第十八話
ひびが、柄から手のひら二つぶん先まで伸びている。
ガイの木剣だ。街道口で大牙に噛ませた日に入って、あの時は手のひら一つぶんだった。振るたびに少しずつ先へ行っている。
レインは詰所の土間で、その隣に座っている。街道口で最初の音がしてから、ここを出ていない。
詰所の板戸は内から閂を落としてある。灯りは一つだけで、竈の脇の低いところに置いてある。高いところへ置けば戸の隙間から外へ出る、と言ったのは土間の隅にいる若い衆だ。街道口で腕をやられて、まだ肩より上へ上がらない。バルトが治して、上がるまでひと月だと言われている。そのひと月のうち、まだ十日あまりしか過ぎていない。
カスパルさんは奥の壁の側にいる。いつもの場所に、いつもの向きだ。膝が悪くて歩けないので、この人は最初から数に入っていない。
だから詰所の中で動ける大人は土間の隅の若い衆だけだ。ニコは伝令で二度戻ってきて、二度目は何も言わずにまた出ていった。
バルトは戸の外だ。街道口から運ばれてきた男が筵の上にいる。脚の傷は骨まで来ているらしい。
あの人の治癒は長い。手を当てているあいだだけ進んで、離せばそこで止まる。どれだけで終わるかは傷による。
終われば戸を開けて入ってくる。まだ入ってこない。
低い声が時々、板戸の向こうから聞こえる。運ばれてきた男に言っているので、こちらへの用ではない。
「なあ」
ガイが木剣を膝の上へ横に置いて、指でひびをなぞっている。
「これ、まだ持つと思うか」
「持たねえよ」
「だよな」
ガイは指を止めた。止めてから、もう一度同じところをなぞる。
音は北から来ていた。
最初のは日が落ちてしばらくしてからで、街道口の方だ。土を叩く音と、金物が革に当たる音。悲鳴はない。
そのうちに音が西へ寄った。市場通りの方だ。そこからは戸を叩く音が混ざるようになる。人を家の中へ入れるための音だ。
この半刻ほどは井戸の方から来ている。宿の裏から井戸へ落ちる細い道に副長が立っている、と日の落ちる前に聞いた。
膝を立てて座り直した。鉄剣は横に置いてある。鞘に入れたままだ。
家へは日の落ちる前に一度戻った。母は土間にいて、どこへ行くのかは聞かない。掛け棒から自分の鉄剣を下ろすのを見ていて、見ていて袖の縫い目を指で押さえただけだ。
弟と妹と母は店にいる。ニコが家を一軒ずつ回って、子どもと年寄りをランドの店へ入れた。
入ってしまえば出てこない。母がいる。
「レイン」
「なんだ」
「井戸の方、静かになってねえか」
言われて耳を戻した。金物の音が間を空けている。空いたところへ次が来ない。
「井戸までは行かせてねえよ」と若い衆が言った。「あっちは副長だ」
その声には力がない。腕を吊った側の肩が下がっている。座ったまま動かない。
――――――――――――――――――――
次の音は北でも西でもなかった。
板戸の向こう、南だ。
土を掘る音がしている。走っていない。歩いている。
ガイが立って、戸の隙間へ顔を寄せた。
「入ってる」
「どっちだ」
「路地の方。うちの並びだ」
レインも戸へ寄った。隙間から見えるのは雪の降っている分だけで、降っているせいで遠くの黒いところが余計に黒い。
その黒いところが動いた。動いて、また止まる。
止まっているあいだも音は続いている。鼻を前へ出しては、雪の下の土を確かめている音だ。
「一匹か」
「一匹だ。ほかは音がしねえ」
若い衆が壁から背を離した。離してから膝で床を押して、途中で息を止める。吊った腕がついてこない。
二度目で背が壁から離れた。床から体を起こすのに両手が要ることを、レインは今日まで知らなかった。
「座れ」
奥から声が来た。カスパルさんだ。壁から背を離していない。
「団長は入れておけと言った。お前もだ」
「聞いた」
「聞いたなら座ってろ」
「あんたが行くのか」
レインが言った。若い衆の右手が腰のあたりで止まった。そこには何も掛かっていない。剣は壁の側に置いたままだ。
握るだけなら右でできる。振れば体が回る。回れば吊った側が先に行く。
「広場へ走れ。団長を呼んでこい」
若い衆が言った。
「呼んで戻るより、あれが店へ着く方が先だ」
レインは戸の外へ目を向けた。
「バルトさんもまだ手を離せないんだろ」
若い衆は返事をしなかった。
運ばれてきた男を今夜のうちは動かすな、と言ったのはバルト本人だ。
呼ぶなら板戸一枚の向こうへ声を張ればいい。この人はそれをしない。しないまま黙っている。
「ニコは」
「さっき出ていった」
言ってから若い衆は先を続けなかった。
「団長がそう言った。俺が言えるのはそれだけだ」
カスパルさんが言った。歩けない人が言えるのはそれだけだ、という言い方だった。
それからガイの方を見た。
「坊主は残れ」
「やだ」
ガイが木剣を握り直した。握り直してもひびは同じところにある。
「カスパルさんが叱られるのか」
「お前が戻らん方が困る」
「戻るよ」
カスパルさんはガイの木剣を見た。
レインは鉄剣を取った。取ってから、取ったことを自分で見た。
「あれの行く先に店がある」
若い衆はまだ壁の側に立っている。言い返すつもりはあったはずだ。その口が動く前に、路地の蹄の音が二つぶん先へ進んだ。
去年の冬、ガルドたちが賊で峠の下まで出ていたあいだ、レインは家の裏で薪を割っていた。何があったのかを知ったのは、みんなが町へ戻ってからだ。
次に何かあった時に薪を割っていたくない、とガルドに言ったのは夏の終わりだ。
今夜は薪の前にいない。板戸の内側に座っている。座っているのと割っているのとで、あの冬から何が変わったのかが分からない。
「行くのか」とガイが言った。
「行く」
「じゃあ俺も」
「来るな」
言ってから、それがさっきカスパルさんの言ったことと同じだと分かった。
「なんでだよ」
「その木剣で何ができる」
「噛ませられる」
ガイはひびの上を指で押さえている。押さえたまま離さない。
「受けたら折れる。噛ませて放せば、俺は正面に残らねえ」
「街道口のか」
「一回やった。もう一回できる」
街道口ではそれで一度、獣の足を狂わせた。
レインは木剣のひびを見た。
「一回だけだ」
「一回だけだ」
閂を上げた。上げてから奥の壁の方を見ないで出た。見れば止められる。止められれば、こちらは止まらない理由をもう一つ探すことになる。
筵はすぐ脇にあった。バルトの両手は男の脚の上だ。
「レイン」
バルトの顔だけが上がった。手は上がらない。離せば治癒はそこで止まる。
レインは足を止めなかった。
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外は思っていたより明るい。
雪が下から返してくる。灯りは町のどこにもないのに、屋根の切れているところだけが白く浮かんでいる。
風は町の方へ向いている。
詰所を出て南へ折れると、すぐ住宅の路地に入る。
折れたところで匂いが濃くなった。獣の匂いだ。風で来た匂いではない。ここを通った分が残っている。
大牙はその路地の真ん中を歩いていた。
背中の毛は一本だけ色が濃い。肩の高さは大人の腰のあたりで、路地の幅の半分をそれだけで使っている。
こちらを見ていない。
行く先は路地の奥だ。その先に母の父の店がある。二階に灯りは見えない。いつもなら漏れる灯りが、今夜は伏せてある。
呼ばないと来ない、と副長に言われたのは夏の終わりだ。出したくない物を先に出せ、と。
言われた形は覚えている。出す物を探した。探しているあいだに、隣で声が出た。
「おい」
ガイだ。
考えて出した声ではない。出てから本人が自分の口を押さえている。
大牙が向きを変えた。
変えるのに一度、前足を踏み替える。胸と首が先に回って、腰から後ろの細い体はそこで一拍遅れる。
遅れた分が終わると、あとは真っ直ぐだった。
ガイが前へ出た。
出た先は正面ではない。路地の左だ。レインはその後ろ、同じ左の側にいる。
大牙の頭がガイを追って左へ向いた。頭が向けば体もそちらへ来る。向いた先へしか行けない体だ。
跳んできた頭へ、ガイは木剣を突き出した。街道口と同じ手だ。受けない。下の牙の内側へ木の腹を押し込む。
噛んだ。木は口の中で横になった。
違うのは壁が近いことだ。柄はガイの左手にあって、木の先は頭を挟んだ向こうの、右の壁を向いている。
大牙が前へ出る。木の先が右の壁に当たって、頭だけが押し戻される。前脚は雪を掻くのに頭が壁から離れない。踏む所が一足ぶん狂った。
首を振っても木は牙のあいだにある。
レインは前へ出なかった。
前には振る幅がない。斬れる物はこちら側に一本しかないのに、その一本を振れない場所へ持っていくことになる。
前にはガイと、牙に噛ませた木がある。こちら側にはまだ獣の太い胸がある。
待つのは後ろだ。頭が右へ流れた分、細い腰から後ろが左へ振れてくる。その付け根が出た時にだけ剣が入る。
壁と牙のあいだで木がしなった。しなう先はガイの手の側だ。ひびの入っているところだ。
割れる音がした。低いのでも高いのでもなく、繊維の裂ける音だ。柄から手のひら二つぶんのところで木が分かれて、長い方は牙の内側に残る。
短い方がガイの手に残った。裂けたところが手のひらへ入っている。
ガイは短い方を握ったまま、左の壁際へ身を投げた。正面には残っていない。
後ろ足の付け根が左へ来た。
レインは入った。
獣が首を振っている最中に、振っている向きの外へ出る。
街道口の日は来た線から半分だけ体をずらした。ずらすには先に体を引く。引いた分だけ次が遅れる。
今日は引かなかった。足の幅も変えていない。
肩から先だけが線の外にある。牙は外套に触らない。
よけたつもりがない。よけていないのに、そこに自分がいなかった。
入ったところに後ろ足の付け根があった。
鉄剣を横から振る。
当たり方は覚えている。肉より先に骨が来て、手首から肘まで一度に上がってくる。
柄は回らなかった。
獣が横へ転がった。起きられないのに頭だけが来る。
下がらない相手だ。街道口で見ている。
見ているだけだ。あの時こちらは離れて、離れた先へ副長が来た。
今日は誰も来ない。
首の下へ入れた。ニコが街道口でやったのと同じところだ。
毛と皮が横に割れて、血が遠くまで飛ぶ。雪の上に落ちた分だけが赤い。
それでも頭は止まらない。振った先の下の牙が左の膝の下を裂いた。
脚衣が裂けて、その下も裂けている。痛みは来ない。来ないまま、靴の中が温かくなっていく。
三度目を入れた。
鉄剣を押さえたまま待つ。動かなくなったのが本当かどうかが、こちらには分からない。
頭はもう上がらない。鼻の音もしなくなった。
それでも足を引くまでに間があった。
引いた先に、自分の踏んだ跡が二つ残っている。一つは入った時の跡だ。もう一つは今のだ。二つは並んでいる。
横へ動いた跡がない。
街道口の日は来た線から半分だけ体をずらして、ずらすために先に体を引いた。引いた分の跡が、今日は雪のどこにもない。
去年の秋、広場で同じ道を二度歩いた。一度目は三歩で肩がぶつかる。二度目は先に見て肩を引いた。それでも謝ったのはこちらだ。
今日は肩が何にも当たっていない。
見ているあいだにその二つへ雪が積もりはじめた。
鉄剣の刃に毛と脂が付いている。拭こうとして、手がうまく開かなかった。柄を握っていた指が握った形のまま止まっている。一本ずつ外した。
外套の裾で刃を拭いた。拭いても脂は残る。残ったまま鞘へ戻した。
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音が戻ってきた。
屋根の雪が滑る音がする。井戸の方は静かなままだ。北はまだ止んでいない。
三つとも、戦っているあいだは一つも聞こえていなかった。
「レイン」
ガイの声がかすれている。声だけでなく、落ちた場所から動いていない。木剣の短い方をまだ持っている。
「息、してるか」
「してる」
「俺、してなかった」
ガイは短い方の木剣を持ち上げて、割れたところを見た。木は繊維に沿って裂けていて、裂け目の奥に白いところが出ている。
手のひらを開くと、親指の付け根に細いのが刺さっていた。ガイはそれを歯で引き抜いて、雪の上へ吐いた。
先に出たのはこの子だ。
半歩ぶん遅れたのはこちらで、その半歩をこの子の手が埋めている。
「使えねえや」
「もう使うな」
「使わねえよ。これじゃ持てねえもん」
ガイはそれきり何も言わずに獣の口の方へ回った。牙の内側に長い方が残っている。両手をかけて、二度引いて抜いた。
二つに割れた物を両方持って帰る形になる。
路地の奥を見た。
店の戸は閉まっている。灯りは一つも漏れていない。中に何人いるのかも、誰が起きているのかも、外からは分からない。
分からないままでいい。分かる形になるのは、開いた時だけだ。
レインは獣の脇を通って、路地の奥まで十歩ほど行って戻った。
ほかに蹄の跡はない。雪の上に残っているのは、来た一匹分の跡と、自分たちが踏んだ分だけだ。
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詰所の前でニコと会った。
広場の方から来て、板戸に手をかけたところだ。手が止まって、それからこちらを見た。
「なんで外にいる」
「路地に一匹入ってた」
「……一匹」
「片づけた」
ニコが二人の後ろへ目をやった。路地の入口から先は暗くて、そこからは何も見えない。
「脚をやられた」
ニコが脚へ目を落としたのはその後だ。見つけられてから言ったのではない。
怪我を隠したらその日で終いだ、とフェイさんに言われたのは夏の終わりだった。隠さなかった場合のことは何も言われていない。
「座れ」
ニコは自分の上着の裾を裂いた。膝の下を二重に巻いて、巻いた上から結び目を横へずらす。歩いた時に結び目が当たらない位置だ。
「骨は」
「当たってない」
「立ってみろ」
立った。立てた。
「団長に言う」
「言ってくれ」
ニコは頷いて、それから詰所の中を覗いた。中の若い衆が壁の側で何か言っている。ニコの返事は短い。返事をしながら、もう次の足が広場の方を向いている。
「南へ回せる者がいねえ。路地のことは団長に俺から言う。お前らは中にいろ」
言い終わると走っていった。走る先は北だ。
――――――――――――――――――――
二人は詰所の前に立っていた。中へ入るつもりで出た足が、途中で止まっている。
止まったのはガイの方が先だ。
ガイが顔を向けているのは南西だった。
住宅の路地を抜けて、突き当たりを西へ折れると坂がある。坂を上りきったところが塔だ。
「爺さんとこだろ、あっち」
「……ああ」
弟が毎日そこへ通っている。通っていることは知っていて、中で何をしているのかは聞いたことがない。今もそれを聞くつもりはない。
塔には夜も灯りが入っている、と弟が言っていたことがある。窓の高いところに一つだけだ。
その高さではないところで光った。
光はすぐに消えた。
音は来ない。雪の降っている粒が、その一瞬だけ全部見える。降っている量がそれで分かる。
二度目は前より低いところだ。低いというのは、坂の下の方ということだ。
レインは走った。ガイが横に並ぶ。
膝の下が布の中で熱い。膝は曲がる。曲げても足は崩れない。
三度目は二度目よりさらに低かった。
三つを順に結ぶと、光は坂を下りてきている。




