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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
グレンツ防衛線

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第二十話

 布は替えていない。

 巻いたのは昨日で、それから朝まで一度も替えていない。替えるために手を離すことができなかった。


 バルトは両手を男の脚から上げた。

 詰所の前の筵(むしろ)の上だ。街道口から運ばれてきた若い衆の脚を、夜通しここで診ていた。

 巻いた布の色は上げても変わらない。夜のあいだは離せばそこで止まった。今は離しても戻らない。傷の底が閉じて、表の布だけで持つところまで来ている。

 若い衆は目を閉じたまま息を吐いた。


「終わったんですか」


「深いところは。脚はまだ動かさないでください」


「いつまで」


「今日のうちは」


 それより先は朝の脚を見てからでなければ言えない。

 若い衆はそれ以上聞かなかった。


 筵(むしろ)の端に水が溜まっている。詰所の軒から落ちた雪が、筵(むしろ)の下へ入って溶けた分だ。

 空はもう白い。付与灯を伏せてある板戸の隙間にも朝の色が入っている。

 バルトは膝を立てた。片膝のところで一度止まる。手のひらではなく肩の奥が痛む。動かしてもよい痛みだ。


 この男は終わった。

 まだ治療が必要な者が何人かいる。全員を診終わるまでは朝が始まらない。


 広場の方からニコが来た。髪にも肩にも雪が付いている。

 詰所の板戸が内から開いて、中にいた若い衆が顔を出す。左腕は吊ったままだ。街道口で腕をやられて以来、この男はずっと詰所にいる。


「バルトさん、終わりましたか」


「今、終わりました」


「動かせますか」


「今日は動かさないように言いました」


 ニコは一度だけ頷いた。頷いてから広場の方を見る。運ぶ者を呼びに来た顔ではない。


「団長が広場へ集めろって。歩ける傷は歩かせて、歩けないのは俺らが運びます」


「死んだ人は」


 筵(むしろ)の上から声がした。


 ニコの口が止まった。


「一人だ」


 脚をやられた若い衆は目を閉じた。返事はしない。


 立って見回すと朝の広場には夜の形がそのまま残っていた。

 詰所の前の筵(むしろ)。踏まれて黒くなった道。市場通りの方は戸が閉じたままで開けてよいという声はまだ回っていない。


 ランドの店だけが開いている。

 中から子どもと年寄りが出てくる。急がせる者はいない。敷居を跨ぐたびに女の声が数を言っている。

 ミラの声だ。

 途中まで数えて、止めて、また一から数え直している。バルトが見ているあいだに二度そうした。

 理由は聞かない。二度目の数え直しが終わるまであの女は戸の脇から動かなかった。


 広場の西から二人が担ぎ板を運んできた。上に人が一人乗っている。

 顔まで外套(がいとう)で覆ってある。端から片方の靴だけが出て、靴の甲に雪が残っていた。

 バルトは道を空けた。


「見ますか」


 運んできた若い衆の一人が聞く。


「見ません」


「でも」


「もう見た人がいるでしょう」


 若い衆は担ぎ板の前を持つ男を見た。前の男が頷く。


「脈はなかった。息も」


「なら、私ができることはありません」


 言葉にすると短い。

 傷なら深さを見られる。血が止まっているか。底が閉じるか。布で足りるか。

 靴の甲の雪はまだ溶けていない。

 担ぎ板は広場の南へ運ばれていった。ニコはその後ろ姿を見送っている。


「西の戸は」


「五軒の戸に爪の跡がありました。破られた戸は一軒もありません。あいつが戻って叩いた二軒もです」


 ニコは担ぎ板の運ばれていった方を見て言った。

 ニコの話では、昨夜、西の戸を回っていたとき、あの男は「置いていけ」と言われた後で、まだ叩いていない二軒へ一人で戻った。二軒とも戸は持ちこたえ、戻った男だけが戻らなかった。


「仕留めた大牙(おおきば)は全部で十六匹です。街道口に十一、南の路地に一匹。坂の方に四匹と聞いています」


「路地」


「夜中に、レインとガイが仕留めた一匹です。レインは脚を少し怪我したみたいで、傷はそこまで深くなかったんで、布で縛っただけです」


 バルトは頷いた。夜半過ぎに詰所の板戸が開いて、レインとガイが外へ出ていったのは知っている。止める声は出した。手は上げられなかった。上げればこの脚の底が閉じるのをやめる。


「片づけは」


「団長が後だそうです。立って手が使えるのが十人しかいません」


 十人。

 ニコの口から出た数だ。腕をやられた一人と、担ぎ板の上の一人と、筵(むしろ)の上の一人は、その数に入っていない。


 井戸の方から五人が来た。

 先頭はディルクだ。剣は左手に提げている。右腕は体の横へ下がり、肩から上着の色が変わっていた。

 後ろにライナとオルト。その後ろの若い衆は二人とも腕と頬に浅い筋がある。背の低い方は腰から下が濡れて、膝の布に薄く血が滲んでいた。

 五人とも歩いている。

 歩けることと手当てが要らないことは同じではない。


「副長からです」


 バルトが言うとディルクは首を振った。


「そっちを先に見てくれ。俺は大したことない」


 左手の剣先が後ろの二人を示す。


「浅いです」と若い衆の一人が言った。


「浅いかどうかは私が見ます」


 詰所の壁へ五人を並べた。

 背の高い方は腕の外と頬。どちらも爪の先が通っただけで洗えば底まで見える。低い方の膝は氷で切った傷だ。濡れた脚衣を膝の上まで捲らせて、傷より先に皮膚の色を見る。白いが、指で押せば色が戻る。


「着替えてください」


「持ってきてません」


「借りてください。今、そこにいる人に」


 若い衆は詰所の戸を見て、ようやく頷いた。

 三箇所を洗って塗り薬を当てる。布を巻けば終わる傷だ。魔法を使う深さではない。


 次にオルトの指を見た。

 傷はない。両手を開かせると指先の動きがほかより遅い。息も浅い。


「どれだけ使った」


「数えていない」


「あんたが数えないことはないだろう」


「別の数を数えていた。細い道は九匹だ」


 ニコの言った十六に、細い道の九が加わる。

 一匹を大人二人では持ち上げられない。それを動かす団の手は十しかなく、そのうち二人は今、壁の前で膝と頬を洗われている。


「今日は使うな」


「使う先が残っていなければな」


「残っていてもだ」


 返事は来ない。代わりにライナが「聞いたよ」と言った。

 バルトはオルトを見たままでいる。オルトは指を開いて、閉じて、また開いた。


 ディルクの番になった。

 上着を肩から切って外す。右肩の傷は上着の下まで深い。固まっていた血は剥がすとまた細く出た。

 水で洗う。血の気配が引かなければ命の加護は寄ってこない。呼んでも声を使うだけだ。


「剣を置いてください」


「左だ」


「左右の話ではありません」


 ディルクは剣を壁へ立てかけた。空いた左手はすぐ上着の内へ入り、帳面を探す動きをした。


「帳面は後です」


「知っとる」


「なら今は肩だけ出してください」


 新しい布を当てる。深いが、夜を越して手を入れられる。


「治るか」


「治せます」


「何日かかる」


「まだ分かりません」


「脚の奴には何と言った」


「今日は動かすな、とだけ」


「なら俺も同じでいい」


 同じ傷ではない。だが、今日は使えないという一点だけなら同じだ。


「では、今日は右腕を使わないでください」


「分かった」


 今度は本人から返事が来た。

 命の加護を呼ぶのは、残った血の気配が引いてからになる。それに、いったん始めれば終わるまで手を離せない。だからほかの傷を全部見てから、ここへ戻って始める。

 布を巻いているあいだ、ディルクは広場の北を見ていた。昨夜守った道ではなく、街道口の方だ。

 バルトはそちらを見ない。手当てのあいだは手元だけを見る。


 その後から歩いてくる者がいる。

 最初に見えたのは二つに割れた木剣だった。ガイが短い方を握り、長い方を脇に挟んでいる。

 隣のレインは左の足を着くたびに歩幅が狭くなる。

 二人とも戻ってきた。そう思ってから後ろにいる子どもを見た。


 アシュの右腕が下がっている。歩けば腕は体の横で揺れる。右だけが揺れない。左手で手首を持って腹の前へ載せている。

 その隣にゼドルがいた。

 外套(がいとう)を着ている。塔の外でこの老人を見ることはある。着て歩いているところを見たことはない。


「バルトさん」


 レインが先に口を開いた。


「脚を見せてください」


「弟が先だろ」


「血が出ている人からです」


「こいつだって怪我してる」


「弟さんは血が出ていません。あなたは出ています」


 左の膝の下に巻いた布は二重で、外側まで赤い。骨は無事だとニコが見たらしい。血は出ている。


「座ってください。布を外します」


「先にアシュを」


「レイン」


 名を呼んだのはゼドルだった。声は低い。叱る声ではなく、順を変えさせない声だ。

 レインは壁際へ座った。


 布を切って外す。傷は膝の下を斜めに走っている。牙が布ごと表を裂いた傷だ。骨には触れていない。洗うと土が流れた。

 塗り薬を当てて、新しい布を巻く。


「膝を曲げて」


 レインが曲げる。


「伸ばして」


 伸ばす。伸びきる手前で一度止まった。


「傷は塞がります。塞がってからも、しばらくはそこで止まります」


「治らねえのか」


「治ります。跡が突っ張るだけです」


「今日は走らないでください」


「走らねえよ」


「歩くのも、できるだけ少なくしてください」


 レインは口を閉じた。返事の代わりに立とうとする。


「まだです。座っていてください」


「なんでだ」


「弟の話を立ったまま聞かないためです」


 それでレインは座り直した。ガイも隣へ腰を下ろす。割れた木剣は膝に置かず壁へ立てかけた。二本は一本に戻らない。


 アシュが前へ出た。右の手首は左手に持たれたままだ。


「痛むところは」


「ありません」


「痺れは」


「肘から先です」


「指は動きますか」


 アシュは左手を離した。

 右腕が落ちる。落ちきる前に左手でまた取った。指は少し曲がる。親指が人差し指の側へ寄って、そこで止まる。握る形にはならない。


 バルトは自分の指を一本、アシュの手のひらへ置いた。


「握ってください」


 指先が触れた。触れただけで押し返す力は来ない。


「触っているのは分かりますか」


「分かります。左より遠いです」


「どこがですか」


「触られたところが」


 手のひらに傷はない。手首にも肘にもない。腫れていない。熱も持っていない。

 傷がなければ深さを測れない。


「何をしましたか」


 アシュは答えなかった。

 ゼドルも答えない。老人は広場の北の方を見ている。

 バルトはもう一度、肘から指先までを触った。

 温度は左右で変わらない。触れた場所を聞けば全部当たる。遅いが、消えてはいない。

 治癒の手を当てても行く先がない。


「私には治せません」


 レインが立った。立って、左脚に重さが乗ったところで眉が動く。


「治せないって、どういうことだよ」


「傷ではありません。私が治せるのは傷です」


「じゃあ、これは」


「時しか戻せん」


 ゼドルが言った。


「どれくらいでだ」


 今度はガイだった。


 ゼドルはすぐには答えない。アシュの右手を取って、袖を肘まで上げた。指を一本ずつ、小指から親指まで押していく。


「四日で、今より動く」


 押し終えて、手のひらを返す。


「二十日で、軽い物が持てる」


 曲がるところまで曲げて、そこで止める。


「五十日で握れる。剣は八十だ。前後はする」


「戻るってことだろ」


 レインが言った。


「そうならん者もおる」


 ゼドルはそれだけ言って手を離した。


「なんで分かるんだよ」


 レインの声だった。ゼドルは答えない。

 理由は付けない。何人見たのかも言わない。

 バルトはこの老人と親しくない。それでも、言い切らずに終わる声を聞いたのはこれが初めてだった。


「四日、二十日、五十日、八十日」


 アシュが言った。


「今は日を数えなくていいんですよ」


「数えないと戻ったか分かりません」


「戻ったら手の方で分かります」


「でも数えます」


 声はいつもと変わらない。変わらない声で四つの数をもう一度言う。


「四日。二十日。五十日。八十日」


 レインは弟の右手を見ている。ガイは壁へ立てかけた二本の木剣を見ている。

 どちらも昨夜のことは口にしない。

 バルトも聞かない。


「家へ戻れますか」


「戻れます」


「一人では帰しません。誰と戻りますか」


 アシュはレインを見た。レインは立ったままだ。走るなと言った脚で、もう弟の隣へ行くつもりでいる。


「俺が連れて帰る」


「歩いてください」


「分かった」


 今度は返事が早い。


 ガイは壁の木剣を一度見て、取らずに立った。


「俺も行く」


「お前はどこへ帰るんだよ」


「途中まで同じだろ。ここにいても運ぶ手にはなれねえよ」


 レインは追い返さなかった。


 三人が広場を横切っていく。


 途中でミラの声が止まった。

 数の途中だ。

 戸の脇からミラが出てきた。リアを抱えたままで、走らない。走れない。腕が塞がっている。

 代わりに三人の方が足を速めた。レインは走るなと言われた脚で半分走っている。

 何を言ったかは聞こえない。広場の南の縁で四人が一つになって、しばらく動かなかった。

 店の戸口には数え終わっていない列が残っている。給仕のソフィが代わりに戸の脇へ立った。


 ゼドルはすぐには動かない。バルトは老人を見た。


「ゼドルさん」


「何だ」


「あの子は戻ります」


「儂《わし》がそう言った」


「あなたに言っています」


 ゼドルの目が一度だけ広場の南へ向いて、すぐに北へ戻った。


「こいつは八十まで数える」


 老人はそれだけ言って、三人の跡の横へ自分の足跡を置いていった。


 広場の南で担ぎ板を下ろす音がした。

 店の戸口では、ソフィの声が数を言っている。市場通りの戸は開かない。街道口には十一匹、坂には四匹が転がったままだ。

 今朝、片づいたのは担ぎ板の一つだけだ。

 バルトは詰所へ戻って、まだ血の気配の引かない肩の前へ座り直した。


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