第十三話
畑の切れるところで足を止めた。
夜明け前だ。雪の上の物はまだ色を持たない。縁の線だけが先に見える。
初雪から三日になる。先に降った分は締まって、その上に夜の分が薄く乗っている。
シアは膝をついて手袋を外した。指の背を雪へ当てる。
凍っていない。夜のうちに降った分だ。この上を通った物があれば通った刻限まで残っている。
畑の縁には浅い窪みが一本ある。夏は水が流れる。今は空のまま雪をかぶっている。
町と丘陵のあいだを東西に通っているのはこれだけだ。北から下りてくる物は必ずここを横切る。
立つ場所は後で決める。先に決めるのは来る物が通るしかない場所だ。癖だ。もう直らない。
跡があった。
二つ割れの蹄が雪を割っている。爪先の側が深い。深い方が進んだ向きだ。
向きは南。町の方。
「いるじゃない」
後ろでライナが言った。息が白い。前は歩かない。離れもしない。この女はいつも半歩後ろにいる。
「鹿だ」
「鹿がいるってことは丘に食う物があるってことでしょ」
「下りてきてる」
シアは窪みに沿って東へ歩いた。
三歩で跡。五歩でまた跡。二十歩のあいだに七つ。どれも南を向いている。北を向いた蹄は一つもない。
丘に食う物があるなら鹿は丘にいる。
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三十歩ほど東で、蹄の跡の上に別の跡が乗った。
鹿ではない。手のひらを開いて重ねると指の外まで出る。
同じ二つ割れの蹄だ。違うのはその後ろに小さいのが二つ付いていることで、雪の上には四つ残る。鹿の跡は二つで終わる。
届く深さも前と後ろで違う。前の足の跡は縁が崩れるほど沈んで、後ろの足は表を撫でただけだ。
前に重さのある体だ。走る時にその重さごと運ぶので前だけが沈む。
大牙だ。町で狼だと言っている者は、跡を見ていない。
蹄の上に乗っているのなら鹿より後だ。
鹿が下りて、そのあとを下りてきた。
「ライナ」
「うん」
「動くな」
ライナは動かなかった。腰の斧の柄に手だけ乗せて、それきり止まっている。この女は喋るが、止まれと言われた時には止まる。
シアは窪みの底へ下りて東へ歩き出した。
窪みを横切った跡だけを数える。
同じ一匹が行って戻ればここを二度通る。戻る分は北を向く。
向きは全部南だ。二度通った分はない。
十を過ぎたところで足の運びを変えた。歩幅を一定にして、数と歩幅を一緒に頭へ入れる。
二十で窪みが浅くなる。
三十で雑木の影が近くなる。
三十二で窪みが切れた。
そこでやめた。
切れた先は数えていない。
北を向いた跡は一つもなかった。
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雑木の手前まで進んだ。
梢の下は雪が薄い。薄いところは跡が読みにくくなる。読みにくくなる代わりに別の物が見える。
鹿の食い残しが二つあった。腹の側だけがない。あとは手をつけていない。
雪が体の下で押されて、まわりより低くなっている場所が三つ。押された縁がまだ角を残している。溶けて崩れてはいない。
三つのうちの一つは底から土が出ていた。長くそこにいた分だけ雪がなくなっている。
三つとも向きが同じだった。頭のあった側が三つとも南だ。寝ている時に体の向く先は、次に行く先とは限らない。限らないが、揃っている物は数えて帰る。
朝までここにいた。
今もいるかどうかはここからは見えない。
風が向きを変えた。
北へ抜けていた風が、頬の右から左へ回る。回った先は雑木の中だ。
シアは下がった。
雑木へは入らない。先に着くのはこちらの匂いだ。
あと一つ足りないのは今そこにいるかどうかだけだ。確かめた者は戻らない。
窪みの縁で枝を一本折った。折れ口を町の方へ向けて雪に立てる。目印だ。
帰りは来た筋を踏み直して戻った。二人ぶんの足跡が一人ぶんに見える。
「三十二って言った?」
畑を抜けてからライナが言った。
「聞こえてたのか」
「あんた、数える時だけ口が動くんだよ」
ライナは町の方を見た。屋根から煙が上がり始めている。
「四匹だったんだよね。この前」
「四匹だった」
「秋にオルトが言ってたじゃない。あれは群れの端だって」
言った。端が来ているうちは、まだ真ん中が来ていない、とも言った。あの時は卓の上に轍のような線を二本なぞって、なぞったところを手のひらで払った。
今日のは端ではない。
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街道口には荷車が二台、脇へ寄せたままになっている。荷は先に町へ下ろされて、車だけが残った。
輪の下に噛ませた石は雪に埋まって、輪との境が分からない。
男が三人立っていた。二人は荷方で、一人は見ない顔だ。外套の裾が膝から下だけ濡れて、そこが凍りかけている。歩いてきた者の濡れ方だ。
「昨日の日暮れに下りてきた」
男は荷方に言っていた。今朝が二度目か三度目の話しぶりだった。
「今年はもう上がらん。膝から上まである。馬は無理だ。上の宿から先は誰も出さんよ」
「じゃあ峠は終いか」
「終いだ」
荷方は肩を落として、それから自分の荷車の方へ行った。縄はもう掛かっていない。確かめる用はない。手を動かす用があっただけだ。
「四日歩いた」
男は続けた。
「四日、道で獣を一匹も見なかった。鹿も兎もだ。糞ひとつ落ちてない。あんな道は初めてだよ」
上に何もいないのなら下へ来ている。
シアは男の顔を覚えて、詰所の方へ折れた。
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詰所の庭は雪が掻いてある。掻いた分だけが四角く土を見せていて、その外は雪のままだ。
四角の中に子どもが二人立っていた。片方は柄の先にひびの入った木剣を持っている。もう片方はヴァルドの上の子で、手ぶらで家の方へ帰されているところだった。
帰る足ではなかった。帰るのなら向きは一度で変わる。あの子は二度向きを変えて、二度とも庭の方へ戻りかけている。
シアは表の間へ入った。ライナが後ろから入って、戸を閉めた。
中には団長のフェイと、副長のディルクと、団でいちばん若いニコと、ガルドの四人がいた。副長は中背でがっしりして、鼻筋が一度折れて曲がっている。帳面を膝に開いていた。カスパルはいつもの場所に座っている。膝が悪くて歩けないので、この人は数に入らない。
ガルドは壁際に立っている。座らない男だ。頼む側でも受ける側でも座らない。
「三十二」
シアが言うと卓のところでフェイの指が止まった。
「三十二」
「畑の縁の窪みを東へ歩いた。大牙の横切った跡を数えた。三十二だ。窪みが切れるところまでしか数えていない」
「向きは」
「全部南。北を向いた跡は一つもない」
フェイは指を卓につけたまま動かさない。ガルドが壁から離れた。
「どこにいる」
「畑の東の雑木の中。街道口から一刻かからない」
「見たのか」
「見ていない。伏せた跡が三つ。鹿の食い残しが二つ。跡の縁が崩れていない」
「入らんかったのか」
「風が変わった」
「それでいい」
ガルドはそれだけ言って卓の方へ来た。
この男は入らなかったことを一度も咎めない。去年もそうだった。持ち帰った物だけを聞いて、取りに行かなかった物は聞かない。
「峠から下りてきた男がいる。街道口だ」
シアは聞いた分をそのまま言った。四日、道に獣が一匹もいない。膝から上まで雪がある。上の宿から先は誰も出ない。
「上が埋まったのなら残りは下りるしかない」
ガルドが言った。
フェイは何も言わずに窓の方を見た。表の窓からは市場通りの端が見える。この時刻はまだ人が出ている。
「団長」
副長が言った。
「三十二匹に、うちは十四人です」
十五人の団だ。一人減っている。
この前の街道口で腕をやられた男の腕が、まだ上がらない。ひと月とバルトが言った。
「ガルドのところの五人を足して十九人だ」
「館は」
「正門と館の中を持つ。去年もそうだった」
「言わないんですか」
「言った。返事は日が暮れてからだそうだ」
副長は黙った。黙ってから帳面を開いて、今日の日付のところに何か書き足した。この男は数を聞くと必ず書く。書かない数は言わない。
「支部が上へ回した紙は」
副長が帳面から顔を上げずに聞いた。
「人はまだ来ん」
ガルドが答えた。
「半月と言われた。写しを回してから九日だ。早くてあと六日かかる」
「六日」
「六日だ」
副長は書き足した数の横に、もう一つ何か書いた。
紙の話はそこで終わった。間に合わない物を数えても人手は増えない。
「あたし、その六日のあいだにあいつらが行儀よく待っててくれるとは思わないんだけど」
ライナが言った。誰も答えない。答えないのが答えだ。
フェイが指を三つ立てた。
「北から地区へ入れる道は三つある。街道口。市場通りの西の端。宿の裏から井戸の方へ落ちる細い道だ」
「三つとも塞ぐんですか」
「十九だ」
副長は「はい」と言った。言うまでに一拍あった。
フェイは三つのうちのどれを塞ぐとは言わない。言わないまま指を下ろす。
「ガルド」
「なんだ」
「お前はどこに立つ」
「街道口だ」
フェイは頷いた。頷いただけでなぜかは聞かない。
シアも聞かない。ガルドが立つ場所を決める時は、いちばん先に来る物の通り道を選ぶ。
去年の冬、峠の下の宿でもそうだった。賊が出入りできる戸口に、この男は立って動かなかった。
選んだ場所より後ろの通りは選ばなかった方に入る。それを口に出す者はここに一人もいない。
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「日の落ちる前に、子どもと年寄りをランドの店へ入れろ」
フェイが言った。副長が顔を上げる。
「酒場ですか」
「広場より南だ。二階がある。夜に人が集まっても誰も不思議に思わん」
フェイはそこでシアの方を見た。
「あの店の裏はどこへ抜ける」
「抜けない」
シアは答えた。
「袋の路地だ。井戸に突き当たって終わる」
去年の秋に見てある。あの時は商人の逃げ道を調べていた。
裏口は一つで、抜けた先は井戸に突き当たって終わる。逃げるために選んだ宿ではない、とあの時は思った。
同じ行き止まりを、今日は塞ぐ側から見ている。
「なら塞げる」
フェイは立った。
「ニコ。うちの者に一人ずつ触れて回れ。今日は当番は関係ない。全部だ」
「日が落ちてからも歩かせるんですか」
「歩かせん。日が落ちる前に全部立たせる」
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町は昼のあいだに閉じていった。
市場通りの台は日の高いうちに畳まれた。畳んだ者は理由を聞かない。聞いたのは買いに来た側だ。
宿の壁のところで女が一人、荷方に食い下がっていた。
「四匹だったんでしょう」
「四匹だったよ」
「片づいたって言ってたじゃないの」
「俺が言ったんじゃねえ」
荷方は馬繋ぎの方へ行った。空いていた馬繋ぎに今日は馬が三頭入っている。荷方の二頭は宿の内のままだ。三頭とも町の者の馬で、町の外へ出す馬ではない。出さないために入れた馬だ。
女は言い返す相手がいなくなって、それでも二度、荷方の背中の方へ何か言った。二度とも返事はなかった。
戸の閂を確かめる音が路地の奥から順に来る。閉める音ではない。掛けてみて、掛かるのを確かめて、また外す音だ。
夜に一度で掛かるかどうかを昼のうちに試している。
試して掛からなかった家が二軒あった。二軒とも日の落ちる前に大工が来て枠の方を削っていった。
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坂の下の十字路に立った。
塔から下りてくる道はここで町の路地に合わさる。去年の秋、この十字路には毎日立っていた。あの時は商人の道筋と子どもの道が交わらないように立った。今日は用が違う。
ヴァルドの下の子は、目の色が見えるより遠くからでも分かる。今日も分かった。
袖の肘のところが濡れている。薪を抱えた腕の濡れ方だ。
シアは道の内側へ寄って、子どもが端を通れるようにした。
通り過ぎる前に子どもが顔を上げる。知っている顔だと分かる目の動きをした。去年と同じだ。
「今日は早く帰れ」
子どもは足を止めた。
「何かありますか」
「ある」
シアは続けなかった。
シアが知っているのは数と場所だ。言ってもこの子に今日できることは一つもない。
子どもは一度だけ坂の上を見た。それから路地へ入っていく。
走らない。走らないが歩幅が広くなっている。
姿が路地の角で切れるまで見て、シアは十字路を離れた。
去年はここで日が落ちるまで立っていた。今日は立っていられない。立つ場所が北へ移った。
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日が落ちてから街道口へ出た。
荷車の輪の陰に筵を敷いて、そこへ入った。上から見ればただの荷車だ。
風は北から来ている。顔に当たる。当たっているうちはこちらの匂いが向こうへ流れない。この位置でいい。
半刻ごとに町の灯りが減った。
市場通りの端の一つが消える。次に宿の一階が落ちる。
広場より南はここからは見えない。見えないところに子どもが集められている。あちらの灯りが落ちたかどうかはこの位置からは分からない。
街道口には人が立っている。立ってからは誰も動かない。物音は鉄が革に当たる音が一度きりだ。
待つのは慣れている。去年、あの商人の後ろに十一日立っていた。あれは動く相手を待つ待ち方で、今日のは動かないうちに来る物を待つ待ち方だ。同じに見えて体の冷え方が違う。
膝の下から先が痺れてくる。半刻に一度、足の指だけを筵の中で動かす。動かす音は出さない。動かすのをやめれば来た時に立てない。
雪がまた降り始めた。
降り始めると音が減る。減った分だけ遠くの音が拾いにくくなる。
拾いにくくなるのは向こうも同じだ。同じだが向こうは鼻を持っている。
風は今こちらから向こうへは行っていない。行かないあいだだけがこちらの分だ。
風が強くなった。
顔に当たっていた分が、後ろの町まで一息で抜ける。北から町へ、真っ直ぐに通る風だ。向こうの匂いもこちらの匂いも、町の方へ運ばれる。
シアは筵の上で体を低くした。低くしてから息を止める。
音が来た。
息の音だ。
一つではない。数えようとして、一つずつに切れないと分かった。重なっているのではなく、途切れずに続いている。
その下に雪を踏む音がある。揃っていない。揃わないまま同じ方へ寄ってくる。
シアは指を口へ当てて短く二度鳴らした。
同じ音が、通りの奥から一度返ってきた。




