第十九話
勝手口の閂を壁へ立てかけて、外へ出た。
落とせば音が出る。音が出れば誰かが確かめに立つ。立てかけたものは倒れない。
路地は行き止まりだ。突き当たりに井戸があって、そこまで行くほかに外へ抜ける道はない。
その井戸の方で鳴っていたものが、少し前に止んだ。
鉄が石に当たる音と、人の息の音だけだった。振っている者も受けている物も名前がつかない。音の数だけが数えられる。獣の声は一度もしない。
三十九のうちの一人が減る。母は数え直す人だから遅くとも次に数えた時には分かる。
西向きの窓から坂の方を見ていて、離れなさいと言われた。
あの窓から塔は見えない。屋根の陰になる。見えるのは路地の先の坂の下までで、そこから上には何もない。
見えなくてもあの人はいる。雪の深かった日に行っても扉は開いた。
店の中で、一人出れば中の手が一つ減るのだと母が言うのを聞いた。その勘定に、坂の上の一人は入っていない。
それが分かってからもアシュはしばらく樽の脇に座っていた。座っているあいだに井戸の方の音が始まって、止んだ。
壁に沿って歩いた。
雪は足の甲まで来ている。踏むと音が出るので先に誰かが踏んだところを選んで踏んだ。
井戸の脇まで来て止まる。人が四人か五人、井戸の向こうの細い道に立っている。こちらへは背を向けたままだ。来る物を待っている立ち方で、待っている人は後ろを見ない。
その背中の後ろを通った。誰の背中かは見なかった。
名前の分かる距離まで見れば向こうもこちらに気づく。気づけば一人がアシュを店まで戻すことになる。戻しているあいだ、この道に立つ者が一人減る。
広場の南の縁を回って、住宅の路地へ入る。
路地はいつもより広く見えた。戸が一つも開いていないと家は道の側から見て壁と同じになる。
家の戸に手をかけた。
動かない。閂が内から落ちている。
この戸の閂には外へ通した引き紐がある。最後に出る者が路地から引くと中で受けへ落ちる。外から上げるには戸板の穴へ鉄の鉤を差すしかない。母が出しなに引いて、鉤は帯に挟んでいった。
錠を付けた戸はこの町にない。登録した者でなければ開かない魔道具の戸ならある、とゼドルから聞いた。金貨が要るので持っているのは館と支部と大きな商家くらいだという。
この家の戸にあるのは閂と引き紐と、母の帯の鉤だけだ。
中に掛け棒がある。いちばん上に木剣、その下の受けに鉄剣。春に買ってもらったアシュの分で、獣の出た夜から片手で届く高さにしてある。
届く高さにしてあってもこの戸の向こうだ。
振っていいと言われているのは庭で、父が見ている時だけで、人にも獣にも向けない。三つとも今夜は一つも合わない。
家の中に、今夜持っていける物はない。
手を離して、路地の奥へ歩いた。
――――――――――――――――――――
坂の下の十字路に立った。
塔から下りてくる道が、ここで町の路地に合わさる。
この十字路で、昼のうちにシアに会った。父の組で跡を見る人だ。家へ来ても長くはいない。
塔から帰るアシュに、今日は早く帰れ、と言った。何かありますか、と聞くと、ある、とだけ返る。それきりだった。
あの人は知っていて、言わなかった。言われても今日のアシュにできることは一つも無い。それは分かる。分かるのと、店の樽の脇に座っていることとは別だ。
坂を上った。
風は背中から来る。北から町を抜けて、この坂の方へ出ていく風だ。
風が通る道なので雪は坂の左の側だけに寄って積もっている。寄っていない方を踏むと足の裏が滑る。滑ってから体を戻すのにいつもより時間がかかった。
息は上がらない。上がらない代わりに足の方が先に鈍くなる。
雪の上に自分の足跡のほかは何もない。割れた蹄の跡も一つもない。
上りきると石塀の切れ目があって、その奥が塔だ。
高いところの窓が一つだけ明るい。あれは毎晩明るい。中の人が寝ているかどうかとは関わりがない。
扉を叩いた。二度叩いて、返事を待たずにもう二度叩いた。
扉の脇の来訪者術式が光ったのは叩くより先だ。坂を上りきったところで一度だけ光って、それで済んでいる。同じ時に中の竈の石も光る。
扉が内側へ開いた。
「雪の深い日は来んでいい、と言ったな」
「言われました」
「坂で転んだか」
「転びかけました」
ゼドルは半歩退いた。退いただけで入れとは言わない。
中は寒い。竈の火は落ちている。椅子が一つ、いつもの場所にある。膝に掛けてあるはずの外套は、今日は椅子の背に掛かっていた。
「町に獣が入りました。大牙かどうかは見ていません」
言ってから順に並べ直した。この人に言うなら見た物と聞いた物を分けて言う。
「日の落ちる前に、詰所の人が家を回りました。子どもと年寄りをランドの店へ入れるようにと。入ったのは三十九人です。数えました。母と妹もあの店にいます」
「上の子は」
「兄は詰所です。父がどこにいるかは知りません。聞かないで出ました」
ゼドルは椅子の方へ行かない。さっき退いた場所から動いていない。
「ここからは耳です。音は三度、場所が変わりました。はじめは街道口の方で、次が西です。三度目が井戸の方で、それが止んでから僕は出ました」
「止んだのは終わったからか」
「分かりません」
「よし」
分かりませんと言った方に、よし、と返ってきた。
「僕の目と耳はここまでです。あとは店の中で人が言っていた話です」
「言え」
「店では、一人出れば中の手が減ると母が言っていました。外に人が何人いるかは知りません」
「お前が出たことを知っとる者は」
「いません」
「母親もか」
「はい」
ゼドルは何も言わない。
言わないのでそれが叱られたのだと分かる。叱る言葉を使わない人でも返ってこない分は残る。
そこで言葉が続かなくなった。
続かない理由は自分でも分かる。ここから先は見た物でも聞いた物でもなく、自分が言いに来たことだからだ。
「秋に、この部屋で言われました。動く先がなければ動かない、動く先ができれば話は別だ、と」
「言った」
「町へ来てください。母と妹と兄がいます」
塔の中が静かになった。
高いところの明かりが石の壁に落ちていて、その白がいつもより広い。火がないと影が薄くなる。
ゼドルは椅子の背から外套を取った。
肩へ回して、前で留める。留める手が途中で止まらない。何度もやったことのある手の動きだった。
この人が着るところをアシュは見ていない。一昨年、沢の下まで来てくれた日も、着いた後の姿しか見ていない。着ないで膝に掛けてあるのは冬のあいだ毎日見ている。
「扉を閉めろ」
「はい」
「後ろを歩け。儂より前へ出るな」
「はい」
「三つ目を言うぞ。よく聞け」
ゼドルは石塀の切れ目のところで一度立ち止まった。
「儂が唱えたら目を閉じるな」
――――――――――――――――――――
ゼドルは走らない。歩幅も変えない。雪の寄っていない側を選んで下りていく。上る時にアシュが滑ったのと同じ場所で、この人は滑らなかった。
同じ坂が、上った時より長い。急ぎたいのは後ろを歩くアシュの足の方だ。
最初の一匹は坂の途中にいた。
上ってきた時にはいなかった。跡は坂の下から来ている。町の側から入って、そのまま上ってきた。
アシュが通ったのはその前だ。
石塀の切れた先の窪みから背中が上がってくる。肩の高さが大人の腰のあたりで、アシュの顎の下まで来る。毛は灰と茶が混じっていて、背筋の一本だけ色が濃い。口を閉じたままで下の牙が唇の外へ出ている。
大牙を見たのは初めてだ。街道口の日は音を聞いただけで、見ていない。
足は猪で、顔は狼だ、と秋に父が言った。
言われた時は二つ並べて聞いた。今は両方が一つの体に付いている。
雪を踏んでいるのは割れた蹄だ。その後ろに小さいのが二つ付いていて、跡は四つ残る。上を見ると顔が長い。目は横ではなく前についている。
猪は人を追ってこない。人を追ってくる物に、この足はつかない。
二つの獣を混ぜたような物は、前世にはいなかった。いたのは話の中だけだ。
声を出さない。吠えも唸りもしない。出ているのは鼻の音だけで、それが坂を上ってくる。
「テンペシュトゥルム、フルゴリス――グニストル・プンクト・アイン」
言葉が終わるのと同じ時に、光が来た。
アシュには式が見える。
線が伸びて、伸びた先が始めた場所へ戻って閉じる。閉じたところに光が落ちる。水を出す時は線が閉じてから中が満ちるまでに間があって、その間に毎回何かを直している。
この形には間がない。閉じたのと落ちたのが一つだ。直す場所がどこにもない。
音は遅れて来た。光と同じ時ではない。
塔の卓の上で見た時は音がしなかった。あれは石が一つで、これは獣が一匹だ。
短い音だった。高くも低くもない。出たところで雪に吸われて、先へは伸びない。
焦げた匂いはそのあとから来る。雪の中でも分かるくらいに来る。
獣は前足を一度踏み替えて、それから横向きに倒れた。倒れてからも頭だけがこちらを向く。ゼドルは顎で坂の下を示した。同じ一匹に二度目は打たない。倒れた物を跨いで進む。
二匹目は坂の半ばだった。
こちらは正面から来た。真っ直ぐにしか来られない体で、来た先で向きを変えられない。ゼドルは半歩も動かない。動かないまま同じ言葉を唱えて、来る線の上に点を置いた。獣は前脚から雪へ落ちて、起きてこない。
二度目は光ではなく指を見た。唱え終わりに指の先が上がる。指が下りきる前に光の方が終わっている。指が下りてから光る、の順に見えない。指が下りきるより短いというだけだ。
三匹目は坂を下りきる手前で、道の脇の低いところから出てくる。
三度目も同じ言葉だ。瞬きをしない。線が閉じるところから光が落ちるところまで、途切れずに見た。
三度見た。
去年の冬、塔の竈の前で言われた。手本を見た日に手を動かすと手本の真似になる。真似は速い。真似た物は自分の手から出ていない。出ていない物は要る時に出てこない。
言ったのはいま前を歩いている人だ。
思い出しているのに、手のことを考えていた。
――――――――――――――――――――
十字路に人が二人いた。
背の高い方が兄だ。左の膝の下に布が巻いてある。上着の裾を裂いた物で、結び目が横へずらしてある。
もう一人はガイだった。木剣が二つに割れている。柄の付いた短い方を握って、柄の無い長い方を脇に挟んでいる。割れた口はどちらも白い。
「アシュ」
兄がそう言って、そこで止まった。
アシュが店にいると思っている顔だ。アシュは自分で数えた三十九人の一人でもある。兄はその一人がここに立っているとは思っていない。
「なんでいんだよ、お前」
ガイが言った。兄は答えを待たずに首を振った。
「後でだ」
ガイはそれきりアシュを見ていない。ゼドルの方を見ている。ガイがこの人を近くで見るのは今夜が初めてのはずだ。
「爺さん」
ゼドルは返事をしない。
ガイの手の物を見て、それから兄の膝の布を見た。二つとも見て、何も言わない。
路地の奥から鼻の音が来た。
四匹目は町の側から来た。坂を下りてきたのではなく、アシュたちが今夜通ってきた方から来ている。向いている先は兄とガイだ。
ガイは短い方を横へ寝かせようとして途中で止めた。柄から手のひら二つぶん先で終わっている方だ。両手で柄を持てば受ける所が手の先に残らない。
坂の下で、倒れていた三匹目が前脚を立てた。
ゼドルがそちらへ向き直る。
その背後で兄が前へ出た。出た足が半分で止まる。膝の下の布がそこで一度たわんだ。
ガイの手に受ける長さはない。
ゼドルを呼ぼうとした。獣は兄へ向かって駆けてくる。
兄の足は動かない。
塔の外では使うな、と約束している。沢で一度破った。去年の冬の宿場は、魔法を使うかどうかを先に決めておけと言われて使った分だ。破ったあとも、この約束は消えなかった。
雷はまだ何もするな、とも言われている。こちらはまだ一度も破っていない。
今から破る。
唱えた。
「テンペシュトゥルム、フルゴリス――グニストル・プンクト・アイン」
線が伸びる。
伸ばしながら、足りないと思った。石の上の点と走ってくる体とでは大きさが違う。届かなければ何も起きない。届かないくらいなら多い方がいい。
多く送った。
毎日やっているのは減らす方だ。増やす方をやったのは、覚えているかぎり二度しかない。椀から水が溢れた六つの日と、去年の冬の宿場だ。
閉じたところに光が落ちた。
落ちた場所は獣の首の下で、そこから前の脚の付け根までが一度に固まった。走っていた体が走っていた形のまま雪へ突っ込む。滑って、兄の足の少し手前で止まった。動かない。頭も動かない。
止まってから音が来た。坂で三度聞いたのと同じ短さで同じだけ遅れている。
右の肘から先が、急に遠くなった。
痛くはない。冷たくもない。腕が自分の腕でなくなったのでもない。付いているのは分かる。分かるのに、指の先まで返事が来るのが遅れる。
重さだけが増えている。肘から先が、濡れた布を巻いた分だけ重い。
右手を開いて、閉じた。
指は一本ずつ動く。動くのに、指先が手のひらまで届かない。届く前に力の方が先に切れる。
左手で右の指を掴んで外から曲げた。曲がる。曲げた形のままにしておけない。
左は普通に動く。左で剣を振ればいい、と一度だけ思ってやめた。振り方は右で覚えた。覚えた側が動かないのなら覚えていない側に振らせても同じ物にはならない。
閉じた線の外へ余った分が、伸ばした線をこちらへ戻ってくるのは見えていた。戻った先の端にあったのはアシュの右手だ。
去年の冬の宿場でも多く送った。行き先を外した分が抜けた先には割った薪が積んである。いちばん上の一本がバルトの肩に落ちて、次の一本が頭の横に当たった。傷を押さえていた手が布から離れた。
坂の下の三匹目は立てた前脚をまた折って伏せている。
ゼドルが来た。
アシュの右の手首を取って、袖を肘まで上げる。この人に手首を取られるのは二度目だ。一度目は沢で、切れた縄が巻きついたままの手だった。
腕を持ち上げても指はこの人の指を握らなかった。
「教えとらん」
「はい」
「見せたのは儂だ」
それだけだ。
ゼドルは手首を離さずに坂の方を一度だけ見た。長くは見ない。それからアシュの腕を下ろして、外套の前を留め直した。留める手は坂を下りる前と同じ速さだった。
兄は何も言わない。
言わないまま、雪へ突っ込んだ体とアシュとを順に見ている。順に見て、また体の方へ戻る。
ガイは短い方の木剣を持ったまま口を開けた。
「今の、お前か」
アシュは返事をしなかった。
しないでいるあいだに兄がガイとアシュのあいだへ半歩入った。庇う立ち方ではない。見えないようにする立ち方だ。もう見られた後で、それでも入った。
風は町の方から来て、ここを抜けて外へ出ていく。
焦げた匂いは町へは戻らない。
兄がアシュの右の手首を持った。
持ち上げても指は兄の指を握り返さない。握らないまま、手は下がっていく。




