第十二話
釣瓶の音が、いつもより近くで鳴った。
いつもはこの音が坂の上の方まで抜けていく。今朝は抜けずに手元で終わる。抜けた先から戻ってくる分もない。
夜のうちに雪が来ていた。
厚くはない。土の色が透けて見えるくらいだ。庭の隅の薪の台の上だけが端まで平らに積もっていて、足を置いても下の土までは沈まない。
アシュは釣瓶の縄を引いた。縄が冷たいのではなく、握った手の方が先に冷える。水桶へ移すと縁で跳ねた分が手の甲にかかった。かかった場所だけ遅れて痛くなる。
二杯目を汲む。冷たさの来かたが昨日と違う。指の先ではなく手のひらの外側から来る。汲む手を止めると来るのが早いので止めない。
戸口の内側からリアが顔だけ出していた。
「あしゅ」
「入っていて。寒いから」
「ゆき」
言ってから覚えたばかりの音を確かめるようにもう一度言った。
「ゆき」
「そう」
「ゆき、ふった」
「降ったね」
リアは手を庭の方へ向けた。取ろうとした手ではなく、置いてある物を指す時の手だ。指した先には何もない。今は降っていない。指の先にあるのは昨日と同じ庭だ。
みらとあしゅとれいん、まき。今朝からゆきが増えた。
父の分はまだ来ない。
水を運び入れると竈の前に母がいた。火は起きている。夏に種火を落とした日から一度も落としていない。
「今年は早いのよ」
母は鍋を竈の端へ寄せながら言った。
「去年は今日から市の日を二つ過ぎてからだったの」
「覚えているんですか」
「覚えてるのは買う日の方よ。雪の前に買う物と後に買う物が違うから」
母の冬は市の日で区切られている。値の変わる日を先に置いて、そこから前と後ろに物を並べていく。
棚には塩の袋が二つと豆の袋が並んでいた。昨日はなかった袋が一つ増えている。慌てないと言った人の棚は、慌てる前に埋まっていく。
「兄さんは」
「もう行ったわよ。うちの庭は使えないからって」
掛け棒を見た。いちばん上に木剣。その下の受けに鉄剣。
朝は掛かったままの物だ。見上げるだけで、今日も手は出さない。
――――――――――――――――――――
市場通りは音が減っていた。
雪の日は音が遠くまで行かない。研ぎ石の音も杭を打つ音も、昨日は宿の裏から届いていたのに今日は近くまで来ないと聞こえない。町が狭くなったように聞こえる。
道の雪は人の通った筋だけ先に溶けて、その両側が残っている。残った方を踏むと足が滑るのでみんな同じ筋を歩く。歩く筋が細くなって、すれ違う時に片方が端へ寄る。
宿の前を通ると馬繋ぎが空いていた。
昨日まで二頭いた場所に雪が薄く積もっている。積もっているのなら入れたのは朝ではない。夜のうちに宿の内へ入れたことになる。
宿の壁際に、荷車から下ろした荷が積んであった。男が二人、その縄を確かめている。
「戻すのか」
「戻すよ。峠はもう駄目だ」
「春まで置くのか」
「置くしかねえだろ。傷む物は先に売る」
峠へ上るはずだった荷が町の中へ戻る。町の中で売られる物が増えれば冬の値は下がる方に動く。母の話の中で聞いた値の話が、壁際に積まれた荷になって目の前にある。
ヨナスの台の前を通ると声が来た。
「積もったな」
「積もりました」
「今日は塔か」
「はい」
「坂は端を歩け。真ん中は先に踏まれて固くなる」
「はい」
ヨナスは青菜の束を台の奥へ寄せた。冬の葉は日に当たると先が縮む。雪の日でも寄せる手は同じらしい。
今日もアシュの名前を言う人はいなかった。獣の話も聞こえない。荷を戻す話の方が今日は多い。
――――――――――――――――――――
坂は言われたとおり端を歩いた。
真ん中は朝のうちに何人か通ったらしく、踏まれた雪が固まって光っている。端はまだ足が沈む分だけ滑らない。沈む音は一歩ごとに違う。下が固い場所ほど短く鳴る。
坂を上りきると塔の前だけ雪が薄かった。戸口が吹き溜まらない向きに立っている。そういう建物だと雪の日に初めて分かった。
中は外より暗い。
戸口には筵が一枚吊してあった。秋の終わりに丸めて立ててあった二枚のうちの一枚だ。もう一枚は高窓の下に立てかけたままになっている。
「上がってこられたか」
「端を歩きました」
「誰に言われた」
「八百屋のヨナスさんです」
「知らん名だ」
ゼドルは椅子から動かない。膝の上に外套が掛けてある。着ないで掛けている。
この人は町の人の名前を持っていない。去年、ヤンの名前を二度言わせて覚えたのを見た。名前は向こうから入ってこない。入れるなら誰かが運ぶしかない。
「雪の深い日は来んでいい、と秋に言われました」
「言った。今日は深くない」
「どのくらいからが深いですか」
「坂で転ぶ日だ」
数では言わない。転んだ日に分かるだけだ。雪が来てから数で決まらない物が一つずつ増えている。
桶を見た。
氷が張っていた。この四日は端までだった。今朝は真ん中まで一枚で来ている。
指で押しても割れない。縁のところを爪で起こすと桶の胴に沿ってぐるりと離れて、丸ごと持ち上がった。
「夜が張った」
「はい」
「厚いか」
「端が厚くて、真ん中も薄くありません」
手のひらに載せてみる。前の朝より重い。持ち替えると腕の方で重さが分かる。真ん中を透かすと向こうの明かりが歪む。
寒さは急がない。一晩かけて端から来て、今朝はその端から真ん中まで届いていた。
毎日少しずつ回して置いていた桶を元の向きへ戻して十五日、アシュがそれだけかけて届かない場所へ、夜の方が先に着いている。
「剥がしました」
「外へ置いてこい」
戸を開けて、雪の上に置いた。それから水を張り直した。
水は昨日より冷たい。手を入れた時に痛みに近いものが来て、それから遅れて冷たさになる。順番が秋と入れ替わっている。
アニマを送った。
端から白が来る。縁は同じ速さで閉じて、真ん中は指の幅一つの内側で止まる。
急ぎは置いてから送った。急いでいないことは自分でも分かる。分かっていても同じ場所で止まる。
もう一度送る。三度目も同じだった。
「真ん中が残ります」
「残っとるな」
「急いでいません」
「急いどらんかったな」
ゼドルは椅子から立った。桶の縁に手をかけて傾ける。真ん中の残りが縁へ寄って、氷の下で水の動く音がした。
「桶は終いだ」
手が止まった。
「終わっていません」
「終わっとらん。終いだと言った」
「同じではないんですか」
「違う。終わっとらんうちに、儂がやめさせる」
ゼドルは水を捨てるように顎で示した。捨てて、伏せた。
伏せた桶の底はまだ乾いていない。乾く前に片づける物になった。
「戻して十五日、同じ場所で止まっとる」
「はい」
「同じ場所で止まる物は日を足しても動かん」
数えていたのはアシュだけではなかった。
春にこの人は届く日を言わなかった。言えばお前はその日まで数える、というのが理由だ。その人が、こちらの数えた日数と同じ数を今日まで黙って持っている。
「僕が遅いからですか」
「遅いのと止まっとるのは別だ」
ゼドルは椅子へ戻った。
「お前は、遅い自分を見たことがないだけだ」
責める声ではない。数を読み上げる声でもない。並べて見せる時の声だ。
急いどるうちは終わらん、と秋の終わりに言われている。急ぎは直した。直しても同じ場所で止まる。止まる理由は急ぎではない。
残った理由が何なのかを、この人も今日は言わない。
「新しい形の話は」
「まだ言わん」
言い方は前と同じだった。同じ言い方で来たのでこちらも同じ形で引いた。
分けて言われた分は待てば来る。待てば来るものを急いで聞くと来る形が変わる。それは春に一度やって済ませてある。
「明日から何をしますか」
「印を写せ。裏手の薪を運べ。冬は減りが早い」
「桶は」
「片づけた」
椀を片づけた日から、器は日ごとに大きくなって桶になった。
今日は桶を片づけた。片づけた場所には何も載っていない。
伏せた桶の脇に立って、そこに何も載っていないのをしばらく見ていた。見ても出てこない。出てくるかどうかを決めるのはこの人で、この人はもう椅子に座っている。
石板を出して印を写した。
今日は四つとも閉じた。線がどこへ伸びても終いには始めた場所へ戻る。戻らない形は印ではない。
桶が伏せられても石板の方は何も変わらない。写す手は器の大きさと関わりがない。
ゼドルは石板を受け取って、四つ目のところで指を止めた。止めただけで何も言わずに返してきた。
裏手の薪を六度運んだ。
今日は言われる前に運んだ。明日からはこれが言われた分になる。
いちばん外の束は雪をかぶって濡れている。濡れた分は竈の脇で乾かしてから使うのだと去年ここで教わった。だから内側の乾いた分から先に入れる。
多く抱えると足元が見えなくなるので抱える数は変えない。運ぶ回数の方を増やす。段が狭いのは夏も冬も同じだが、外から入った靴の底が濡れている分だけ今日は滑る。
「帰ります」
「ああ」
戸口を出たところで声が来た。
「桶は終わっとらんぞ」
「はい」
「伏せた桶は裏へ出しとけ。明日でいい」
一礼して、雪の坂へ出た。
下りは足の運びが上りと違う。踵から入ると滑る。爪先を雪へ食い込ませてから体の重さをかける。三度目でその歩き方になった。
坂の途中で町を見た。屋根の色が朝と変わっている。煙の上がっている家と上がっていない家が、その上でよく分かれて見える。
街道口の方角は今日は見えない。低いところに雲が下りていて、その手前で町が切れている。
下りきる手前で坂の端の雪が切れた。そこから先は昨日と同じ土の道だ。人の通る数が多い場所ほど雪は先になくなる。
――――――――――――――――――――
父が戻ったのは日の傾ききる少し前だった。
土間に外套を掛けて、そのまま庭へ来る。薪の台の端に積もった分を手で払って、払ってから座らずに立った。
「今日はやめておけ」
「はい」
庭の土は雪の下で凍りかけている。踏むと表だけが割れて、割れた下がまだ柔らかい。足の下が一歩ごとに違う高さになる。この上で十本振れば崩れるのは肘でも肩でもなく足だ。
アシュは掛け棒から鉄剣を下ろした。
振らん日も拭け、と言われている。
振っていない刃を拭くのは夏からやってきたことだ。今日が初めてなのは、振っていいと言われた後で振らずに拭くことの方だ。
汚れていないので拭くところがない。それでも白い方の布を当てて、刃の腹を端から端まで一度ずつ動かした。油を薄く引いて、片手で届く受けへ戻す。
父は庭の端の方を見ていた。
「雪の日は鞘の中が湿る」
「はい」
「振らんでも錆びる」
夏に、掛けておくだけでも錆びると言われた。あれは結果の方だった。湿るところまでは言っていない。
「街道口は」
「何も出ん」
言ってから父は続けた。
「今日から跡が出る」
顔を上げた。
「雪ですか」
「雪だ。通れば残る。人も獣も同じだ」
昨日までは何も出ないことを確かめて帰る日だった。今日からは何も通っていないことを確かめて帰る日になる。同じ「何もない」でも、確かめる物の方が変わっている。
「跡があったら分かるんですか」
「数も向きも出る」
「向きが出ると何が分かりますか」
「来たのか、戻ったのかだ」
父はそこで切った。切った先は言わない時の切り方だ。
アシュはそれ以上聞かなかった。
「積もると見回りは楽になりますか」
「歩くのは重くなる」
楽になる分と重くなる分が別々に来る。片方だけ数えると勘定が合わない。
風が生け垣を鳴らして抜けた。
鳴った音が昨日より短い。雪の日は音が遠くへ行かないので鳴り終わりが早く来る。
――――――――――――――――――――
夕餉の前に母が竈の横の光の付与石の覆いを外した。
冬は日が落ちるのが早い分、覆いを外す時刻も早くなる。台の上だけが明るくなって、卓の端は暗いままだ。向きの付いた光ではないので、置いた場所から丸く広がって、そこで止まる。
「今日は早いのね」
母は自分で言って自分で頷いた。
「毎年、雪の日から早くなるのよ」
兄が戻ったのは椀が並んでからだ。
「詰所の庭、雪掻いてから始めるんだよ」
「兄さんも掻くんですか」
「混ぜてもらってんだから掻くだろ」
兄は椀を持ってから思い出したように言った。
「掻いた分しか使えねえ。今日は受けだけだった」
庭が狭くなると振る稽古が減って受けが増える。塔の桶が伏せられて、詰所の庭が狭くなる。雪は場所の方から先に取っていくらしい。
「峠の荷、戻ってたわよ」
母が言った。
「僕も見ました。宿の壁際に下ろしてありました」
「傷む物から順に売るのよ。明日は魚が安いはず。安いけど、あれは急いで買う物じゃないの」
「なんでですか」
「安い日に買うと次の日にもっと安いのが並ぶから。冬の初めだけそうなの」
母は毎年、安い日と買う日を分けて話す。分けて話されると覚えていられる。
「まんま」
リアが父の方を見て言った。
「ああ」
父は椀を持ったまま返した。
ゆきが今日増えた。父の分はまだ来ない。
増える順番を決めているのはリアで、誰も終いを言わない。
卓の下でリアが足を振っている。当たった足を兄が押し戻して、押し戻された足がまた戻ってくる。
戸口の筵の隙間から庭が見えた。
昼のあいだに溶けた分の上に、また降り始めている。薪の台に平らに載った分が少しずつ厚くなっていく。
庭に残った足跡は父の物とアシュの物の二人分だ。兄は表から入った。
降っているあいだに浅い方から消えていく。




