第十一話
剣先が土を叩いた。
十本のうちの三本目だ。肘が先に伸びる。伸びた分だけ剣先が下がって、下がった先に土がある。
アシュは足の幅を確かめて、構えからやり直した。
「肘だ」
薪の台に腰を下ろした父が言う。言うのはそれだけで立っては来ない。
父は座って見る。立つのは言葉で直らなかった時だけだ。昨日は一度立って、肘の内側を指で押さえた。今日はまだ言葉だけで済んでいる。
直すところは昨日と同じだ。昨日直して、今日はまた元へ戻っている。木剣の頃から形を作るのは速いと自分でも思う。作った形が保たないことは鉄剣を振るようになって初めて分かった。
四本目。肘を残す。剣先は土に触れずに止まる。
五本目も止まる。六本目で肩が上がった。
「肩」
「はい」
言われた場所を下げると次の一本は別の場所が崩れる。崩れた場所を順に塞ぐ。塞ぐそばからまた別の場所が開く。桶の白と同じだ。端を揃えると真ん中が残る。
考えてから振ると、考えた場所は崩れない。考えない場所が代わりに崩れる。順に考えていくと十本のうちのどこかで考える方が追いつかなくなる。
考えるな、とは父は言わない。数えるな、とも言わない。直す場所だけを言う。
柄を握る手のひらは小指の下から熱くなる。木剣では熱くならなかった場所だ。熱くなる場所が違うのだから使っている場所も違うのだと思う。
十本目は一本目と同じ重さで来た。
木剣は違う。十本振れば十本目がいちばん軽い。軽くなるのは腕が慣れるからだと思っていた。鉄はいつまでも慣れさせてくれない。
「終わりだ」
「はい」
十本と決めたのは父だ。もう一本と言った日に明日にしろと返された。それきりこちらからは言っていない。
振った日も拭け、と言われている。白い方の布で刃の腹を拭いて、油を薄く引いて、掛け棒の片手で届く受けへ戻す。
片手で届く受けから外すのは、いちばん上から下ろすのとは別の動きだ。爪先を立てる用がない。柄を握って、刃の下へ左の手を添えて、それで済む。済む分だけ手応えが軽い。
いちばん上には木剣が掛かったままだ。触らない日が続いて、受けの木はまだ色が変わらない。
敷居の内側からリアが見ていた。
「あしゅ」
「なに」
「なんで」
「振っていいと言われたから」
リアは両手を上へ伸ばした。振る真似らしい。上げただけで満足して下ろして、母の膝の方へ戻っていった。なんでは続く日もある。今日は一つで済んだ。
兄は詰所へ戻っている。休めと言われたのは一日だけだ。
見回りは五人で回していて、今日は父の番ではないらしい。番でない日も日が傾く頃には家にいる。庭に父が立ってから掛け棒の鉄剣を下ろす。
見ている時だけ、と言われている。
触っていい物になったのに、待っている時間の方がまだ長い。
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次の日の朝、水汲みで掛け棒の下を三度通った。
鉄剣は片手で届く受けにある。夕方までは掛かったままの物だ。通るたびに見上げる。手は出さない。
井戸の水は一度目より二度目の方が冷たく感じる。手が冷え切る前に汲み終える運び方を、この頃は体の方が先に覚えている。
昼、母の使いで塩を買いに出た。
市場通りは冬の前の道具の音がしている。研ぎ石の音は今日は一軒だけだ。宿の裏の方から杭を打つ音が重なって届く。柵を直しているらしい。誰の仕事かは知らない。
宿の前を通ると馬繋ぎに馬が二頭入ったままになっていた。昼の日の下で首を振っている。荷を引く馬が昼から町の中にいるのは荷が出ていないということだ。
宿の壁のところで男が二人立ち話をしていた。
「峠の荷、まだ出ねえのか」
「出ねえとよ。日があるうちは待つんだと」
「待って雪が来たらどうすんだ」
「来たら春までそのままだろ」
「見回りはいつまでやるんだと」
「四匹で終わりならじきにやめるだろ」
笑い声はなかった。
井戸端の方から、洗い物の桶を抱えた女が二人下りてくる。
「街道口、ヴァルドさんとこが立ってるんだってね」
「見てもらえるなら安心だよ」
「うちのは夜は歩くなって言うんだよ」
「団の人らも同じことを言ってるらしいよ」
二人は坂の下へ下りていった。
アシュの名前ではなく父の名前が回っている。秋に笑い話へ使われた名前が、今日は安心の側で使われている。
塩を量ってもらって、袋の口をねじって籠に入れた。
仕立て屋の前ではマレンが板戸を半分閉めていた。冬は日が短い。店を閉じる方の手が先に早くなる。今日も会釈はない。
ヨナスの台の前を通ると声が来た。
「北へは行ってねえな」
「行っていません」
「おう」
それだけ聞いて、ヨナスは次の客の青菜を束ねはじめた。確かめる声で、止める声ではなかった。
広場の隅では子どもが四、五人、凍り鬼をやっていた。
鬼が触ると止まる。止まった子は仲間が触るまで動けない。決まりはそれだけの遊びだ。誰の名前も出ないまま、決まりだけが残って回っている。
止まっている子が一人、寒さで先に音を上げて、鬼でもないのに走り出した。笑い声が上がる。獣の話をしなくなった分、広場は先に冬の遊びになっている。
アシュは立ち止まらずに通った。
市場通りの端に桶が三つ並んでいた。
低い台の上に一つ載せて、男が箍を叩いている。古い箍は切って外してあって、切り口が足元に落ちていた。新しい輪は桶より一回り小さく見える。小さく見える輪を、木槌で少しずつ回しながら胴へ叩き入れていく。桶が鳴って、箍が一段入る。
木槌を持つ手の、指の付け根が太い。爪は短く割れている。
顔より先に手で分かった。街道口でアシュの腕を掴んだ人だ。縄の人か箍の人か分からないままだったが、箍の人だった。
アシュは台の前に立った。
「このあいだはありがとうございました」
男は手を止めない。
「なんのことだ」
「街道口で腕を掴んで、道の内側に入れてくれました」
「……ああ」
木槌が二度鳴って、箍がまた一段入った。
「掴んだだけだ」
「はい」
「餓鬼は当分、北へ行くな。荷を見る用があるなら大人に頼め」
「はい」
男は次の桶を台に載せる。礼はそこで終わりだ。
名前は今日も聞かなかった。顔を覚えたなら足りる、と父は言った。名前を持って帰るのは町でアシュの噂を口にした人の分で、この人はその中に入っていない。
あの日、アシュを後ろへ回した手が、今日は箍を叩いている。掴んだ腕のことを、覚えていないような手つきだった。
――――――――――――――――――――
坂を上ると風の当たる側が変わる。
塔の中は外より暗くて、外より寒くない。
桶に、アシュの張っていない氷があった。
薄い。指で押すと真ん中から割れて、割れた縁が水に浮く。
「夜が張った」
ゼドルは椅子から言った。
「剥がしてから始めろ。夜の分はお前の物ではない」
「はい」
剥がした氷を手のひらに載せてみる。端が厚くて真ん中が薄い。寒さは端からやる。一晩かけて、急がずに端からやって、それでも真ん中までは届いていない。
手本だと言われた形が、頼まなくても毎朝来る季節になった。
「大牙は」
「あれから出ていません。父たちが見回りに立っています」
ゼドルは短く頷いた。それ以上は聞かない。
水を張り直した。春より長く、冷たさが手に残る。
アニマを送る。端から白が来る。縁は同じ速さで閉じて、真ん中は指の幅一つの内側で止まる。そこから先は今日も減らない。
椀は小さい、小さいうちは端しかない、と桶を始めた日に言われた。桶には真ん中がある。真ん中のある器で、アシュはまだ端しか凍らせていない。
秋のはじめより白の残る時間が長い。溶ける方が遅くなっているからだ。溶けるのが遅くなる分、張る方は楽になる。楽になっても真ん中は残る。
もう一度張り直した。二度目も真ん中は同じ幅で残る。どこで止まるかはもう分かっている。分かっている場所で止まるのを、今日も一度ずつ確かめた。
「真ん中が残ります」
「残っとるな」
「寒くなれば届きますか」
「寒さが届かせた物はお前の物ではない。夜の氷と同じだ」
ゼドルは続けた。
「水も風も、お前は覚えるのが早かった」
「はい」
「氷だけが遅い」
責める声ではなかった。数を読み上げる声だ。何と比べてかは言わない。
「遅いのは悪いことですか」
「悪いとは言っとらん。遅い、と言っただけだ」
それきりゼドルは高窓の方を向いた。
水と風は早かった。氷だけが遅い。並べられて、初めて自分の中の並びが見えた。
どこで違うのかは桶を見ていても分からない。
石板を出して印を写した。今日は三つとも閉じた。閉じる前に別のことを考える日と考えない日がある。何が違うのかは自分でも分からない。
ゼドルは石板を一度だけ見て、何も言わずに返した。言われない印は通った印だ。
新しい形の話は、今日もこちらから聞かない。まだ言わん、と言われている。分けて言われた分は待てば来る。
桶が終わる頃には雪が来ている、と秋の終わりに言われた。夜の氷が毎朝来るようになったのなら雪までの日はもう多くない。
終いを言うのはこの人だ。アシュは終わった日数を数えて待つ。毎日少しずつ回して置いていた桶を元の向きへ戻して、今日で十一日目になる。
帰りの坂の途中で、町の屋根の向こうに街道口の方角が見えた。
荷車の影が二つ、昨日と同じ場所にある。そのそばに人が二人立っている。誰が立っているのかはここからでは分からない。動いてもいない。
何も起きていない、が続いている。続いているあいだも桶の日数と同じで一日ずつ進んでいく。
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夕方の庭で、また十本振った。
父が戻るのは日の傾ききる少し前だ。土間に外套を掛けてからそのまま庭へ出てくる。座るのは薪の台の、庭がいちばん広く見える端だ。
アシュは掛け棒から鉄剣を下ろして、庭の真ん中に立つ。ここまでの順番は三日で決まった。決めたつもりはない。同じことを三日やると順番の方が先に決まっていく。
肘は五本目まで残った。六本目で崩れて、七本目で戻した。昨日は三本目で崩れている。
「崩れるのが遅くなったな」
父が言った。立って直しに来たのは一度だけだ。
「父さん」
「なんだ」
「今日、市場で礼を言いました」
「誰にだ」
「箍の人でした。名前は聞いていません」
「それでいい」
「今日、僕の話をしている人はいませんでした」
「そうか」
父は土間の掛け棒の方を一度見てから庭へ顔を戻した。
「街道口は」
「何も出ん」
「もう来ませんか」
「分からん」
「分からないのに立つんですか」
「分からんから立つ」
父は言い足さなかった。
立って何も出ない日は、無駄になった日ではないらしい。何も出ないことを確かめた日として数えるのだと思う。
「雪が積もったら庭で振るのは」
「雪のあいだはできん」
「拭くのは」
「続ける。振らん日も拭け」
振れる日はあと何日あるのか。
数えようとして、数えられないと分かった。桶の日数はアシュが数えている。雪の日は誰も数えられない。来た日に分かるだけだ。
数えられない日数を待つのは初めてだ。
白い方の布で刃の腹を拭く。
振った手のひらが熱い。熱いのは布を持つと分かる。
北から来た風が生け垣を鳴らして抜けた。
拭き終えた刃に息が触れて、曇って、すぐ消えた。
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兄が卓に着いたのは椀が並んでからだ。
「ガイのやつ、まだあの木剣で振ってんだよ」
兄が言った。
「ひびが入っているんですか」
「柄の少し先にな。木が割れかけてるから振るとそこが震えて鳴るんだよ」
「替えないんですか」
「あいつの親父が替えるまで振るんだとさ」
「振りにくくないんですか」
「本人はいつもどおりの顔してるよ」
それで木剣の話は終わった。
兄は今日も詰所で振っている。何本かは聞かない。兄も庭の十本のことを聞かない。互いに聞かないまま、卓の下で足だけがぶつかった。
「手首は」
父が言った。
「なんともねえって言っただろ」
「なら明日も詰所でいい」
兄は返事の代わりに椀を持ち上げた。
手首を回すところはあの晩の土間で二度見ている。今日は回していない。回していないのは本当らしいのでこちらからも何も言わなかった。
母は塩の袋を棚へ仕舞ってから卓に着いた。
「峠の荷、まだ出てないんでしょう」
こちらへ聞いた。
「出ていません。馬が二頭、昼から馬繋ぎにいました」
「荷が動かないとね、冬の物の値が決まらないのよ。決まらないうちは多めに買っておくの。うちはもう買ってあるから慌てないけど」
母は椀にかぶをよそいながら続けた。
「峠が閉まる前の買い物は毎年難しいの。今年は獣の分だけ余計に難しいのよ」
母の話は今日も値から始まる。
リアは椀の中のかぶを一つつまんで、母の椀へ置いた。
「みら、あげる」
置いてから自分の椀を覗いて、減った分だけ口をとがらせている。あげたのは自分で、減ったのは今知ったところらしい。
「あしゅ」
リアが椀越しに呼んだ。
「ここ」
言ってから父の返事の真似だと気づいた。リアは頷いて自分の椀に戻る。呼んで返事が来るとそれで用は済むらしい。
みらとあしゅは今日も出た。父の分はまだ来ない。
呼ばれない側の父は、呼ばれるまで待つ側でもある。待つのは庭のアシュと同じだ。同じだと思ったことは言わないでおく。
手のひらの熱は夕餉のあいだに引いていた。
引いたあとの手で椀を持つと椀の方が温かい。




