第九話
市場通りの端で研ぎ石に刃を当てる音がしていた。
斧の刃だ。薪を割る道具は冬の前に一度に研ぎへ回る。当てて、離して、また当てる。当たる面が広いので包丁を研ぐ音より低い。
隣り合った二軒が戸口の前に出て、一つの研ぎ石を代わりばんこに使っていた。片方が終わるまでもう片方は待つ。待っているあいだも手は膝の上で動いている。
刃を当てるたびに水を含んだ石の粉が灰色の泥になって石の縁へ溜まり、それが親指で拭われて戸口の土へ落ちるまでのあいだに、次の一往復がもう始まっている。
アシュは籠を持ち替えた。
母に言われたのは三つだ。青菜を三束、塩を一掬い、それから街道口の荷を見てくること。
「荷は見るだけでいいのよ。何を積んでるかだけ覚えて帰ってちょうだい」
家を出る前にそう言われた。何が峠へ出ていくかで冬の値が変わるという。母の言うことは決まって値から始まる。
水は汲んである。鉄剣も拭いてある。白い方の布で拭いて、油は薄く引いて、掛け棒のいちばん上へ載せ直した。今日も真っ直ぐにはならない。柄の側が指の幅ひとつぶん手前へ出ている。
肉屋の台には何も並んでいなかった。冷却石は夏のあいだだけ使う物で、秋から仕舞われたままだ。
仕立て屋の前を通るとマレンが戸を開けて中の埃を箒で掃いていた。目は合わない。
ヨナスの台には人が三人並んでいた。
いちばん前に立っているのは祖父の店の給仕のソフィだ。籠が家の分より深い。店の分を買う人の籠はいつも深くて、下に筵を敷いてある。敷いた筵の縁が籠の口から少しはみ出していて、そこに昨日の泥が乾いたまま残っているので、この籠が毎朝この台の前まで来ていることは、持っているのが誰であっても分かる。
「今年はかぶが早いんだよ」とヨナスが言った。「霜が下りると甘くなる。甘くなると持たねえ」
「じゃあ二日で使う分だけ」
「そうしろ」
ソフィはかぶを一つずつ数えて籠へ入れる。入れながら後ろの女に向かって声の高さを変えずに続けた。
「北で馬がやられたんですって。うちのお客が言ってました」
「狼かい」
「そうらしいです。峠の前は毎年ですって」
女が笑った。
「じゃあヴァルドさんとこの下の子に頼めばいいんだよ。凍らせてもらえばさ」
ソフィは笑った。
笑って、それから台の脇に立っているアシュを見る。
笑いが途中で切れた。切れてから籠の中のかぶを並べ替えはじめる。並べ替える必要のない並びだ。
「……ミラさんにかぶが早いって言っといて」
「はい」
それだけだった。女の方はアシュに気づいていない。気づかないまま次の話へ移って、染物屋の糸がまた上がったと言っている。
ヨナスは笑わなかった。
この人は初めから笑わない。秋の市場で聞いた時も、今日も笑わない。
ソフィは笑っていたのをやめた。
やめたのもその前に笑ったのも見えている。
町でアシュの噂を聞いたら誰の口から聞いたかを覚えて帰れ、と秋に父に言われている。覚えて帰る口に入るのは笑った方だ。
「青菜、三束」
「はい」
ヨナスは三束を置いた。多くも少なくもない。
「北へ行くのか」
「荷を見てきます」
ヨナスは布巾で台の水を拭いた。拭き終わってから言う。
「早く帰れよ」
「なぜですか」
「なんでもねえ」
理由は出てこなかった。
この人は言わない方を選ぶ。前に青菜を一束多く入れた時も、なぜ多いのかは一度も言わなかった。
――――――――――――――――――――
市場通りを北へ抜けると町の家が切れる。
切れたところから先は轍だけが続いている。溝が浅い。この十日、重い荷はここを通っていない。供出の分が先に峠へ出てしまって、残りは今日まとめて積むと聞いた。
荷車が二台見えた。
遠い。荷の高さと車輪の高さの区別がつかない。人が七人か八人、その周りに散っている。どれが誰かは分からない。馬は荷車の前の方に固まっていた。
風は北から真っ直ぐ来ている。家並みが切れた先には遮る物がなく、北を向いた側の耳から先に冷えていく。冷える方の耳に音が乗ってくる。
女が二人、こちらへ小走りで下りてきた。前掛けのままだ。片方は井戸端でよく見る顔で、片方は知らない。
すれ違うときに知らない方が何か言った。言葉にならない。息の方が先に出ていた。
そのあとで馬が鳴いた。
馬の鳴き声は町の中で聞くのとは違う音になる。壁がないので伸びる。伸びた先で切れる。
アシュは走った。
籠を抱えたまま走ると青菜が跳ねる。跳ねた分が首に当たる。当たっても足は止めなかった。
人が動いた。散っていた七つか八つが、二台の荷車の内側へ寄っていく。寄ったぶんだけ荷車の陰が厚くなる。
寄せた先で何が起きているのかは荷の裏になって見えない。
二十歩ほど行って、腕を掴まれた。
「戻れ」
男だった。市場で見た顔だ。井戸端でも見た。荷の縄を編む人か、箍を直す人か、そのどちらかだと思う。
名前は知らない。
「離してください」
「戻れ」
掴み方は痛くない。振り払える掴み方でもない。肘の少し上を上着ごと掴んでいる。
二歩下がらされて、それから三歩下がらされた。下がった分だけ音が遠くなる。
馬が二頭、街道を下ってきた。
鞍も荷もつけずに道の幅をいっぱいに使って走ってくる。男がアシュを道の内側へ押し込んだ。押し込んだ手はそのために空けたのだと分かる。
二頭は通り過ぎて、町の手前で止まった。
男は掴み直して、それから向きを変えた。街道とアシュのあいだに自分の体を入れる。
外套の背中しか見えなくなる。横へ首を出すと肩が動いて、また塞がる。二度やってやめた。
土が鳴った。
重い物が横に倒れた音だ。馬の鳴き声はその後もしばらく続いて、途中で低くなって、止まった。
そのあとは同じ音しかしなくなった。
土を踏む音と、鼻を鳴らす音だ。獣は声を出さない。声の出ない物は音の数で数えられない。鼻の音はどれも同じで、重なると一つに聞こえる。まだ動いているのかどうかも分からない。
人の声はときどき短く上がる。どれも言葉になっていない。
一度、切れない方の声が上がった。上がってから続いた。
続いているあいだ、ほかの音が増えない。誰も走らない。誰も何も言わない。
息で数えた。数えるつもりはない。
十を過ぎたところでその声が止まった。
それから名前が来た。
「レイン」
誰の声かは分からない。
風は北から来ている。北にある音は南へ来る。町の側にいる者へは全部届く。
兄が詰所で持つのは木の棒だ。夕餉でその話をするとき、鉄の話は一度も出たことがない。
名前を呼ぶのはそこにいる者にしか用のないやり方だ。呼ばれたのなら兄はそこにいる。
木の棒でそこにいる。
去年の冬に街道へ出た時、魔法を使うかどうかで決めた三つを、アシュはその場で数えた。
一つ。父が使えと言うまで出さない。
二つ。人には向けない。足と、足の下に向ける。
三つ。一度に一つだけ。
父はここにいない。使っていいと言う者がいない。
向こうにいる物は見えない。人かどうかも分からない。
いくつ来ているのかは誰も言っていない。
三つとも守れている。
守ったのではない。破る場所まで行かせてもらえなかった。
向ける先が見えない。
男の背中の向こうで何が起きているかは音でしか来ない。音の来た方へアニマを送っても行き先を決めたことにはならない。
決めていない分はいちばん近くに立っている者のところへ行く。去年の冬に一度やった。あの時いちばん近くに立っていたのはバルトだ。崩れたのは薪の山だった。
今、いちばん近くに立っているのはアシュの腕を掴んでいる人だ。
唱えなかった。
我慢したのではない。唱えたらこの人に当たる。
男の手は緩まない。
こちらが暴れないと分かってからも掴む位置だけを変えて持ち直した。上着が肘の内側でよれて、そこだけ熱くなる。
音が減った。
減ってからも男は動かない。
街道の方から人が一人下りてきた。走ってはいない。町の手前で止まっている二頭の方へ行く。詰所で見た顔だ。
「兄がいます」
男に言った。男は街道の方を見たまま答えた。
「知ってる」
この人はうちを知っている。
男は前の方へ声を張った。誰かが返した。返った言葉は風で切れて、二つだけ届く。
子ども。無事だ。
「聞いたな」
「はい」
「帰れ」
手が離れた。
離れた場所が上着の上からでも分かるくらい残っている。
街道はまた見えるようになった。人が立っている。何人かは動いていない。どれが誰かは来る時に見たのと同じで分からない。
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帰り道で町の人と何度もすれ違った。
上っていく人はみんな街道口の方を見ている。下りてくる人はもう見ていない。一本の道で向きが二つある。
言葉は拾えた。四匹。一頭やられた。狼。狼じゃないらしい。腕をやられたのは団の若いのだ。
四匹、と誰かが言い、別の誰かも四匹と言った。
聞いた数だ。自分では一匹も見ていない。
それでも四という音は耳に残る。
籠の青菜は三束のままだ。跳ねたぶん端が折れている。塩は零れていない。
荷に何が積んであったかは一つも覚えていない。覚えているのは荷車の車輪の高さと馬が前の方に固まっていたことだけだ。
母に言われたのは三つだった。持って帰れるのは青菜と塩の二つになる。
家に着くと母は土間にいた。
いつもの昼と同じだ。リアが卓の脚のあいだで木の玉を並べている。誰も来ていない。
母は籠を受け取って、中を見ずに青菜の束を三つ数えた。指で数えた。数え終わってから塩の袋の口を確かめる。
「荷は」
「何を積んでいるかは見えませんでした」
「そう」
母は青菜の折れた端を指で伸ばした。伸びない。
言えることが一つもなかった。
獣は見ていない。四匹は聞いた数だ。名前を呼ぶ声は聞いた。そのあとで無事だと返るのが届いた。誰のことかまでは分からない。
名前を呼ぶ声が聞こえました、とだけ言えば母は前掛けのまま出ていく。
着いたところでできることは一つもない。アシュが今日そうだった。
母は籠を土間へ置いて、膝の脇の山から一枚取って広げた。針を布へ入れて、最初の一目で手を止めた。止めてから次の目へ行く。
塔へ行かない理由が一つも作れなかった。
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坂を上る路地は西へ折れている。塔は町の南西の外れだ。北の風はここまで真っ直ぐには来ない。同じ日の風でも当たる側が変わると冷たさの出方が変わる。
桶に水を張った。
毎日少しずつ回して置いていた桶を、元の向きへ戻して七日目だ。回していたあいだに、氷の縁は先に溶ける所がなくなって揃った。回している向きのせいで揃ったのなら戻せばまた元へ戻る。手が直ったのなら戻しても揃う。戻してからでないと分からないと言われていた。
桶にアニマを送った。
端から白が来る。手前も向こうも同じ速さで薄くなって、秋のはじめまで先に溶けていた縁が今日は先に溶けない。
真ん中は指の幅一つの内側で止まる。そこから先へは減らない。
「直っとる」
ゼドルは椅子から言った。
「はい」
「何日目だ」
「戻して七日目です」
「そうか」
縁が揃うまでに二十日かかった。揃ってから元の置き場所へ戻して、今日で七日になる。戻しても揃っている。
直った。直ったことは今日のうちに分かった。
分かったのに手の方はまるで受け取っていない。
「今日は手が遅い」
「……はい」
石板を出して印を写した。
一つ目は写せた。二つ目は閉じる前に線が止まる。線がどこへ伸びても終いには始めた場所へ戻る。戻らない形は印ではない。今日のこれは戻っていない。
「閉じとらん」
「はい」
「手のせいか」
「手のせいではありません」
言ってから続きを自分で見つけた。
「閉じる前に別のことを考えてしまいます」
ゼドルは石板を取り上げて、閉じ損ねた線の端を指で押した。押した指をそのまま置いて動かさない。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「今日、街道口に獣が出ました」
「数は」
「四匹だと聞きました」
「見たか」
「見ていません。聞いた分です」
「なら数は数えるな」
桶の日数を数えているのはアシュだ。この人は数えろと言ったことがない。
それでも今日は何日目だと聞いた。終わった日数は聞く。これから来る日数は言わない。
「唱えようとしたか」
「思いました」
「唱えたか」
「唱えていません」
「なぜだ」
「向ける先が見えませんでした」
ゼドルは指を石板から離した。
「見えていたらどうした」
答えなかった。
答えが出てこないのではない。出てきた答えを言いたくなかった。
それで終わるはずだった。
終わりにできなかった。
「ゼドルさん」
「なんだ」
「新しい形は桶が終わってからだと言われました」
「言った」
「終わってからでいいです。間に合う形はありますか」
「何にだ」
「今日、僕が数えたあいだにです」
老人は椅子の背から離れた。離れただけで立たない。
「ある」
「教えてもらえますか」
「教えん」
断るとき、この人は声を変えない。
「去年の夏に、ここで一度見ました」
「言ってみろ」
「ゼドルさんが焦げ跡のついた石を卓に出しました。指先で一度、それから石の上で一度。音はほとんどしませんでした。焦げた匂いだけが残りました」
「それから」
「詠唱が終わるのとほとんど同じ時に光が来ました。ためが、水を出す時よりずっと短かったです」
ゼドルは何も言わずに高窓の方を見た。長くは見ていない。
「覚えとったか」
「あの時に言われたことも覚えています」
アシュは続けた。
「加減が利かない精霊だと言われました。当たり所によっては心の臓が止まると。ゼドルさんも最初に習う時は師匠に三年待たされたと」
「言った」
「はい」
見たのは石に落ちたところだけだ。生きている物に当たるところは見ていない。
この人は言ったことを二度言わない。前にそう言われたことがある。
だから今のはアシュが言った。二度言わない分は聞いた側が持っておくことになる。
椅子が軋んだ。
「言っとらんことが一つある」
「はい」
「去年、お前の風の余りで薪が崩れた」
「はい」
「バルトは目を覚まさんかった。町に着いてから、自分の肩を自分で治した」
「はい」
「水は溢れる。風は暴れる。どちらも当たってから治す時間がある」
「雷は」
「当たった時に終わっとる。治す者を呼ぶ間がない」
アシュは膝の上の手を見た。
外した分はいちばん近くに立っている者のところへ行く。
街道口でいちばん近くに立っていたのはアシュの腕を掴んでいる人だ。
「桶がまだ終わっていないからですか」
「それもある」
「ほかにもありますか」
「ある。まだ言わん」
戸をくぐる前に、後ろから声が来た。
「縁は直った」
「はい」
「今日、お前が持って帰れるのはそれだ」
――――――――――――――――――――
家の土間に兄がいた。
鉄剣を膝の上に横にしている。竈の脇の箱から色のついた方を取って、刃の腹をそれで拭いていた。白い方は今日アシュが使って箱の手前へ戻してある。
当たっているところが濡れて見える。油ではない色がついている。
拭く手と振る手は別だと言われた。振った手が拭いているのを、アシュは初めて見る。
「兄さん」
「ああ」
「怪我は」
「ねえよ」
兄は手を止めない。止めないまま右の手首を一度だけ回した。回してからまた拭いた。
「振ったんですか」
「……振った」
「何匹」
「一匹だ。止めは副長」
それ以上は言わなかった。
聞かなかったことが一つある。振った時に何を思ったかだ。聞けば答えるかもしれない。答えた分は兄の側から出ていくことになる。
兄は塔で何を習っているかを一度も聞かない。だからこちらからも聞かない。この決まりは今日も動かなかった。
「明日、フェイさんが川を渡るってさ」
「猟師の人ですか」
「小屋まで見に行くって」
「見つかりますか」
「知らねえ」
母は繕い物の手を止めない。
昼に一目だけ止まった手が、今は一度も止まらない。止まらない針の方が速く進んで目が細かくなっている。細かい目は丈夫だが、同じ袖の同じ場所を二度縫うと生地の方が先に切れる。
母は同じ場所を二度縫っていた。
日の落ちる少し前に父が戻った。
荷の付き添いで出ていて、詰所の前を通って戻ったらしい。土間へ入る前に外套の裾の土を落としていた。
「聞いた」
それが最初の一言だった。母が頷く。
父は掛け棒の方を見て、それから兄の膝の上の鉄剣を見た。見ただけで何も言わない。
兄は拭く手を止めて、右の手首をもう一度回した。
父が椀を持つのを待って、アシュは言った。
「父さん。今日、市場で聞きました」
「言え」
「ソフィさんです。北で馬がやられた話をしていました。そのあとで一緒にいた女の人が、僕に頼めばいいと言いました」
「その女は」
「名前を知りません。顔は覚えました」
「その女で一つだ。名前は要らん、顔で持っておけ」
「はい。もう一つあります」
父は椀を置いた。
「街道口の手前で、腕を掴んで帰らせた人がいます。市場で見た顔です。名前が分かりません」
「顔を言え」
「背は父さんより低いです。指の付け根が太くて、爪が短く割れていました。縄か箍を扱う人だと思います」
父は少し黙った。
「名前は要らん」
「はい」
「顔を覚えたなら足りる。次に会ったら礼を言え」
名前を持って帰る仕事は、聞いた話の分だ。この人はその中に入っていない。
アシュは頷いた。
礼を言うことになるとは思っていなかった。あの手はアシュを後ろへ回した手だ。回されたから何もできなかった。
その手に礼を言うのが、明日からの仕事に一つ加わる。
「父さん。今日のは狼じゃないと聞きました」
「狼じゃない」
父は椀を置き直した。
「大牙だ。足は猪で、顔は狼だ。狼より一回り大きい。口を閉じても下の牙が唇の外へ出ている。見分けるのはそこだ」
初めて聞く名前だった。
「強いんですか」
「一匹なら大人が一人で足りる。弱い方だ」
「弱いのに、団の人は腕をやられました」
「弱い物が群れると、強い弱いの話ではなくなる。四匹なら四人要る。四人しかおらんかったら、五匹目は通る」
「今日は四匹でした」
「四匹だった。だから片づいた」
強い弱いの話をしていない。何匹来て何人いるか、の話だ。
アシュは今日、その勘定の外にいた。外にいたから何も起きなかった。
「レイン」
「なんだよ」
「明日は庭にしろ。詰所は休め」
「なんで」
「手首を回してた」
「なんともねえよ」
「なら一日空けても困らんな」
「……分かった」
父は詰所の前を通って戻っている。何があったかは聞いてきたはずだ。
それでも家で言ったのは手首のことだけだった。
兄は不服そうな顔をして、それ以上は言わなかった。
リアが卓の脚のあいだを抜けて父の膝の横へ来た。
「まんま」
「ここだ」
リアは満足したらしく、父の膝を一度叩いて母の方へ戻っていく。
この妹の口から出る名前は今日も三つだった。四つ目だけがまだ来ない。
片づけが終わってから父が土間へ下りた。
「アシュ」
「はい」
掛け棒の下に立たされた。
四本掛かっている。父の剣。兄の鉄剣。兄から受け継いだ木剣。いちばん上が自分の鉄剣だ。
「下ろせ」
下ろした。爪先を立てて、柄の端に指をかけて、手前へ滑らせる。夏より手数が少ない。両手で受けて、膝で受け止める。
重さは夏に思ったのと変わらない。軽くもならず重くもならない。
柄の木は夏から毎朝握って拭いた分だけ手の脂を吸ってそこだけ滑らかになっていて、灯りの届かない土間でも、指の腹がその場所を先に探し当てる。
「振っていい」
アシュは父を見上げた。
「明日から振っていい。庭でだ。俺が見ている時だけだ」
「……はい」
「人にも獣にも鉄を向けるな。向ける稽古はまだ先だ」
「はい」
「振った日も拭け。拭く手は増えるだけで減らん」
「はい」
父は掛け棒の受けの木を指で押した。押すと少し鳴る。
「なぜですか」
「獣が出た」
「それだけですか」
「それで足りる」
足りるのだろう。
そう思ってから順番の方に気づいた。
今日、アシュは道の内側に立たされている。掴まれた腕を振り払わず音の順番を数えて、何も唱えずに帰ってきた。
その日の夜に振っていいと言われた。
振っていいと言われる日は、うれしい日になるはずだった。
うれしくならない。父が言った理由は獣が出たからだ。それを聞いたのは何もできなかった日の夜だ。
「父さん」
「なんだ」
「春に、持っておかんと使える日が来た時に借りることになると言いました」
「言った」
「今日ですか」
「今日は借りてない」
父は掛け棒から手を離した。
「借りるのは要る時に手元にない時だ。お前の手元にはある」
「はい」
「振っていいというのは要る日に手元にあるようにしておけということだ。要る日が来たとは言っていない」
「はい」
「峠が閉まるまでは日がある。獣は北から来た。北は峠の向こうじゃない。手前だ」
それだけ言って、父は先に居間へ上がった。
アシュは鉄剣を持ったまま掛け棒を見上げた。
いちばん上の受けは届かないようにするための場所だった。届いてしまってからは触らないと決める側の仕事になった。
今日からは触っていい物になる。届かない高さに置いておく用がなくなった。
木剣を下ろして、いちばん上へ載せ替えた。
鉄剣を、木剣が掛かっていた受けへ載せる。片手で届く。片手で届く高さの物は、拭いて戻すだけで一日が済む。
いちばん上に木剣が掛かっている。
載せ替えるあいだだけ、受けの木が見えた。そこだけ色が濃い。春から鉄剣が載っていた場所だ。




