら割れん。割れない代わりに倅はもう一歩前へ出る。
その先の話は今日しない。今日は縄を運ぶ手が一人でも要る。
塔の坂の四匹は四日目の朝になった。
坂は荷車が上がらん。筵に乗せて下まで引いた。
「坂の四匹は、塔の爺さんがやったそうです」
ニコが言った。町の話として団まで届いた分だ。
あの夜より前に、あの爺さんが町へ降りたのは一昨年の沢の一度きりだ。誰が呼びに行ったのか、なぜ降りたのかは、町の話には入っていない。
倅はあの夜、坂の下にいた。聞けば言う顔をしている。聞いていない。
塔へ聞きに行けば一人要る。今は一人も出せん。
同じ日の午後が南の路地の一匹と、宿の裏の細い道の九匹だ。
細い道は大牙一匹で埋まる。横へ並べられない。上から順に一匹ずつ引き出した。日のあるうちに終わったのは町の男が十四人出たからだ。
道の口でディルクが止まった。
上は宿の裏で、下は井戸へ落ちる。あの夜、この男と若い衆二人の三人で入って、あとからライナとオルトが足された。
真ん中の溝は氷で埋まっている。引き上げる時に体がその上を滑る。下の者は横へ寄る場所がない。
「入るか」
「右が使えません」
「腕の話じゃない」
縄を引くだけなら片腕でも入れる。聞いているのは、あの夜の場所へ戻れるかどうかだ。
ディルクは道の奥を見て、それから答えた。
「入りません」
副長は道の口から動かなかった。若い衆が縄を持って下りていくのを上から見て、上がってくるたびに数だけ言う。
九まで言って、そこで言うのをやめた。
その日の夕方、南から支部の組が一つ戻った。
四人いる。秋の終わりに依頼で出たきり町にいなかった組だ。
「依頼の板に出てるのは見回りだけか」
組のリーダーが聞いた。
「それだけだ。日ごとに二人。金はうちが出す」
「受ける」
「助かる」
四人は荷を解く前に街道口まで見に行った。戻ってきて、リーダーが二つだけ聞いた。
「十一はどこで倒した」
「そこでだ」
「あとの十四は」
「町の中だ。入られた」
リーダーはそれ以上を聞かなかった。
この四人が町にいるのは、依頼の紙が貼ってあるあいだだけだ。よその町でもっといい依頼が出れば、そちらへ行く。冒険者とはそういうもので、引き止める筋はこちらにない。
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五日目に町を歩いた。
朝のうちに広場へ集まったのはうちの十人と副長。ガルドの五人。支部の四人。あとは町の者だ。
町の者が何人来たかは数えていない。数えるより先に組に分けた。
男が出てくるとは思っていた。女が同じだけ出てくるとは思っていない。子どもは戸口から先へ出さない家が多い。
この町は大牙を狼と呼んでいた。呼んでいたあいだ、跡を見た者は一人もいない。
今日はその跡を見に出る側に町が回る。
見る場所は六つ。街道口とその両脇の畑の縁。市場通り。広場のまわりと井戸。南の住宅路地。西の坂の下。東の通り。
一つの場所に一つの組を当てて、どの組にも町の者を入れる。
「自分の家の裏と物置は、そこの家の者が見ろ。うちの者はよその敷地へ入らん」
見る場所は先に言った。
家の裏。物置。薪の山。荷車の下。宿の馬繋ぎ。畑の窪み。井戸の脇。
上は見ない。大牙は屋根へ上がらない。
「何を探しゃいいんだ」
「いるかいないかだ」
「いなけりゃ」
「いなけりゃ、いないのが今日の答えになる」
「北にはまだいるのか」
聞いたのは荷方の男だ。
「いる」
「どれくらいだ」
「言えん」
「言えんのか、知らんのか」
「知らん」
男は頷いて、それきり聞かなかった。
この男が詰所へ来た日、帰り際に言ったのは馬一頭の値だ。今日は北の数を聞いた。
去年、同じやり方で洗ったのは人だった。ロートスという、あの斡旋商だ。門の記録と宿の帳面と市場と館の控えを四つの側から洗って、何も出なかった。出なかったことが答えだった。
今度は獣だ。洗う先が紙から地面へ変わるだけになる。
数の出ている分だけ並べる。
あの朝シアが数えたのは三十二だ。畑の窪みを横切った分だけだ。その先は数えていない。三十二より少ないことはない。
町で片づいたのが二十五。
残りは七になる。七より多いかどうかは誰にも言えん。
ハンナが袖の先を引いた。
「どういうのを見りゃいいのさ」
フェイは雪へしゃがんで、指で四つの場所を押した。
「二つ割れの蹄が二つ。その後ろに小さいのが二つ。雪には四つ残る」
「鹿は」
「二つで終わる」
「深さは」
「前の二つだけが沈む。縁が崩れるくらいだ。後ろは表を撫でただけになる」
ハンナは隣の女に同じことを言った。その女がまた次の女に言う。
日の暮れまでに町の半分がこれを言えるようになる。
毎年一度はあるんだよ、と言っていた口だ。街道口で大牙を見た日に「毎年」とだけ言って止めてから、その言い方はしていない。
市場通りで台を出しているのはヨナスだけだった。青菜を並べる前に通りの雪を均している。並べる場所より先に、客の立つ場所を均す男だ。
残りの家は裏と物置を見て、戸を閉めたままにしている。閉めた家の前を若い衆が一度ずつ通る。
ヨナスの台の隣で女が二人、雪を落とした腰掛けに荷を置いて立っていた。売る側の女だ。荷はあるのに台を出していない。
「もう出していいのかい」
「止めとらん」
「そうじゃなくてさ」
聞いているのは、終わったかどうかだ。
「日が落ちてから言う」
女は不服そうな顔をしなかった。荷を腰掛けへ置いたまま、日が落ちるまで待つ気でいる。
昼を過ぎてから物置の裏で音がした。
若い衆が三人で回り込む。犬だった。首に縄の切れ端が付いている。
子どもが二人、井戸の脇の跡を指して呼んだ。しゃがんで見ると跡は四つではなく、沈み方も前と後ろで同じだった。その犬のものだ。
その日、出てきた物はそれだけになる。
日の傾く前に六つとも戻った。
街道口の組は畑の縁で鹿の跡を二つ。市場通りの組は割れた台の板の下から猫を一匹。広場の組は井戸の石囲いの裏まで見て何も無い。南の路地の組は雪をどけて、あの一匹の伏せていた場所の土が凍っているのを見ただけだ。西の坂の下と東の通りも同じになる。
出ません、というのを六度聞いた。
畑の縁には窪みが一本、東西に通っている。
夏は水が流れる。今は空のまま雪をかぶっている。北から下りてくる物はここを必ず横切る。
フェイは底へ下りて東へ歩いた。
跡はある。
二つ割れの蹄に小さいのが二つ。四つで一組だ。沈んでいるのは前の二つ。
向きは北だ。町から出ていった分になる。
二十歩に一つ。次は四十歩ほど空いて二つ。どれも同じ向きだ。
西へ折り返して同じだけ歩いた。
向きは西と北。町へ向いた蹄は一つもない。
一昨日の雪であの夜の跡は埋まっている。読めるのは降ったあとに付いた分だけだ。
その分が、町へ向いていない。
東の通りの外れも西の坂の下も、若い衆が同じ物を見て戻った。向きは全部外だ。
街道は北へ行けば半日で丘陵の裾に着く。
そこまでは出さない。出せば若い衆が二人、今日の町から抜ける。
歩いたのは窪みまでだ。窪みを横切らずに北から町へ入れる道はない。
川はそのさらに先になる。
猟師の二人は下りてこないままだ。小屋を見たきり、あれから誰も川を渡っていない。
今日も渡らない。
日の落ちる前に東の荷車を脇へ戻した。
あの夜からずっと街道の東の端にあった一台だ。四人で前を持って轍の外まで押す。押し終えると街道は元の幅になった。
戻ったのは幅だけだ。
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詰所ではカスパルがいつもの場所に、いつもの向きで座っていた。膝が悪いので今日も外へは出ていない。
「今日、ここへ来て聞いたのが四人だ」
「何をだ」
「全部同じことだ。終わったのか、と」
カスパルは答えていない。答えられる者が詰所にいなかった。
詰所の前で副長が帳面を開いた。
左手で書く。字は歪む。数だけは読める。
「今日、町を見て回った人数を書きます」
「書け」
「見つかった大牙は」
「一匹もいない」
「いない、と書きますか」
「書け」
書いてもその一行を持っていける先はない。
あの商人の時と同じだ。洗って何も出ず、館へ持っていける物が一枚もなかった。
今度は違う。言わなければ町が動かん。町は帳面を読まない。
「団長」
「なんだ」
「上の支部から回ってくる組が着いたら、北へ討伐に出ますか」
「出る」
「うちからは」
「言われた数を出す」
「町に残るのは」
「見回りの二人だ」
副長の手が止まった。止まってから書かずに帳面を閉じた。
「北へ出ることは、誰に言います」
「今日、終わったのかと聞きに来た町の四人からだ」
「四人だけでいいんですか」
「一人でいい。一人が聞けば明日の朝には市場まで回っとる」
広場へ出ると井戸のまわりに人が立っていた。
台を担いだ男。桶を提げた女。その後ろに子どもが二人。
今日いちにち地面を見ていた顔だ。
市場通りの方から声が来た。
「終わったのかい」
三日前、市場通りの西の端で同じことを聞いた女の声だ。あの時は家の中から聞いた。今日は広場に立って聞いている。
帳面には「いない」の一行しかない。
残っているのは、こちらが言うか言わないかだけだ。
「終わった」




