第十話
依頼の板が埋まっていた。
刈り入れの依頼はもう一枚も残っていない。日雇いの畑も藁の積み上げも十日ではけて、その分だけ依頼の板は空くはずだった。空いていない。
朝のうちに支部へ寄ると貼り替えたばかりの紙は端が浮いている。浮いた端が戸の風で鳴る。
左の上から三枚が一昨日の大牙の話だ。
依頼の板の前に男が三人立っていた。読める者は一人もいない。
いちばん端の男がこちらに気づいて、顎で依頼の板を示した。荷方の下働きの男だ。
「ヴァルドさん。そこ、読んでくれよ」
一枚目を上から読んだ。
「街道口の見回り。日の出から日の入りまで。日ごとに二人。まだ下りてくるものがないかを見張れ。出たら討て。頼んでいるのはガレア傭兵団だ」
「金は」
「金貨で一枚。牙と皮は持っていっていい」
「安いな」
「終わった話の番と思えばそんなものだ」
二枚目は峠へ出す荷の付き添い、三枚目は宿の裏の柵の直しだった。柵の直しには獣の字が一つもない。ただ、二年直さずにおいた柵を今日直す気になった理由は獣の字がなくても読める。
男たちは一枚目のところへ戻った。
「二人張り付けてるってことはもう出ねえってことだろ」
「四匹だったんだろ。片づいてんじゃねえか」
「片づいたなら見回りはいらねえよ」
「念のためってやつだ。ガレアも金は取るからな」
三人は笑って、それぞれの方へ散っていった。
片づいた、と町は読む。
こちらの読みは違う。四匹で終わりなら三枚も貼る用はない。三枚貼ってあるのに読んだ側は三枚とも「終わった話」として持って帰った。
帳場の娘は新しい紙に写しを取っているところだった。
いつから帳場にいるのかは知らない。座っているのは前にも見ている。書く手は遅い。遅いが、書き直しはしない。写しを先に書いて、あとから依頼の板に貼る方を仕上げる。順が正しい。
その手が三枚目の写しの上で一度止まった。止まってから脇に伏せてあった一枚を引き寄せて、そちらへ書き足した。
「それは依頼の板に貼らんのか」
「これは上へ回します」
娘は顔を上げなかった。
「一昨日の大牙のあとで来た紙が今朝で三枚になりました。同じ一つのことから来た紙が三枚並んだら、支部の判断で上の支部へ写しを回します。決まりですので」
「回すと何が来る」
「人が来ます。手の空いているパーティを回してもらうんです」
「いつだ」
「返事が来て、人が着くまでで半月は見てくださいと言われています」
半月。
娘は書き終えて、紙の端を揃えた。揃えてからようやくこちらを見た。
「町が騒いでいるから回すんじゃありません。三枚だから回すんです」
「分かってる」
規則で出た写しが、たまたま本当に要る人手を呼んでいる。
呼んでいることを知っているのはこちらだけだ。それを娘に言っても娘の手は同じ速さで同じ物を書く。書く物が変わらないなら言う用はない。
言わずに出た。
――――――――――――――――――――
詰所の裏で若い衆が筵の上に座っていた。
左の腕を胸の高さに吊ってある。布は新しい。
「腕は上がるか」
「上がりません。ひと月だとバルトさんが」
バルトは一昨日の夕方に呼ばれたらしい。街道口では手当てだけして、詰所まで運んでから治したという。あの男の使う治癒はレーベンヴィタの加護だ。あの精霊は血の気配を嫌う。待つ時間を惜しまないのでたいてい遅く見える。遅く見えて、治し残しはしない。
「骨は無事だそうです」
「聞いた」
若い衆は自分の腕を見た。
「牙は腕当ての上から通りました」
「通る。次は前へ出さずに横へ振れ」
「はい」
庭の隅でガイが木剣を振っていた。柄から手のひら一つぶん先にひびが入っている。振るたびにひびのところが震えて、濁った音が混じる。
音が変わっているのに振り方を変えていない。あの子の親父が替えてやるまではあれで振るのだろう。
フェイは表の間にいた。卓の上に外套を広げて、裾に乾いた泥を指で弾き落としている。濡れているうちには触らない男だ。
「川は渡ったのか」
「渡った。昨日だ」
フェイは手を止めた。
「猟師の小屋はあった。火を焚いた灰が古い。五日も六日も前だ」
「二人は」
「おらん」
「探したのか」
「日の落ちるまで見た。沢筋を下って、杣道の口まで戻った。出てこん」
フェイは指を三つ立てた。
「小屋の中に残っとった物が三つある。斧。獲物を吊るす縄。それと寝床の筵だ。斧は柄の側を上にして壁へ立てかけてあった。縄は切れとった。刃物で切った切れ方じゃない」
「持って出た物は」
「弓だ。弓だけがない」
弓を持って出て、斧を置いていった。
冬の前に小屋を畳んで下りる猟師は、まず斧を担ぐ。薪の残りより先に持って帰る物だ。置いていったのなら遠くへ行く気はなかったということになる。近い。すぐ戻る気でいた。
「体も出んかったのか」
「出ん」
「血は」
「小屋の裏に、土の色が変わっとる場所が一つ。それだけだ」
フェイは外套を裏返した。裏側の裾にも泥がついている。
「跡の話をする」
「小屋の周りに跡がある。新しいのと古いのが重なっとる。重なっとるから数は出せん。だが、一晩に四匹が通った跡じゃない」
「どれくらいだ」
「言えん」
言えん、と言った。
この男が言えんで済ませることは滅多にない。済ませたのなら、重なった跡は一晩ぶんの厚さではなかった。
「もう一つある」
「北へ戻っとる跡がない」
卓の上でフェイの指が一度止まった。
「下ってきた跡はある。戻った跡がない。四匹だけじゃない。どれもだ」
「戻れんのか、戻らんのか」
「分からん」
冬の前に獣が下りてくるのは毎年ある。下りてきて、食って、戻る。戻るから毎年の話で済む。
戻らないのなら毎年の話ではない。
「ガルド」
「なんだ」
「あれは下りてきたんじゃない。出されたんだ」
出された。
誰に、とは言わなかった。こちらも聞かなかった。聞いても答えの出る顔をしていない。
「館へは」
「言えん。跡は消える。見たのは俺の目だけだ。持っていける物が一つもない」
去年、あの商人の時も同じだった。身元は洗って全部本物で、館へ持っていける物が一つもなかった。
今度は相手が獣になっただけで持っている物の量は変わらない。
「支部の依頼の板に三枚出とる」
「見た。支部は上へ回すそうだ」
「来るのか」
「来る。半月だ」
フェイは笑わなかった。笑う代わりに外套を畳んだ。
「半月なら、間に合うか間に合わんかは半月経たんと分からんな」
「そうだ」
「見回りは受けたか」
「これから受ける」
「受けろ。うちの二人は日の入りまでだ。日が落ちてからは誰も歩かせん」
――――――――――――――――――――
昼過ぎのランドの店は客が引けている。
昼の飯を出す時間が終わって、夜の仕込みが始まるまでのあいだは奥の卓が空く。この時間に五人で座るのは去年の冬以来だ。
オルトが先に来ていた。バルトはその隣で薬の袋を縛り直している。ライナは遅れて入ってきて、腰掛けを引く前に外の方を一度見た。シアはもう座っていた。入ってくるところは見ていない。
「若いのは、その場では治せんかったのか」
バルトに聞いた。
「治せません。血を止めて、洗って、血の気配が引くのを待ちました」
「待って間に合ったのか」
「間に合いました。ひと月かかるのは腕の中に土が入っていたからです」
バルトは袋を仕舞った。この男はいつも要ることだけ言う。
「依頼の板に一枚出ている」
依頼の中身を順に言った。街道口。日の出から日の入り。日ごとに二人。獣が出たら討つ。金貨で一枚。フェイが川向こうで見た跡が多いという話も、ここで言った。
五人いれば二人ずつで回る。残りの三人はその日ほかの用に使える。
「安いね」
ライナが言った。
「四匹ぶんだ」
「四匹ぶんの値がついてるってことは四匹で終わったと思ってる人が値をつけたってことでしょ」
「そうだ」
「北へ入る紙は出ないの」
「出ない」
オルトが卓に肘をついた。
「出るわけがないだろう。誰も見ていない。見ていない物には値がつかない。値のつかない物は紙にならない」
「フェイさんが見たじゃない」
「傭兵団の団長が跡を見て、数が多いと言った。それだけだ。ギルドは跡では動かない。人が食われたと分かれば動く」
「猟師の二人は」
「出てこないんだろう。出てこないうちはいなくなった人だ」
ライナが黙った。黙ってから腰掛けの脚を靴の先で一度突いた。
オルトは指で卓を二度なぞった。轍のように二本だ。
「大牙が四匹、街道の口まで来た。前へ出た四匹が真っ直ぐ来て、真っ直ぐ馬を食った。あれは群れの端だ」
「端だと何が違う」
「端が来ているうちは、まだ真ん中が来ていない」
なぞったところを手のひらで払った。
「北回りの行商が道を変えたそうだ。馬が嫌がると言ったらしい。鹿の出も悪いとな」
「聞いていない」
「秋の始めだそうだ。俺も昨日、支部の前で聞いた」
同じ町にいて、同じ話を秋の始めから誰かがしている。
こちらは今日まで知らなかった。
「丘陵から鹿がいなくなったんじゃない。鹿を食う獣が増えたんだ。増えた分が食い尽くしたなら次は下りてくるしかない」
「オルト」
「なんだ」
「増えたのはなぜだ」
「知らない」
オルトは肩を落とした。それきり続きを言わない。この男が黙るのはこれで二度目だ。一度目は去年の冬に街道で野営をした夜で、あの時も黙るまでは喋っていた。
「北を見てくる」
シアが言った。今日の最初の言葉だった。
「一人で川を渡るな」
「渡らない」
「日が落ちる前に戻れ」
「戻る」
それで終わりだった。この女はいつも用のある言葉しか出さない。
「あたし、今年の冬は町にいるよ」
ライナが言った。
「南の絹の隊は」
「断った。去年と同じ理由。あんたが受けないなら、あたしも受けないの」
「去年と同じ理由ではないだろう」
「同じでしょ。パーティが割れたら困るのはあたしなんだから」
五人とも体が空いている。
ギルドにはほかに三つほどパーティがいるだろう。どのパーティも依頼で動く。北の依頼は出ない。
半月のあいだ、動かせるのはこの五人と、腕をやられた一人を除いたガレアの十四人だ。館の兵は正門と館の中を受け持つ。町の外れの第五地区は後回しになる。去年もそうだった。今年も変わらない。
館からはまだ何も言ってこない。公爵家の一筆をもらってから一年近くになるのに代の話は一度も出ていない。
ベルツの方は呼ばれれば断れない約定だ。三年のうちの一年目がまだ半分も過ぎていない。
どちらも今日の話ではないが、二つとも片づいていない。
「受けるよ」
ライナが言った。
「まだ何も言っていない」
「言わなくても分かるでしょ。あんたが依頼の板の話を五人の前でするときはもう受けてるんだよ」
――――――――――――――――――――
家に着いたのは日が傾いてからだ。
土間ではミラが竈の灰を掻き出していた。前掛けの膝のところに灰がついている。
リアが敷居の内側から手を伸ばした。
「まんま」
「どうした」
抱き上げるとこの子は満足して身をよじる。降ろせという意味だ。抱き上げるところまでが用で、抱かれることは用ではないらしい。
降ろすと母の膝の方へ行った。
「上は」
「詰所。アシュは坂の上よ」
「振ったか」
ミラは灰を掻く手を止めた。
「振った? ああ、鉄剣のこと? 振らないわよ」
「なぜだ」
「あんたが見てる時だけって言ったんでしょう。あんたが帰ってから振るって、下ろしもしないで待ってるの。昨日もそうだったわ」
言ったとおりに待っている。
土間の掛け棒には鉄剣が片手で届く高さに掛けてある。今朝、あの子は水汲みの行き帰りにその下を通るたびに見上げて、手は伸ばさなかった。
「今日、支部の依頼を受けた」
「いくら」
「一枚だ」
「日にいくらじゃなくて、締めて一枚なの」
「そうだ」
「いつまでって決まってるの」
「書いてない」
ミラは灰を桶へ移した。
「うちの店で、祝いの席をまとめていくらで請けたことがあるの。当日になって人が増えたのよ。値は先に決めてあるでしょう。あたしは納得しなかったの。でも父がね、祝いの席で揉めるもんじゃないって。増えた分はうちが持ったわ。この依頼も締めて一枚なのに、いつまでかも書いてないんでしょう。長引いた分はあんたたちが持つのよ」
「そうだな」
「行くの」
「日の入りまでだ。夜は行かん」
「なら、あとで振らせておやりなさい」
夕餉の前にひと通り見た。
十本だけ振らせて、直したのは一つだ。肘が先に伸びる。伸びた分だけ剣先が落ちる。落ちる場所を先へ持っていこうとすると次の一本で肩が上がる。
春に、上の子に同じことを言った。上の子は三日で直した。
下の子は木剣の頃から一日で形を作る。作って、しばらくすると元へ戻っている。作るのが速い子は戻るのも速い。鉄剣に替わってどうなるかはまだ分からない。今日で二日目だ。
「もう一本」
「明日にしろ」
「はい」
鉄剣を受け取って、拭く布の方を渡した。
――――――――――――――――――――
日の落ちる前に街道口まで出た。
荷車が二台、街道の脇に寄せてある。輪の下に石を噛ませてあって、荷にかけた縄は二重に締め直してあった。馬は二頭とも宿の馬繋ぎへ入れてある。
荷方は明日も出さないと言っている。峠が閉まるまでにはまだ日がある。日があるなら待つ、命を賭けて急ぐ話じゃない、と本人が言った。値の話をしなくなった男の言うことだ。
一昨日に馬の倒れた場所は、土の色でもう分からない。人が何度も踏んだからだ。
シアは日の落ちる前に戻ってきた。川の手前まで見て、新しいものは何も出なかったと言った。出なかったという話は依頼の板には貼れない。
杣道の口の雑木は、去年から切ると言われたまま残っている。梢の低い枝が風で一方へ揃った。
その先は畑で、畑の切れたところから丘陵になる。
北の丘陵は、ここから見ると低い。低く見えるだけであそこまでは半日かかる。丘の上には木があって、木の向こうにまた丘がある。何段あるのかは上ったことのある者でないと分からない。
日が落ちかけていて、尾根の線が一本だけ明るい。明るいのは向こう側に日が残っているからだ。こちらからは影しか見えない。
あそこには何かがいる。
いるはずだが、こちらの手の中には依頼の紙が一枚あるだけだ。街道口。日の出から日の入りまで。二人。獣が出たら討つ。
ガルドは風の来る方へ体を向けた。
北から来る風は、丘陵をひとつずつ越えてから町へ入る。越えてきた分だけ冷たい。匂いは何もしない。
尾根の明るい線が細くなって、消えた。
消えてからもしばらく同じ方を見ていた。




