↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
グレンツ防衛線

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
88/112

第十八話

 ひびが、柄から手のひら二つぶん先まで伸びている。

 ガイの木剣だ。街道口で大牙(おおきば)に噛ませた日に入って、あの時は手のひら一つぶんだった。振るたびに少しずつ先へ行っている。

 レインは詰所の土間で、その隣に座っている。街道口で最初の音がしてから、ここを出ていない。

 詰所の板戸は内から閂(かんぬき)を落としてある。灯りは一つだけで、竈(かまど)の脇の低いところに置いてある。高いところへ置けば戸の隙間から外へ出る、と言ったのは土間の隅にいる若い衆だ。街道口で腕をやられて、まだ肩より上へ上がらない。バルトが治して、上がるまでひと月だと言われている。そのひと月のうち、まだ十日あまりしか過ぎていない。

 カスパルさんは奥の壁の側にいる。いつもの場所に、いつもの向きだ。膝が悪くて歩けないので、この人は最初から数に入っていない。

 だから詰所の中で動ける大人は土間の隅の若い衆だけだ。ニコは伝令で二度戻ってきて、二度目は何も言わずにまた出ていった。

 バルトは戸の外だ。街道口から運ばれてきた男が筵(むしろ)の上にいる。脚の傷は骨まで来ているらしい。

 あの人の治癒は長い。手を当てているあいだだけ進んで、離せばそこで止まる。どれだけで終わるかは傷による。

 終われば戸を開けて入ってくる。まだ入ってこない。

 低い声が時々、板戸の向こうから聞こえる。運ばれてきた男に言っているので、こちらへの用ではない。


「なあ」


 ガイが木剣を膝の上へ横に置いて、指でひびをなぞっている。


「これ、まだ持つと思うか」


「持たねえよ」


「だよな」


 ガイは指を止めた。止めてから、もう一度同じところをなぞる。


 音は北から来ていた。

 最初のは日が落ちてしばらくしてからで、街道口の方だ。土を叩く音と、金物が革に当たる音。悲鳴はない。

 そのうちに音が西へ寄った。市場通りの方だ。そこからは戸を叩く音が混ざるようになる。人を家の中へ入れるための音だ。

 この半刻ほどは井戸の方から来ている。宿の裏から井戸へ落ちる細い道に副長が立っている、と日の落ちる前に聞いた。


 膝を立てて座り直した。鉄剣は横に置いてある。鞘に入れたままだ。

 家へは日の落ちる前に一度戻った。母は土間にいて、どこへ行くのかは聞かない。掛け棒から自分の鉄剣を下ろすのを見ていて、見ていて袖の縫い目を指で押さえただけだ。

 弟と妹と母は店にいる。ニコが家を一軒ずつ回って、子どもと年寄りをランドの店へ入れた。

 入ってしまえば出てこない。母がいる。


「レイン」


「なんだ」


「井戸の方、静かになってねえか」


 言われて耳を戻した。金物の音が間を空けている。空いたところへ次が来ない。


「井戸までは行かせてねえよ」と若い衆が言った。「あっちは副長だ」


 その声には力がない。腕を吊った側の肩が下がっている。座ったまま動かない。



――――――――――――――――――――



 次の音は北でも西でもなかった。


 板戸の向こう、南だ。

 土を掘る音がしている。走っていない。歩いている。


 ガイが立って、戸の隙間へ顔を寄せた。


「入ってる」


「どっちだ」


「路地の方。うちの並びだ」


 レインも戸へ寄った。隙間から見えるのは雪の降っている分だけで、降っているせいで遠くの黒いところが余計に黒い。

 その黒いところが動いた。動いて、また止まる。

 止まっているあいだも音は続いている。鼻を前へ出しては、雪の下の土を確かめている音だ。


「一匹か」


「一匹だ。ほかは音がしねえ」


 若い衆が壁から背を離した。離してから膝で床を押して、途中で息を止める。吊った腕がついてこない。

 二度目で背が壁から離れた。床から体を起こすのに両手が要ることを、レインは今日まで知らなかった。


「座れ」


 奥から声が来た。カスパルさんだ。壁から背を離していない。


「団長は入れておけと言った。お前もだ」


「聞いた」


「聞いたなら座ってろ」


「あんたが行くのか」


 レインが言った。若い衆の右手が腰のあたりで止まった。そこには何も掛かっていない。剣は壁の側に置いたままだ。

 握るだけなら右でできる。振れば体が回る。回れば吊った側が先に行く。


「広場へ走れ。団長を呼んでこい」


 若い衆が言った。


「呼んで戻るより、あれが店へ着く方が先だ」


 レインは戸の外へ目を向けた。


「バルトさんもまだ手を離せないんだろ」


 若い衆は返事をしなかった。

 運ばれてきた男を今夜のうちは動かすな、と言ったのはバルト本人だ。

 呼ぶなら板戸一枚の向こうへ声を張ればいい。この人はそれをしない。しないまま黙っている。


「ニコは」


「さっき出ていった」


 言ってから若い衆は先を続けなかった。


「団長がそう言った。俺が言えるのはそれだけだ」


 カスパルさんが言った。歩けない人が言えるのはそれだけだ、という言い方だった。

 それからガイの方を見た。


「坊主は残れ」


「やだ」


 ガイが木剣を握り直した。握り直してもひびは同じところにある。


「カスパルさんが叱られるのか」


「お前が戻らん方が困る」


「戻るよ」


 カスパルさんはガイの木剣を見た。


 レインは鉄剣を取った。取ってから、取ったことを自分で見た。


「あれの行く先に店がある」


 若い衆はまだ壁の側に立っている。言い返すつもりはあったはずだ。その口が動く前に、路地の蹄の音が二つぶん先へ進んだ。


 去年の冬、ガルドたちが賊で峠の下まで出ていたあいだ、レインは家の裏で薪を割っていた。何があったのかを知ったのは、みんなが町へ戻ってからだ。

 次に何かあった時に薪を割っていたくない、とガルドに言ったのは夏の終わりだ。

 今夜は薪の前にいない。板戸の内側に座っている。座っているのと割っているのとで、あの冬から何が変わったのかが分からない。


「行くのか」とガイが言った。


「行く」


「じゃあ俺も」


「来るな」


 言ってから、それがさっきカスパルさんの言ったことと同じだと分かった。


「なんでだよ」


「その木剣で何ができる」


「噛ませられる」


 ガイはひびの上を指で押さえている。押さえたまま離さない。


「受けたら折れる。噛ませて放せば、俺は正面に残らねえ」


「街道口のか」


「一回やった。もう一回できる」


 街道口ではそれで一度、獣の足を狂わせた。

 レインは木剣のひびを見た。


「一回だけだ」


「一回だけだ」


 閂(かんぬき)を上げた。上げてから奥の壁の方を見ないで出た。見れば止められる。止められれば、こちらは止まらない理由をもう一つ探すことになる。


 筵(むしろ)はすぐ脇にあった。バルトの両手は男の脚の上だ。


「レイン」


 バルトの顔だけが上がった。手は上がらない。離せば治癒はそこで止まる。

 レインは足を止めなかった。



――――――――――――――――――――



 外は思っていたより明るい。

 雪が下から返してくる。灯りは町のどこにもないのに、屋根の切れているところだけが白く浮かんでいる。

 風は町の方へ向いている。


 詰所を出て南へ折れると、すぐ住宅の路地に入る。

 折れたところで匂いが濃くなった。獣の匂いだ。風で来た匂いではない。ここを通った分が残っている。

 大牙(おおきば)はその路地の真ん中を歩いていた。

 背中の毛は一本だけ色が濃い。肩の高さは大人の腰のあたりで、路地の幅の半分をそれだけで使っている。

 こちらを見ていない。

 行く先は路地の奥だ。その先に母の父の店がある。二階に灯りは見えない。いつもなら漏れる灯りが、今夜は伏せてある。


 呼ばないと来ない、と副長に言われたのは夏の終わりだ。出したくない物を先に出せ、と。

 言われた形は覚えている。出す物を探した。探しているあいだに、隣で声が出た。


「おい」


 ガイだ。

 考えて出した声ではない。出てから本人が自分の口を押さえている。


 大牙(おおきば)が向きを変えた。

 変えるのに一度、前足を踏み替える。胸と首が先に回って、腰から後ろの細い体はそこで一拍遅れる。

 遅れた分が終わると、あとは真っ直ぐだった。


 ガイが前へ出た。

 出た先は正面ではない。路地の左だ。レインはその後ろ、同じ左の側にいる。

 大牙(おおきば)の頭がガイを追って左へ向いた。頭が向けば体もそちらへ来る。向いた先へしか行けない体だ。

 跳んできた頭へ、ガイは木剣を突き出した。街道口と同じ手だ。受けない。下の牙の内側へ木の腹を押し込む。

 噛んだ。木は口の中で横になった。

 違うのは壁が近いことだ。柄はガイの左手にあって、木の先は頭を挟んだ向こうの、右の壁を向いている。

 大牙(おおきば)が前へ出る。木の先が右の壁に当たって、頭だけが押し戻される。前脚は雪を掻くのに頭が壁から離れない。踏む所が一足ぶん狂った。

 首を振っても木は牙のあいだにある。


 レインは前へ出なかった。

 前には振る幅がない。斬れる物はこちら側に一本しかないのに、その一本を振れない場所へ持っていくことになる。

 前にはガイと、牙に噛ませた木がある。こちら側にはまだ獣の太い胸がある。

 待つのは後ろだ。頭が右へ流れた分、細い腰から後ろが左へ振れてくる。その付け根が出た時にだけ剣が入る。


 壁と牙のあいだで木がしなった。しなう先はガイの手の側だ。ひびの入っているところだ。

 割れる音がした。低いのでも高いのでもなく、繊維の裂ける音だ。柄から手のひら二つぶんのところで木が分かれて、長い方は牙の内側に残る。

 短い方がガイの手に残った。裂けたところが手のひらへ入っている。

 ガイは短い方を握ったまま、左の壁際へ身を投げた。正面には残っていない。


 後ろ足の付け根が左へ来た。


 レインは入った。

 獣が首を振っている最中に、振っている向きの外へ出る。

 街道口の日は来た線から半分だけ体をずらした。ずらすには先に体を引く。引いた分だけ次が遅れる。

 今日は引かなかった。足の幅も変えていない。

 肩から先だけが線の外にある。牙は外套(がいとう)に触らない。

 よけたつもりがない。よけていないのに、そこに自分がいなかった。


 入ったところに後ろ足の付け根があった。

 鉄剣を横から振る。

 当たり方は覚えている。肉より先に骨が来て、手首から肘まで一度に上がってくる。

 柄は回らなかった。


 獣が横へ転がった。起きられないのに頭だけが来る。

 下がらない相手だ。街道口で見ている。

 見ているだけだ。あの時こちらは離れて、離れた先へ副長が来た。

 今日は誰も来ない。


 首の下へ入れた。ニコが街道口でやったのと同じところだ。

 毛と皮が横に割れて、血が遠くまで飛ぶ。雪の上に落ちた分だけが赤い。

 それでも頭は止まらない。振った先の下の牙が左の膝の下を裂いた。

 脚衣が裂けて、その下も裂けている。痛みは来ない。来ないまま、靴の中が温かくなっていく。


 三度目を入れた。

 鉄剣を押さえたまま待つ。動かなくなったのが本当かどうかが、こちらには分からない。

 頭はもう上がらない。鼻の音もしなくなった。

 それでも足を引くまでに間があった。


 引いた先に、自分の踏んだ跡が二つ残っている。一つは入った時の跡だ。もう一つは今のだ。二つは並んでいる。

 横へ動いた跡がない。

 街道口の日は来た線から半分だけ体をずらして、ずらすために先に体を引いた。引いた分の跡が、今日は雪のどこにもない。


 去年の秋、広場で同じ道を二度歩いた。一度目は三歩で肩がぶつかる。二度目は先に見て肩を引いた。それでも謝ったのはこちらだ。

 今日は肩が何にも当たっていない。


 見ているあいだにその二つへ雪が積もりはじめた。


 鉄剣の刃に毛と脂が付いている。拭こうとして、手がうまく開かなかった。柄を握っていた指が握った形のまま止まっている。一本ずつ外した。

 外套(がいとう)の裾で刃を拭いた。拭いても脂は残る。残ったまま鞘へ戻した。



――――――――――――――――――――



 音が戻ってきた。


 屋根の雪が滑る音がする。井戸の方は静かなままだ。北はまだ止んでいない。

 三つとも、戦っているあいだは一つも聞こえていなかった。


「レイン」


 ガイの声がかすれている。声だけでなく、落ちた場所から動いていない。木剣の短い方をまだ持っている。


「息、してるか」


「してる」


「俺、してなかった」


 ガイは短い方の木剣を持ち上げて、割れたところを見た。木は繊維に沿って裂けていて、裂け目の奥に白いところが出ている。

 手のひらを開くと、親指の付け根に細いのが刺さっていた。ガイはそれを歯で引き抜いて、雪の上へ吐いた。


 先に出たのはこの子だ。

 半歩ぶん遅れたのはこちらで、その半歩をこの子の手が埋めている。


「使えねえや」


「もう使うな」


「使わねえよ。これじゃ持てねえもん」


 ガイはそれきり何も言わずに獣の口の方へ回った。牙の内側に長い方が残っている。両手をかけて、二度引いて抜いた。

 二つに割れた物を両方持って帰る形になる。


 路地の奥を見た。

 店の戸は閉まっている。灯りは一つも漏れていない。中に何人いるのかも、誰が起きているのかも、外からは分からない。

 分からないままでいい。分かる形になるのは、開いた時だけだ。


 レインは獣の脇を通って、路地の奥まで十歩ほど行って戻った。

 ほかに蹄の跡はない。雪の上に残っているのは、来た一匹分の跡と、自分たちが踏んだ分だけだ。



――――――――――――――――――――



 詰所の前でニコと会った。

 広場の方から来て、板戸に手をかけたところだ。手が止まって、それからこちらを見た。


「なんで外にいる」


「路地に一匹入ってた」


「……一匹」


「片づけた」


 ニコが二人の後ろへ目をやった。路地の入口から先は暗くて、そこからは何も見えない。


「脚をやられた」


 ニコが脚へ目を落としたのはその後だ。見つけられてから言ったのではない。

 怪我を隠したらその日で終いだ、とフェイさんに言われたのは夏の終わりだった。隠さなかった場合のことは何も言われていない。


「座れ」


 ニコは自分の上着の裾を裂いた。膝の下を二重に巻いて、巻いた上から結び目を横へずらす。歩いた時に結び目が当たらない位置だ。


「骨は」


「当たってない」


「立ってみろ」


 立った。立てた。


「団長に言う」


「言ってくれ」


 ニコは頷いて、それから詰所の中を覗いた。中の若い衆が壁の側で何か言っている。ニコの返事は短い。返事をしながら、もう次の足が広場の方を向いている。


「南へ回せる者がいねえ。路地のことは団長に俺から言う。お前らは中にいろ」


 言い終わると走っていった。走る先は北だ。



――――――――――――――――――――



 二人は詰所の前に立っていた。中へ入るつもりで出た足が、途中で止まっている。

 止まったのはガイの方が先だ。


 ガイが顔を向けているのは南西だった。

 住宅の路地を抜けて、突き当たりを西へ折れると坂がある。坂を上りきったところが塔だ。


「爺さんとこだろ、あっち」


「……ああ」


 弟が毎日そこへ通っている。通っていることは知っていて、中で何をしているのかは聞いたことがない。今もそれを聞くつもりはない。

 塔には夜も灯りが入っている、と弟が言っていたことがある。窓の高いところに一つだけだ。


 その高さではないところで光った。


 光はすぐに消えた。

 音は来ない。雪の降っている粒が、その一瞬だけ全部見える。降っている量がそれで分かる。

 二度目は前より低いところだ。低いというのは、坂の下の方ということだ。


 レインは走った。ガイが横に並ぶ。

 膝の下が布の中で熱い。膝は曲がる。曲げても足は崩れない。

 三度目は二度目よりさらに低かった。

 三つを順に結ぶと、光は坂を下りてきている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。